“嫉妬”からの考察:自身へのジレンマへ
人間の感情としてもっとも厄介なのが、“嫉妬”である。
カトリック教会の“七つの罪源”のひとつであり、それ以外の六つ(傲慢、強欲、憤怒、色欲、暴食、怠惰)と比べても、感情のジャンルのなかにおいて、もっとも醜悪であろう。
“嫉妬”というと、「自分自身の愛する人が別の人に心を寄せることを怖れ、その人を妬み、憎む」という、恋愛にまつわる感情が一般的だろうけれど、僕にとっての嫉妬は、そういうものとはちょっと違う。
僕にとっての嫉妬対象のトップは、“太った人”である。
太った人は、言い換えるなら痩せる必要のない人である。夏の夕方、ときに倒れそうになるまで走っている我が身と比べて、運動もせずに食べたいものを食べたいときに食べたいだけ食べ続けられる人の、なんと羨ましいことか。
女性に関して言えば、結婚、出産を済ませた後にどんどん太る人がいる。若いころの体型をキープする必要がなくなったどころか、彼女らは、痩せなくても愛される保証を得た真の勝者である。
“二物を与えられた人”が羨ましい。
タレントとして成功した人が、作家としても活躍しているように、容姿端麗・頭脳明晰・スポーツ万能なうえに芸術の分野においても天才ぶりを発揮する人が結構いて、僕のような凡人の劣等感を大いに刺激してくれる。
マルチな才能を授かった彼らは、人生を二度楽しんでいるようである。
“老後の安心な人”は、言わずもがなである。家庭状況と経済環境に恵まれるなかで、なんの不安もなく過ごせている人は、現代社会における完全な勝ち組である。
そして、こういう人の多くはとても人当たりが良い。屈託のない優しい気持ちを有している。そのことが、嫉妬心をさらに深める。
他人の優れた点を見たとき、「それならば、きっと別の部分は劣っているはずだ」と勝手に思い込むことで己の精神的な平衡を保とうとする。そうすることで無意識のうちに心のバランスを求めようとする。
しかし、欠点がなかったとしたら・・・。
天からすべてを与えられた才能や魅力に溢れた人を目の前にしたとき・・・・・・、心のバランスが崩壊してしまう。
僕のような邪悪な人間は、どうやって己の心を鎮めたらいいのだろうか
どんなに強くみえる人にも、本当は触れて欲しくないトラウマがあって、握られたくない弱みがあって、泣き叫びたくなるような過去がある。どんなに陽気な人にも、逢いに行きたくなるような人がいて、もう二度と逢えない人がいて、死にたい夜がある。
子供や家族の写真をSNSにアップし続ける人に本当に足りないものは、家族からの注目だと思う。同じように、恋人のことばかりを話す人に足りないのは、愛されているという実感ではないか。
正義を求めて理不尽ばかりを語る人は、それ以上に周りに理不尽を押し付けている。口を開けば文句しか言わない人には、それ以上に周りから文句を受けている。
一見、優しい人は、いざというとき冷たい。逆に、冷酷な人は、かつて優しくし過ぎた時期があった。
お金のことばかりを話す人の預貯金は足りていないし、友だちとの行動を発信し続ける人に親友はいない。
嘘や虚偽の内容には、本人がなんとしても隠したいもの、あるいは守りたいものが雄弁に語られる。仲良くなればなるほど相談できないことも増える。友だちにすらできない話しが、本人にとって唯一の真実である。
もっと本質を言うなら、友情は距離が離れてからが大切だし、恋愛は好きなところが見えなくなってからが闘いである。誰にも相談できない恋愛が真実だとすれば、おそらく結婚は倫理や道徳を持ち出すようになってからが勝負だろう。
SNSはうざったくなってから、仕事はなんのためにやっているのかわからなくなってから、老後は仕事を辞めてから、家族は事件や事故が起きてから、そして、人生は身体が壊れてからが本番である。
翻って、僕にとってこうして何かを語るということは、語ったことよりも、語れなかったことの方に圧倒的に真意や本質が多いということである。
そういう意味で、書くたびに私がいつも思う板挟みは、「自分の想いというのは、いかに言葉にならないか」ということである。書くという行為によって成し遂げていく所業は、自分のなかにある言葉にできない部分を再確認、再構築し、形のないものとしていかに形創っていくかである。言葉にしきれなかった言葉の痕跡が、言葉になっていくのである。
嫉妬の鎮め方を説きたかったが、結局、自身へのジレンマに対して、僕はもっとも嫉妬心を抱いているのかもしれない。




