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その59

R38基地ホルモン・スモーク2階南側の部屋 香貫軍救護所


「司令官が倒れた! 先生! 一緒に来てくれ!」突撃隊の無線を聞いていた高井大佐が叫んだ。

高井大佐は、血まみれになって捨てられた包帯の束をつかむと、軍医の返事を待たずに救護所を出で駆け出した。

「くそっ!」高井大佐は走るのに邪魔になる拳銃とホルスターを引きちぎるように外すと、再び駆け出した。

「司令官!」と叫びながら走る高井大佐の脳裏に昨日のことがよぎった。


星川が攻めてくるのは今夜だ。司令部では、要員が慌しく準備を始めていた。

「私も何かしなくては」高井大佐は焦ったが、今では形だけとなった政治将校に手伝えるものなど何一つなかった。そんな高井大佐に堀内少将は声をかけた。

「高井君、少し外に出ないか」

二人は司令部掩体壕を出ると薄暗い中を歩き始めた。二人の周りでは、攻撃に備えて最後の準備に余念がない兵士たちが行き来していた。

「星川を迎え撃つ準備はほとんど整ったようだな」

「そうですね。ですが“魔女の食事”が成功して星川が攻撃を諦めてくれるのが一番です。星川はここまで来るでしょうか?」

「来る。星川軍は弱体化していると言われるが、それでも巨大な力を持っている。簡単に諦めるような国ではない」

「ここではどんな戦いになるのでしょう。恥ずかしながら私に戦闘経験はありません」

「苛烈な戦いになるだろう。藤井君も青木中佐もそう考えているからこそ準備に余念がない」

「そうですか」銃弾の飛び交う激しい戦闘でも自分は正気を保てるのだろうか? 自分ひとり逃げ出して隅で丸まっているのではないか? 高井大佐はそのことが心配だった。

「先にも言ったように君には監視と司令部での後方支援を任せる。それと、あと一つ頼みたいことがある」堀内少将は歩みを止めた。

「なんでしょう」高井大佐も立ち止まると堀内少将を見た。

「もし仮に、もし、藤井君、青木中佐、私の三人が倒れたら君が戦闘を止めてくれ」

「えっ! 降伏しろというのですか」高井大佐は、大声で尋ねた。

「高井君、気を落ち着けて聞いてくれ。何も最初から降伏を考えているわけではない。我々は勝つために準備をしている。勝つための人もそろっている。そして私は勝つつもりでいる。だが、勝敗は兵家の常と言うではないか。最悪の事態も考えておくことが私の責任なのだ」

「もし生き残った私が降伏を命令したとなると、私は生き恥を晒すことになりますね」

高井大佐の言葉に堀内少将は天井を見つめて考えた。

「そうだな。やはり君をそんな目に合わせるわけにはいかん。すまない。忘れてくれ」

「いえ、司令官、やります。私が生き恥を晒すだけで多くの仲間が救われるなら喜んでやります。それに、もし司令官が倒れてしまったら、もし倒れてしまったら、この私に晒すような恥など何もありません。こんなこと考えたくもないですが、もし司令官が倒れたら私がみんなを、少しでも多くの仲間をまもります。その任務承りました」

「高井君、ありがとう。だが、降伏は数あるオプションの一つにすぎない。我々は勝つ。何としてもな」堀内少将は、また天井を見つめて言った。




R38基地ホルモン・スモーク2階南側の部屋


高井大佐は、血まみれの包帯を大きく振りながら「もうやめろ!」と叫びながら走った。

高井大佐を狙う銃弾は星川軍からも、そして香貫軍からもなかった。

星川軍と香貫軍の間まで走った高井大佐は、「もうやめてくれ!」と声の限り叫んだ。

銃声はやみ、2階南側の部屋は静寂に包まれた。

「香貫軍の諸君! みんなよく戦った。まだまだ戦えると思っている者もいるかもしれない。くやしいかもしれない。だがもうやめよう。すでに我々の航空兵力は香貫に帰った。この空は星川のものになってしまった。我々に援軍は来ない。いや、来られない。この周りには星川の戦闘機がウンカのごとく飛んでいる。君たちが恥じ入ることなど何もない。だからやめよう」静かな2階南側の部屋に高井大佐の声が響いた。

高井大佐は星川軍のほうを向くと、また大声で叫んだ。「私は香貫軍・高井大佐。ここにいる香貫軍の最先任者だ。星川軍の指揮官にお伝えする。我々は即時停戦を要求する。その代わりこの基地をあなた方に明け渡す。再度申し上げる。即時停戦を要求する」


