堪(こら)え性の源から:家族のほとんどいない人間からの忍耐力
急性の下肢筋力低下で来院した30代の女性に対して、“多発性硬化症”の診断をくだした。神経系の難病である。
それは僕が、研修課程を修了し、専門の診療科でひとり立ちした矢先だった。そしてそれは、大学病院を辞めるまでの十数年、僕と彼女との長い長い付き合いのはじまりだった。
ステロイドの大量投与によって一旦は軽快するものの、すぐに再発してしまう。そのたびに麻痺が進行する。ステロイド治療の繰り返しとリハビリの継続、これが彼女に課せられた日常となり、僕は日々の病状を分析し、現況を説明する責務を負った。
命を奪われるまでの疾患ではなかったが、やがて下肢の機能は全廃し、車椅子生活を余儀なくされた。
医師として3年目に受けた僕にとっての医療の士気、および活力は、患者を治療して治すという“達成感”ではなく、治らない病気に対してなんとかサポートするだけという“消耗感”だった。
医師の能力は、病気に対する知識があるだけである。だから、その知識に則った結果、治るものは治るし、治らないものは治らない。治らないからといって、オリジナルな奇をてらった治療ができるわけでもない。典型的なマニュアル作業と言ってもいい。
言い訳をさせてもらうなら、医学で習うことは適正な治療法であって、治らない疾患のフォローに関して教えてもらえる学問ではない。そういうのを社会人3年目、見習いの終わったばかりの新人に負わせるというのは“酷”だと思うのだが、でもそれが現実である。要は、「この先は現場で考えろ」ということである。
この最初の洗礼が、僕の医療への取り組みの“礎”になったような気がする。すなわち、“受け入れは早いながらも、しつこい”ということである。どこかで観念しているけれど、あるいは冷めているけれど、でも、そのなかで執念深く最善を尽くそうとする態度である。
病院のスタッフから、「見切りが早いので、協力のし甲斐のない医者」と揶揄されたことがあるが、「木痣間先生の患者って、もうダメかと思っても、時間をかければいつも何とか持ち直しますね」という、嬉しいのか嬉しくないのかわからないようなことを言われたこともある。
自分の診療スタイルを客観的に見つめ直して考えてみると、冷たい印象を与えるけれど根気よく治療するということなのだろう。
医師だって人間なのだから、その素性というのは、――病気に対する取り組み方と言ってもいいが――、本人の性格に依存する。外科的な性格の人もいれば、内科的な性格の人もいる。
専門を選ぶ際に、医師は己の素性を分析して、自分に合いそうな診療科を選択する。当たり前と言えば当たり前だけれど。
小学4年生から6年生までの3年間、僕は強制されていたとはいえ“珠算塾”に通っていた。夕方の貴重な大部分の時間を、そろばん練習という苦役に費やしていた。その結果、コンクールで入賞するまでの腕を磨いてきた。
コンピューターの発達したいまの時代に、その技能は何にも活かせないが、良く言えば、忍耐力だけは身に付いたような気がする。役に立とうが立つまいが、じっと同じことを繰り返し、集中して作業をこなすという我慢強さだけは、ここで養われた。少なくとも“ずっと平行線に耐える”という、慣性のような状況にさらされても、さして抵抗しなくなった。
彼女には小さな娘がいた。面会の後、ひとりで悔し涙を流していることがたびたびあった。だから、どんな不具合があろうと、どんな挫折を受けようと、がんばれる力が発揮できる。家族の支えも、大きな忍耐力のひとつになる。
「彼女に対する医療が、自分の医療への取り組みの“礎”になった」と、先に述べたが、家族のほとんどいない僕にとっての堪え性というか我慢強さは、やはり学童時期の経験からくるもので、もっと言うと、自分で自分を支えるしかないからだろう。




