その9
相模湾 相模川河口の南約5キロメートル
酒匂王国連邦海軍 第1航空艦隊第5航空戦隊 空母<瑞鶴>
加藤中佐は<瑞鶴>のフライト・デッキに降り立った。頭の上ではヘリコプターのローターが回転したままだった。ローターにぶつからないよう屈んでヘリコプターを離れた加藤中佐は、ローターの外に出ると出迎えの<瑞鶴>当直員3名と敬礼を交わした。
「最近よく会うな。加藤!」それは、三宅准将の声だった。
「三宅か? 気が付かなかったぞ!」出迎えの当直員だと思っていた一人が三宅准将だった。二人は、がっしりと握手を交わした。
「ようこそ<瑞鶴>へ」三宅准将の隣に立つ当直員もそういって右手を差し出した。その手を握った加藤中佐の手に当直員の気持ちが伝わってきた。それは敵意ではなく、むしろ親しみの感情だった。
そうしている間に、2番機“キャット01”が着艦した。機内からは、星川軍側の指揮官となった西方軍副司令官・岸本中将が降り立った。その瞬間、スピーカーを通してサイドパイプ(号笛)の音色が2度響き渡った。そして儀仗隊指揮官の「ささげー銃」の号令が響いた。乗艦した岸本中将に対する敬意の表明である。
「指揮官も到着されたようだ。行こうか。最初に司令部公室に案内するように言われている」
「わかった」加藤中佐はそういって頷くと“ブラックナイト02”に振り向き、右手を高く上げて親指を立てた。機長に対する心配無用のサインだった。
加藤中佐と三宅准将は、先導する当直員に従って艦橋に向かった。艦橋後部のドアをくぐって赤色の照明に照らされた薄暗い艦内に入ると、すぐ横に下へ降りるラッタル(階段)があった。当直員はそのラッタルを滑るように降りていったが、三宅准将はぎこちなかった。「加藤、船の階段は急だから気を付けろ」
「艦の造りはどの国も一緒だな」三宅准将に続いてラッタルを降りる加藤中佐が言った。
「そうだった。お前も黒い制服を着ているんだったな。星川の空母の階段はもっとましなんだろ?」
「同じさ。でかいのはフライト・デッキと格納庫だけ。すべて飛行機のものさ。人間様に割くスペースなんか二の次だ。不思議に思うかもしれんが、空母の乗組員になったら最初に人の多さに慣れなきゃならん。でかい空母とはいえ5千人以上が乗っているからな。」
彼らはさらに別のラッタルを降りて、ようやく司令部公室にたどり着いた。
「こちらが司令部公室です。お入りください」当直員がドアを開けて中に入るよう促した。
薄暗い通路から明るい司令部公室に入った加藤中佐は、目をしばたたかせて内部を眺めた。そこでは、一足早く司令部公室に案内された岸本中将が、酒匂軍の幕僚と握手を交わしていた。簡素ながらも心のこもった歓迎を受けた岸本中将の表情は和やかだった。
そうするうちに残りのヘリコプターでやって来た星川軍の幕僚も司令部公室に到着し、彼らも酒匂軍の幕僚と和やかに言葉を交わした。その光景は古い友人と再会を喜んでいるようにも見え、先日まで領有権を争っていた敵国同士には到底見えなかった。
和やかな雰囲気の中、艦内の説明を受けた星川軍の幕僚は酒匂軍の幕僚とともにCIC(戦闘情報センター)に隣接する司令部作戦室に移動した。その部屋は最新の電子機器に囲まれた現代戦を指揮するための部屋で、近代化改修の際に新設されたものだった。
司令部作戦室に入った両国の幕僚はすぐに仕事にかかった。まず最初にUSWESTCOM司令部(星川西方軍司令部)のJ-3(西方軍司令部作戦主任幕僚)、“歩くコンピュータ”高須賀大佐が星川軍の作戦計画を説明した。この計画を基本として酒匂軍の兵力が補強する計画を立案する。高須賀大佐は、その点を強調して説明を終えた。
続いて今回の共同作戦で酒匂側の指揮官である酒匂合同軍副参謀長・入江男爵と、星川側の指揮官である岸本中将が訓示を行った。その内容は、両国の指揮官とも「これまでの確執を捨て新しい友人と共に戦おう」というものだった。
指揮官の意図を確認した両国の幕僚は、それぞれのセクションに分かれて作業を開始した。
岸本中将は、多少ぎこちないながらも共同作業を進める両国の幕僚を眺めながら最後の難関を解決しようと隣に座る入江男爵に話しかけた。「指揮権と司令部の件ですが……」
