ちいさな猫のものがたり
玄関からの重苦しい金属音は、彼の帰宅を知らせるチャイムだ。
「ただいま」
「おかえりなさい。ごはん、作っておいたよ」
エプロンを外しつつ、わたしが少し上機嫌でそう言うと、彼は微かに鼻を動かした。
「ん。この匂いは‥‥‥鮭か?」
「あったり~」
今日の夕ごはんは、焼いた鮭の切り身。彼の大好物の一つだ。
「じゃ、食べ――」
よほど早く食べたいのか、彼は着ていたスーツを手早くハンガーに引っ掛けて、スタスタとやってくる。
「手、洗った?」
そこでわたし、すかさずその一言。
「あ」
まるでお預けを食らった猫のように、彼は悄然として洗面台へ。
「うがいもねー」
「おぅ」
しばらくして、若干速足で戻ってきた。
大人二人が暮らすには若干狭いアパートの一室。
大きなテーブルも椅子も置く余裕などなく、カーペットを敷いた床の上に座る。
「さて、いただきます」
「いただきますっ」
彼はパンっと手を合わせて、すごい勢いで鮭に食らいついた。
目が輝いてる。
「鮭ばっかり食べないの」
「む」
――うん、こういうちょっと子供っぽいところが、可愛くて、好き。
食べ終わって、わたしが食器を片付けている間に、彼はお風呂に入る。
上がってきたら、次は私の番だ。
その間、彼は大抵会社の会議の資料を作ってたりする。
私が上がると、彼も作業をパタンと止めて、お話の時間。
彼が気まぐれで飲み物を入れてくれる。今日はミルクティーらしい。
コトっと置かれたマグカップから、一口すする。
程よい甘みが口の中に広がって――幸せ。
「お仕事、順調?」
「ん。まぁまぁって感じだ。でも、任される仕事は増えてる」
「おぉ~。じゃあ、今日の帰りがちょこっと遅めだったのも、お仕事かぁ」
「‥‥‥そんなとこだ」
「わたしはね、今日は‥‥‥あれ? 今日何したっけ」
「今日もぐーすか寝てた」
「うん‥‥‥って違うよ! 『も』って何!? 『も』って!」
彼はわたしの声に肩を震わせて笑うと、ふと何かを思い出したように立ち上がって、カバンを探り出した。
取り出されたのは‥‥‥
「これ‥‥‥えっと?」
「今日、記念日‥‥‥えーと、付き合い始めて1年目」
「‥‥‥あー」
彼から差し出されたのは、ペンダント。パーツ一つ一つに丁寧なあしらいがされている。
「む? 気に入らなかったか」
「ううん。ううん、そうじゃないよ。すごい嬉しい。とっても」
受け取って、しばらく眺める。
「そっかぁ、1年か」
「ん、1年だ」
「‥‥‥あのね」
「む」
1年と聞いて、ふと頭によぎったこと。うっかり口から出てしまった語り掛けに、彼は首をかしげる。
「‥‥‥わたしね、猫とか‥‥‥動物に好かれないの」
「む? うん」
「でもね、去年の、ちょうどこの時期、でもないか。3か月前くらいにね――」
近所にさ、野良猫がたくさんいるところあるじゃん。
そうそう、そこのマンションの裏の土手のとこ。
話したことあったっけ。私も会社で働いてたんだけどね。お仕事で疲れちゃったときは、ここからいつもそこに行ってたの。猫さわりたぁいって。
おかしいよね、逃げられちゃうの分かってるのに。
でね、ある日、そこに行く途中で突然雨が降ってきちゃって。慌てて雨宿りした軒先にね、いたの。ちっちゃな猫が。
はじめはね、びっくりして動けないだけなのかなって思った。ほんのちょっとのところにじぃっと座ってたんだもん。でも、そんな感じじゃなかった。
だからわたしね、ちょっと期待して、しゃがんでみたの。雨、すごいねぇって。
そしたらね、その猫、返事してくれたの。‥‥‥いや、返事かどうかは分かんないけど、にゃーって。
わたし、嬉しくなっちゃって。なでて良い? って聞いたら――ふふ、逃げられちゃったんだよね。
でね、次の日は晴れた日‥‥‥だったと思うけど、会社帰りに何となく行きたくなって、行ってみたの。
わたしを見るや否や逃げ出す猫が大半だったんだけど、あの猫だけは土手の階段にちょこんって座ってた。
また会ったね、にゃー。いい天気だったね、みゃー。って言って――
あ、ちょっと、笑わないでよ。割と思い出に浸ってるんだから。もう。
えーと、でも、その日も結局なでられなかったんだよ。
がっかりして、どうしたらなでさせてもらえるかって考えて、それでわたし、悪いこと考えついちゃったんだよね。
次の日、わたしは鮭のフレークを持ってったの。食べてる間に、ちゃっかりなでられるかもしれないって。ふふ。
どうなったかって? うん、成功したよ。割と嫌そうな顔してたけどね。
そんなこと繰り返して、結構経って、なんもなくてもなでさせてくれるようになったかな? ってくらいの時に、いきなりいなくなっちゃったんだよね、その子。
‥‥‥そのあとすぐにあなたと知り合って、仕事辞めて一緒に暮らし始めて。‥‥‥そういえば今どうしてるのかなー。
「‥‥‥っていうお話」
「オチが薄い」
「う、うるさいなっ」
「まぁ、でも、その猫も幸せなんじゃないか」
「そうだといいなぁ。‥‥‥うわっ。もうこんな時間!? 早く寝ないと‥‥‥」
「‥‥‥確かに、幸せだぞ」
「えー? なんか言ったー?」
「何も言ってない」
「そーぉ? じゃ、布団引くの手伝ってよ」
「ん」