高井大佐とかいうやつ、即時停戦を要求する前に部下を説得していたようだが……向こうが撃ってこないのは部下も納得したと考えていいのだろうか。下田大尉は判断に迷った。希望的観測で判断を誤りたくない。どうする? 下田大尉は、隣で加勢しているシールズの島崎大尉の目を見た。

目の合った島崎大尉は頷いて言った「勝ったんですよ」




R38基地ホルモン・スモーク2階南側の部屋


高井大佐と上沼大尉、下田大尉による停戦交渉が成立し、香貫軍が武装解除を始めると、高井大佐は急に走り出し、堀内少将のもとに向かった。

上沼大尉と下田大尉は、高井大佐が急に走り出したため、驚いて拳銃を抜きながら高井大佐の後を追った。

堀内少将は、軍医の治療を受けていた。軍医は高井大佐と目が合うと頭を横に振った。

高井大佐は堀内少将の隣にひざまずいた「司令官、終わらせましたよ。香貫山に帰りましょう」弱いながらも意識はあった堀内少将に話しかけた。

「高井君か、すまんな。私は疲れた。悪いが先に香貫山に帰ってくれ」

「いえ、司令官、一緒に帰ります。しっかりしてください」

「そうだな。みんなを連れて帰ろう」堀内少将は弱々しくほほ笑んだ。そして思い出したように言った。「高井君、最後の願いを聞いてくれんか」

「最後じゃありません。これから何度でも願いを聞きます」

「すまんな……つむぎりんのことだけが気がかりなんだ。よろしく頼む」堀内少将は、高井大佐の目をしっかりと見据えると、高井大佐の手を強く握った。

そして、堀内少将は目を閉じると、高井大佐の手を握る力が徐々に弱くなっていった。

「司令官、あなたとの約束、必ず守ります。お二人のことは心配しないでください……ゆっくりお休みください」高井大佐は堀内少将の手を静かに床に下ろした。

二人の傍らに立っていた上沼大尉と下田大尉は、拳銃をホルスターにしまうと息を引き取った堀内少将に敬礼して最後を見送った。




R38基地ホルモン・スモーク2階核弾頭保管格納庫 星川合衆国陸軍3/75Ranger(レンジャー第3大隊)、星川合衆国海軍 シールズ、酒匂陸軍 特殊作戦群臨時特別分遣隊


香貫軍が降伏したとはいえ、上沼大尉と下田大尉には最後の難関が待っていた。香貫KGBが立てこもる核弾頭保管格納庫の開放である。

核弾頭保管格納庫を開放し、核弾頭を持ち帰らなければ作戦の半分は失敗したことになる。

レンジャーと酒匂陸軍特殊作戦群臨時特別分遣隊が強襲を始めようとしたその時、高井大佐が核弾頭保管格納庫に立てこもる香貫KGBを説得させてほしいと申し出てきた。これ以上の損害を出したくない上沼大尉と下田大尉は、高井大佐の申し出に同意して説得が開始された。

高井大佐は、核弾頭保管格納庫の人が出入りする強化ドア横にあるインターホンを通じて内部に立てこもるKGB第3総局核防護課の工藤大佐を説得した。だが、工藤大佐は頑なだった。

「うるさい! 降伏の説得をする時間があるのなら直ちに攻撃を再開しろ! 腰抜けが!」

正直なところ工藤大佐は戸惑っていた。KGBの将校である彼は、KGB以外の人間から自分の意にそぐわないことを強要されたことなどなかった。誰もがKGBを恐れる香貫においてKGBは常に強要する側だった。KGBの大佐である自分がKGB以外の者に事を強要されるなどありえない。それに、たかが軍の政治将校である大佐の言うとおりに核弾頭を星川に渡してしまったら、私のKGBでの立場はどうなる。いや、それどころか処刑される。工藤大佐にとって核弾頭保管格納庫を明け渡すことなど問題外だった。

「高井大佐、腰抜けとはいえ同じ香貫の同志だから教えてやろう。我々はこれから核弾頭を爆破する。その前に星川でもどこでも逃げるがいい。KGBの慈悲に感謝するんだな」工藤大佐はそう言うとインターホンを切った。

「核弾頭を爆破するとなると…時間がない。高井大佐、突入する。いいですね」上沼大尉の決断に高井大佐は頷いた。

「準備は?」上沼大尉の問い掛けにシールズ・島崎大尉、酒匂陸軍特殊作戦群臨時特別分遣隊長・須磨少佐は黙って親指を上げると、全員NVGを着けた。

当初の計画では、酒匂陸軍特殊作戦群臨時特別分遣隊が核弾頭保管格納庫に突入して内部を制圧することになっていた。だが、激しい戦闘で酒匂陸軍特殊作戦群臨時特別分遣隊6名中3名が戦死したため、急遽シールズの5名が突入に参加することになっていた。