入江男爵は分かっていますというように頷いて言った。「その件は幕僚の検討が進めばおのずと結論が出るでしょう。少しお時間を頂けますか。我々はそれに従う準備はできています」共同作戦とはいえ別々の指揮系統では現場が混乱してしまう。ただ一人に権限を集中して、ただ一人が命令を下す必要がある。戦力のほとんどは星川軍だ。このため今回は星川軍の指揮官が酒匂軍も指揮するのが当然だと入江男爵は考えていた。問題は我が酒匂の軍人がそれに納得するだろうか。もちろん我が国の軍人なら命令に従うだろう。だが、それだけではだめだ。目まぐるしく戦況が変化する戦場では、消極的に命令を遂行する者は危険な存在となる。だからこそ下からの積み上げで星川軍の指揮下で行動するようにしたいと入江男爵は考えていた。
「あなたのお立場は理解しているつもりです。ところで司令部はどちらに設置されるお考えですか」
「私としては相模川に配置する空母<カール・ビンソン>に司令部を設置しようと考えています。司令部機能だけを考えるならイージス巡洋艦がよいと海軍の幕僚は言うのですが、人員や物資の移動も考えると艦載機を直接使える空母が最適です。ただ艦載機の騒音だけは……なかなか慣れませんな」岸本中将はそう答えながら入江男爵の様子を探った。そして思った。懸念は杞憂に終わりそうだ。岸本中将の懸念とは、入江男爵と同じように「酒匂軍は星川軍の指揮下で自ら積極的に行動してくれるのか?」ということだった。指揮系統が一本化され、その下で長年共に行動しているKEITO(京浜条約機構)加盟国の間でも他国指揮官に抵抗をしめす者がいる。ましてや、今だ敵対関係が正式に解消していない相手の指揮下によろこんで入るだろうか。岸本中将は希望的観測で物事を判断するのは危険だと考えていた。場合によっては酒匂軍の派出兵力は予備兵力として待機させ、一切動かさない計画も立てていた。だが、その計画はゴミ箱行きだ。岸本中将は入江男爵とその幕僚を信頼できる相手だと判断した。情報部が集めた彼らの人物評価も同様の結論を出していた。我々と酒匂軍は一体となって行動できる。岸本中将の腹は決まった。
金目川支流 渋沢駅北北西約4.1キロメートル
香貫公国軍 A57基地
第586戦闘機連隊の整備員と器材を載せた2機のイリューシンIl-76M輸送機は30分ほど前に到着していた。巨大な輸送機の貨物室にあった器材は積み降ろされ、あとは本国に帰るだけだった。
全長14センチメートルの巨大な輸送機が駐機する畳み12畳ほどの貨物専用エプロンには、ジェットエンジンを停止して30分も経つのに排気ガスの匂いが充満していた。空気の流れが悪く、新鮮な外の空気が入ってこない澱んだ空気。それでも少しずつ排気ガスは移動して、瀬奈中佐に対する状況説明が行われている司令部テントに達していた。
その司令部テントの中では、ちょうど状況説明が終わったところだった。
「状況はわかったか。中佐! 遊んでいる暇はないぞ。」A57基地司令・大松大佐は、瀬奈中佐に向かって言った。
何よ! 軍団司令部の情報幕僚は、もっと詳しく説明してくれたわ。女だと思って馬鹿にしないでよ! 瀬奈中佐はそう思ったが表情には出さなかった。そんなことをしても石頭の大松大佐と溝が深くなるだけ。それよりも私が考えた作戦をこの石頭に認めさせるほうが先。それに星川の攻撃に対処する計画は何も説明されなかったわ。敵の動きに合わせて対応するだけでは勝てるわけないじゃない。みんな腐った空気のせいで頭の回転が鈍っているようね。なら、私が変えましょう。その前にもう一度確認することがあるわ。「星川は地上部隊を空から送り込んでくると考えているのですね?」
「そうだ。だから我々は地上部隊を載せた輸送機の接近を阻止しなければならん」腕を組んだ大松大佐がこたえた。
どうやって阻止するの? 大佐殿! 心の中でそう言った瀬奈中佐は、情報将校の顔を見た。「輸送機が離陸したら通報してもらえる手段はあるかしら?」
「あります。詳しい方法は知りませんが、R38基地に向かうであろう航空機があれば直ちに通報を受ける態勢になっています。現在では我々の情報要求は最優先となっています」
「“きのこ”(空中早期警戒機“A-50”)や空中給油機の支援が期待できないなかでは唯一の朗報だな」MiG-31Mの大隊長・長沢中佐がため息混じりに言った。
