昨今のコロナ禍で目指すモノ:『男の大工』教室から
なるべく時事ネタを避けてきたが、さすがに昨今の新型コロナウイルス感染は無視できないレベルとなった。いま、このコロナ禍の教訓として、せめて僕に言えることは、「趣味の形態を変えていこう」ということだ。
ありきたりで、かなりズッコケる結論で恐縮だったが、少しだけ話しを聞いてほしい。
コロナ禍のなかにおいても継続している僕のボランティア活動のひとつに、『男の大工』教室がある。
少しだけ歴史を紹介すると、そもそもは仮設住宅等で孤立していた男性に対して、楽しみを与えようという目的で始めたものだ。これまでに、幼稚園にテーブルセット、NPO団体に整理棚、公園にベンチなど、公共的な場所で使用する木製品を100点以上作らせていただいた。
医者である自分に大工仕事のスキルがあるわけではなかったので、地元の建築組合の職人さんたちを巻き込むことで、彼らは無償で指導にあたってくれた。それには感謝しかない。
紆余曲折、つぶれかけた時期もあったが、なんだかんだで持続させている。
継続困難と言われている被災地でのボランティア活動に対して、なぜ自分は、そこまで“やり”たらしめているか? そのことを、このコロナ禍ではっきり自覚することができた。
それは、参加しているお父さんたちの楽しみややり甲斐というものを肌身で感じられるから、という理由がもちろんないわけではない。引退した“もと大工さん”が、「昔の感が戻ってきた」と喜んでくれたこともあったし、「やったことなかったけれど、モノ創りは面白い」と興味を持ってくれたりする“もと農家さん”もいた。
特に一次産業に従事していた人は、良質なモノを創りたいというマインドがあるから、こうした活動に馴染みやすい。特に、公共の場で使われるモノだから人目に触れやすく、役に立ったという意識が芽生えやすいのだ。
そんな仲間と一緒に作業をしていれば、自分も楽しくなる。既製のものを買ってしまえば一瞬で手に入るモノを1か月も2か月もかけて、ゆっくりと地道に創るのだ。
趣味と言われるようなモノを大別したとき、その中身には2種類あるような気がする。すなわち、既製を味わうか、あるいは創り手に回るかということである。
映画や芝居を観る、音楽や絵画を鑑賞する、スポーツや競馬を観戦するなどは、既製を味わう楽しみである。もちろんそれが悪いわけではなく、そういう行為も楽しい。
一方で、モノを創る、文章を書く、ジョギングやトレッキングや乗馬を体験する、というようなことをしてみてわかることは、これまた月並みなコメントになるかもしれないが、より進歩を感じられるということだ。
作品をひとつ仕上げた、先週より10秒早く走ることができた、百名山をひとつ制覇した、などなんでもいい。ささいなことでは、Twitterのフォロワー数が増えた、こうしたオンライン小説のアクセス数が伸びたということでも構わない。
どんなつまらないモノでも、できれば数字として目に見えるようなものが望ましい。
昨今のコロナ禍で、多くの人が仕事上のダメージを被っている。売り上げが激減し、立ち行かなくなっている人も多いだろう。そんななかで、せめて昨日よりも進歩を感じられるもの、それはすなわち先行きの見えないなかにおける”見えるリアル”というイメージが大切なのだ。
生業としている仕事以外に継続しているモノがあると、人間、自分を保つ力が増すような気がする。言い換えるなら、昨日より前に進んだと実感できる能動的な趣味だ。そういうものは既製のモノを味わうという趣味からはあまり生まれてこない。
創り手に回った活動が――クリエイティブな活動と言ってもいい――、なにより大事なのだ。
それからこういうときに大切なことは、いわゆる“独楽力(独りで楽しむ力)”なのだが、その一方、協働で困難を乗り切ろうという仲間も大切である。仕事の利潤だけでつながっている人ではない、また別のコミュニティでの仲間意識だ。ツラいのは1人ではないということを感じるだけでも、精神的な安定につながる。
ひねくれている自分は、自粛とは真逆な行動を取っている。
無理をする必要はないが、コロナ禍だからこそ逆に、「大変だから止めておこう」ではなく、「こんなことやっちゃっています」という意識が大切で、俄然やる気も出て、継続していこうという意思が固まっていくのである。