核弾頭保管格納庫の内部は、核弾頭保管室、事務室兼待機室、空調機器室の3区画に分かれていた。

核弾頭保管格納庫の正面には防弾シャッターで閉ざされた核弾頭搬出用出入り口があり、その横に人が出入りする強化ドアが設置されている。そして、内部の核弾頭保管室の入り口は、核弾頭を搬出入しやすいように防弾シャッターのすぐ内側にあった。


突入作戦は、最初に核弾頭保管格納庫に電力を供給する電線を切断することから始まった。

次いで、M3(カールグスタフ30ミリ無反動砲)によって防弾シャッターが破壊された。

シャッターが崩れると、島崎大尉ら4名のシールズが素早く内部に突入し、電気の切れた暗い廊下を走った。

廊下には、防弾シャッターが爆破されたときの衝撃でぼう然としていたKGB3名がいた。だが、彼らは抵抗する間も無く島崎大尉らの銃弾によって倒された。

事務室兼待機室と空調機器室に分かれたシールズの4名は、同時にショットガンでドアを破壊すると手榴弾を部屋に投げ込んだ。

手榴弾が爆発すると、シールズの4名は素早くそれぞれの部屋に突入し、手榴弾の爆発によって倒れなかったKGBを撃ち、制圧を完了させた。

シールズの4名は、担当範囲の制圧を確認すると「クリア」と報告し、部屋を出て核弾頭保管室の入り口に戻った。

核弾頭保管室の入り口では爆破専門のシールズ・越智上等兵曹がC4プラスチック爆弾で核弾頭保管室の強化ドアを破壊する準備をしていた。

「ブリーチング(ドア破壊)準備は?」島崎大尉の問いに、越智上等兵曹は「終わった。外に出てよう」と言って、信管に繋がれたコードを伸ばしながら核弾頭保管格納庫を出た。

外では核弾頭保管室への突入準備ができていた。越智上等兵曹は警告を発すると爆破のスイッチを入れた。

爆破されてもドアは残ったままだった。火薬の量が多すぎると、内部にある核弾頭が傷つく可能性がある。このため、越智上等兵曹はドアを破壊する火薬を最小限にとどめたのである。

続いて大きなハンマーを持ったレンジャー隊員がドアの前に駆け寄り、ハンマーでドアを思い切り叩いた。

ドアは内側に倒れた。

すかさず別のレンジャー隊員が核弾頭保管室の中にスタングレネード(閃光発音弾)を投げ入れると、酒匂陸軍特殊作戦群臨時特別分遣隊の3名が核弾頭保管室の中に突入した。

核弾頭保管室内部にいた核防護課のKGBはスタングレネードの強烈な光と爆音によって反撃することができなかった。酒匂陸軍特殊作戦群臨時特別分遣隊によって、彼らは全員撃ち倒された。酒匂陸軍特殊作戦群臨時特別分遣隊員の射撃精度は一流だった。KGBを倒しながらも核弾頭には1発も当たっていなかった。

「クリア」核弾頭保管室から須磨少佐が出てきた。


終わった。


核弾頭保管格納庫を取り囲む星川と酒匂の兵士はそう思っただけだった。勝った喜びも、任務をやり遂げた達成感もなかった。あまりにも多くの仲間を失った彼らにそのような感情は湧かなかった。


「さあ、あとひと仕事だ」上沼大尉は気を取り直すと、NEST専従員・笠原少佐とともに核弾頭保管室に入った。

「こいつが核弾頭なんですね。思ったより小さいな」上沼大尉はキャスターに乗せられた核弾頭に手を触れた。

「8F型、ダイダラ換算で550キロトンの破壊力を持つ核弾頭だ。こいつ1発で小さなコロニーなんか蒸発してしまう」笠原少佐は核弾頭を眺め回しながらそう言った。

「ところで上沼大尉」笠原少佐はあらたまった表情で上沼大尉に向き合った。「ここまで連れてきてくれてありがとう。約束どおりだな」

「いえ、お礼を言うのは私のほうです。笠原少佐がいなければ、私はまだ屋根の上でオロオロしていましたよ」

「ハハ、そんなことはない。私なんかいなくても君は自分で活路を切り開いていたさ。さっ、私が点検して異常がなければペンで“異常なし”と核弾頭に記入していく。記入が終わったら運び出してもらえないか……1発は酒匂が持って帰るんだったな」