「でも、“きのこ”と空中給油機がないのは決定的に不利だわ。星川は当然“きのこ”を持ってくるでしょ。星川には空域を監視して指示してくれる手段があるのに私たちにはない。空中給油機がある星川は私たちよりも長く現場に滞空できる。これにF-22(星川空軍の最新鋭ステルス戦闘機)が加わればそうとう手強いわ」
「うれしい話ばかりだな。だが、MiG-31は星川には真似のできないスピードと、足の長いミサイルがある。それにF-22は出てこない。そうだな!」長沢中佐はそういって情報将校に顔を向けた。
「ええ。星川空軍のF-22は星川の大統領令によって生産が中止されています。生産機数が少ない上に星川の戦力削減に不安を募らせるKEITO(京浜条約機構)加盟国を安心させるため、最新鋭ステルス戦闘機であるF-22は東京方面に集中配備せざるを得なくなっています。このため星川の西にF-22が投入されることはありません。これらのことから、少なくとも星川の大統領は我々の仲間だというのが情報部の分析です」情報将校の最後の言葉に司令部テントの一同は笑った。
軍団司令部の情報幕僚から説明を受けていた瀬奈中佐もF-22が投入されないことは知っていた。F-22の話を持ち出したのは、自分の考えを話すきっかけをつくるためだった。「そうなら“きのこ”を排除すれば主導権を握れるわね」
「その点は我々も検討したのだが、空中給油機がないと“きのこ”を攻撃できる位置まで進出すると帰る燃料がなくなる。君たちのSu-27にとっても厳しいぞ」
「そうね。そこで私に考えがあるの。陸軍の助けが必要だけど聞いてもらえるかしら」そういって瀬奈中佐は自分の計画を説明した。
意外なことに、R38基地司令・大松大佐は瀬奈中佐の計画を支持した。だが、大松大佐本人にとっては意外でも何でもなかった。彼の判断基準はあくまでも彼自身の保身と昇任にあった。この作戦が成功すれば、扱いにくい魔女飛行隊を有効に活用できる指揮官として中央の受けはいいだろう。反対に失敗したとしても実行段階で臨時派遣された飛行隊がミスをしたと言い訳できる。優れた戦術家でもなく輝かしい戦歴を持つわけでもない大松大佐が昇任レースに勝ち残れているのは、巨大な軍の組織内をスルリとすり抜ける才能のおかげだった。ともあれ敵の攻撃を防ぐ有効な手立てを見いだせなかったR38基地の幕僚たちは、この作戦を実現させるために一斉に作業を開始した。
鈴川と板戸川の合流点付近 伊勢原駅南約2.5キロメートル
香貫公国軍 R38基地北東20メートル
日中を中間地点の木の上で隠れていた島崎大尉ら4名のシールズ隊員は、再び行軍を開始した。行軍の順序は昨夜と同じ田巻2等兵曹を先頭にした一列縦隊だった。
田巻2等兵曹の後ろを歩く島崎大尉は、早くも痛くなった肩に食い込むサスペンダーの位置を直すと、後ろを振り向いて彼に続く2名の部下を確認した。二人とも異常なし。それにしてもあの拳銃はでかいな。あれじゃあサブマシンガンと一緒だ。島崎大尉は後ろを歩く江見1等兵曹が持つ拳銃を見て思った。
分遣隊唯一のスナイパーである江見1等兵曹は、スナイパーライフルMK13を格納したガンケースを背負い、大型の拳銃、デザートイーグルを両手に握って歩いていた。カスタムメイドされたそのデザートイーグルは、銃口にサウンド・サプレッサー(消音器)が装着され、ただでさえ大きな拳銃がまるでサブマシンガンのように見えた。大きく重い拳銃であったが、江見1等兵曹にとって50口径マグナム弾を撃ちだすデザートイーグルは、大切な相棒だった。
「9ミリ拳銃なんて子供のおもちゃだからね。いざという時、役に立ちゃしませんや」島崎大尉は江見1等兵曹の口癖を思い出した。確かに虫が相手となると島崎大尉が腰に吊るした9ミリ弾使用のP226拳銃は頼りない。デザートイーグルの出番がないことを祈ろう。島崎大尉はそう思いながら視線をもとに戻し、進行方向の警戒に戻った。
目指す木はもうすぐだった。その木はすでに見えている。だが、その木はなかなか近づかない。「ダイダラ」が一歩で進む距離が「スクナビ」には長い距離となる。「ダイダラ」は落ち葉を踏んで前へ進めるが「スクナビ」は落ち葉を避けて通らなければならない。歩く距離が長くなるだけでなく、周囲を警戒しながら、しかも物音を立てずに歩いているため早く歩けない。「忍耐だ」島崎大尉は心に言い聞かせながら歩き続けた。
目指す木まで1メートルほどに近づいたところで、先頭を歩く田巻2等兵曹の足が止まった。島崎大尉は、後ろに続く二人に「待て」の手信号を送って田巻2等兵曹の横に立った。
「どうした?」
「コオロギがいる」田巻2等兵曹は、その虫から目を離さずに答えた。
島崎大尉は田巻2等兵曹の視線の先を目で追うと、目指す木の根元に1匹のコオロギがこちらを向いてうずくまっていた。これでは目指す木に近づけない。
「あいつ、さっきからピクリとも動かん。死んでいるのか、それとも隊長がよく言う転生の時を待っているんかな」
「わからん」島崎大尉もコオロギから目を離さず答えた。そして小さな声でコオロギに問いかけた。「おまえの魂は、まだそこにあるのか?」
だが、コオロギは答えなかった。
虫は一度の産卵で多くの卵を産む。その卵一つ一つには魂が宿っているのだが、その中の2個には魂が宿っていない。この2個の卵には、産卵したメスと交尾に成功したオスの魂が宿る。このため産卵に成功した虫は、老いゆく身体を離れて卵に転生する準備を始める。こうなると虫はほとんど動かない。今の身体を離れるので食べる必要はないし、外敵から身を守る必要もない。動く必要がないのである。
動かないのなら問題はなさそうだが、突然本能に目覚めて襲ってくる虫もいる。本能だけで生きる虫は気まぐれだ。なかでもコオロギは、共食いもする凶暴で気まぐれな虫だった。「ダイダラ」にとっては夏の終わりを告げる風情のある虫だが、「スクナビ」とっては危険極まりない虫だった。毎年コオロギによる死亡者が後を絶たない。
お前は何回転生を繰り返してきたんだ? 10回か? 100回か? それとも初めてか? 虫は、交尾に成功さえすれば転生を繰り返して永遠に生き続けられる。虫の命ははかないと言うが、本当にはかないのは人間の命じゃないのか? 人間は転生できない。ただ一度かぎりの命だ。島崎大尉は前からそう思っていた。
転生してもらうしかないな。もう卵を持っているんだろ。そっちへ行け! そう考えた島崎大尉は、後方で待機する江見1等兵曹を手信号で呼んだ。
「コオロギか!」
「頼んだぞ」
「一発で仕留めるから、しばらくお待ちを」江見1等兵曹は肩にかけたガンケースを降ろした。
その時だった。それまでピクリとも動かなかったコオロギが突然動きだし、島崎大尉らに襲いかかってきた。
島崎大尉と田巻2等兵曹は素早い動作でMk18Mod1カービンの引き金を引いた。サウンド・サプレッサーを装着したMk18Mod1カービンから発射音は聞こえずカタカタという作動音しか聞こえない。
音もなく発射された5.56ミリ弾は、猛毒の薬品が充填された“バグ・バスター”弾と呼ばれるものだった。1発でも当たれば虫からネズミ程度までの小動物を瞬間的に殺せる。
二人は初弾からコオロギの頭に“バグ・バスター”弾を命中させた。これでコオロギは死んだはずだった。それでもコオロギの動きは止まらない。コオロギの神経組織は瞬間的に破壊されも、足だけが勝手に動いていたのである。
こうなると、Mk18Mod1カービンが発射する小口径の5.56ミリ弾はコオロギの勢いを止められない。命中しても穴しか開かず、勢いを止めるほどの威力がないのである。このままでは死んだコオロギに押しつぶされてしまう。もうダメか。そう思った島崎大尉の耳にパス、パス、パスという音が聞こえ、コオロギが横倒しになって止まった。
その音は、江見1等兵曹のデザートイーグルが発する音だった。50口径マグナム弾の絶大的なストッピング・パワーを見せつけた江見1等兵曹は自慢げに言った。「どうです。役に立ったでしょ」
「ありがとう。助かったよ……でも、それいいな、それ」島崎大尉は、江見1等兵曹とデザートイーグルを交互に見ながら言った。
「マグナムにする気になったろ?」
「あんなパワーを見せつけられて、マグナムにしない奴はいないさ」島崎大尉は、その言葉どおり、後に45口径マグナム弾使用の1911G拳銃を愛用することになる。そして、軍事顧問として派遣された国では「星川から来たマグナムを持つ男」との伝説を作るのだが、それは先の話である。
「よし、行こう。あとは木を登るだけだ。上に行けばゆっくり休めるぞ」隠れて監視任務に当たるより、重い荷物を背負って行軍するほうが遥かに楽なことを知っているシールズ隊員は、島崎大尉の冗談に苦笑いした。