「そうです。1発は私のほうで酒匂の須磨少佐に引き渡します」

笠原少佐は頷くと、核弾頭の点検を始めた。




伊勢原駅北西約650メートル

井崎コロニー


「あなたの戦闘機はもう来ないんでしょ? あなたたちはいつ帰るの?」美代は管制卓で無線に聞き入る木下大尉に尋ねた。

「ええ、生き残った我々の戦闘機は基地に戻る途中です。ここには来ません。我々も撤収を開始します。ご迷惑をおかけしました」木下大尉は頭を下げた。

「もう任務とやらは終わったんでしょ。せっかくだからゆっくりしていきなさいよ」

「個人的にはそうしたいのですが」

「個人的に? あなたはここに居たいの?」

「いや! そんな! ただもう少しあなたと話がしたかっただけで」

「ふーん、でも香貫にはいい人がいるんでしょ?」

「いませんよ! いたら、こう、何と言うか、こんな野暮ったい髪形にしないで、こう、もっと都会的な……」

「いないのは、わかったわ」美代はくすっと笑った。


木下大尉と美代しかいない運航事務所に険しい顔つきの清水大佐が入ってきた。木下大尉と美代の二人だけの時間は終わった。


木下大尉は、清水大佐の表情を見た瞬間、R38基地は負けたのだと思った。

「木下大尉、機長を呼んでくれないか。我々はA57に向かうことになった」

やはりそうか。木下大尉はそう思ったが、動揺を表に出さないように平静な態度で「わかりました。お呼びします」と答えた。

木下大尉は、エプロンに駐機したイリューシンIl-76MD“山鳥-570”の機内で待機中の機長を無線で呼び出した。

運航事務所に清水大佐、“山鳥-570”機長、木下大尉、三好少尉がそろった。

清水大佐は三人を見て告げた。「先ほどR38から連絡があった。R38の守備隊は降伏した。司令官は戦死された。三好少尉……青木中佐も戦死された。このため、我々はいったんA57に向かうことになった」

「R38にはまだ仲間がいるんです。負傷してすぐにでも手当しなければならない者もいると思います。仲間を見捨てて帰るのですか」三好少尉は独り言のように話した。

「三好少尉、君の気持ちはよくわかる。私の部下もR38にいる。だが、星川は自分たちが撤収するまで我々の着陸を認めないそうだ。それに、ここにいる全員と器材をこのままにはできない。これらを積んだままではろくに負傷者を運べないし、A57の医療体制も貧弱だ。まずはA57で全員を降ろし、燃料を積み込んでR38に向かおう。その頃には星川の撤収も完了しているはずだ」清水大佐は、自分の子どもを諭すように話した。

「清水大佐がおっしゃる通りです。わかりました」三好少尉はうなだれた。


井崎太一郎は運航事務所の傍らで彼らの話を聞いていた。

太一郎は、彼らに哀れみを感じた。それに、太一郎は、最初は清水大佐を憎んでいたが、今では憎んでいなかった。命令とはいえ銃で自分たちの要求を強制する自分と、そんなことは倫理に反するとする善の部分の葛藤を清水大佐に見たからである。

こんな状況で出会わなければ、彼とは真の友人になっていただろう。太一郎はそう思うようになっていた。このような人物にここまでさせるとは。香貫という国は罪作りな国だ。

「清水大佐、負傷者は多いのか」太一郎は言った。

聞かれているとは思わなかった清水大佐は少し驚いたが、隠さずに答えた「我が兵力の三分の二が死亡または負傷しているようです」

「今から医療品を入れたコンテナを出してくる。持ってってくれ」

「井崎さん。ありがとう。ありがとう」清水大佐は頭を下げた。

木下大尉も美代に言った「ありがとう。美代さん」

「美代と呼んで」美代は木下大尉の手を握った。

その時、手を握る二人の後ろに設置された電話が鳴った。

美代は電話をとった。

「はい、こちら井崎空港運航事務所……」電話を手に取る美代の顔がみるみる青ざめた。「わかりました。すでにシステムは可動しています。いつでも受け入れ可能です。ETA(到着予定時刻)を教えていただけますか……わかりました。お待ちしております」

美代は電話を静かに切った「たいへん! あと40分したら星川の査察チームがここに来るんだって。星川に気付かれたのよ」

「急ぐんだ! 清水大佐」太一郎は言った。

そこからは慌しかった。コロニーの住民総出で“山鳥-570”の出発準備をおこなった。

“山鳥-570”は、星川が来る10分前に井崎コロニーの長い滑走路を離陸した。

木下大尉と美代は、別れの時間をとることもできなかった。

「無事に帰るのよ。また会えるわよね」エプロンで“山鳥-570”の離陸を見つめる美代の目から涙があふれた。

涙は朝日を受けて美しく輝いていた。

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