その4
小出川 香川駅南西約2キロメートル
星川合衆国海軍 CSG3(第3空母打撃群)原子力航空母艦<カール・ビンソン>(CVN-70)
フライト・デッキの前方、第1カタパルトでは加藤中佐の“サンダウナー200”の発艦準備が整った。
「準備はいいか?」発艦前のチェックを完了した加藤中佐は、後席に座るCSG3情報士官・横山少佐に言った。
「だいじょうぶです…… でも、緊張しますね」横山少佐は慣れない酸素マスクのため苦しそうに答えた。
「緊張は司令部のお偉いさんに報告するときまで残しておけよ…… いいか、射出のときは少し前のめりになってハーネスを胸に食い込ませておけよ。そうしないと脳天から火花が出るからな」加藤中佐は、発見した核兵器を報告するため、横山少佐を伴って鎌倉コロニーにあるWESTPACFLT(西太平洋艦隊司令部)に向かうところであった。
「じゃあ行くぞ!」甲板員の指示に従って加藤中佐は左手のスロットルを慎重に押し出した。F-14D“ブロック3A”が装備する新型F110エンジンはアフターバーナーを使用しないで発艦できるだけのパワーを持っている。しかし、夜間は危険な低高度低速力状態を最小限にするためにアフターバーナーを使用してフルパワーで発艦する規則となっている。
加藤中佐は左手に握るスロットルが前方一杯になったところで計器の指示を確認した。異常なし。よし! 減光された赤い光の懐中電灯で大きく円を描き、カタパルト士官に準備完了の合図を送った。
ガクンという衝撃とともに凄まじい加速によって”サンダウナー200”は艦の前方に投げ飛ばされた。主翼が空気をつかんだことを身体で感じた加藤中佐は、すぐさまギア(車輪)を引き上げて空気抵抗を減らした。
強力なエンジンパワーによって、ヘッド・アップ・ディスプレイに表示される速度と高度はみるみる増える。フルオートにセットされた可変翼も速度の増加につれて後退を始めていた。加藤中佐は、また自由になった。
すでに湘南ベルブリッジを見下ろす高度に達していても急上昇を続ける加藤中佐は左にバンクをとって鎌倉コロニーの方向、東に進路をとった。国道134号線の上空を飛行する”サンダウナー200”が、行き交う車のライトが点に見えるほどに上昇すると左前方に横浜と東京の明かりが見えてきた。
「左前方は横浜ですよね! 加藤さん!」横山少佐は子供のように奇声を上げた。
「そうだ。その向こうが東京の夜景だな」
「あっ! 東京タワーが見える! あれはスカイツリーだ!」
「今日は大変な1日だったから神様がお前にご褒美をくれたんだ。こんなに視程が良い日なんかめったにないぞ!」
「ありがとうございます…… でも、若いパイロットが神様みたいな態度を取る気持ちがわかりましたよ。こんな景色を見ながら自分で飛行機を飛ばしていれば誰でも神様になったと思いますよ。」
「飛ばしている方は、のんびり景色を眺めている余裕なんかないよ…… だが…… これだけ視程がよければRC-135Vはコースを外れることもなかっただろうな」
「そうですね。でも、彼らのおかげで核ミサイルを発見できました。この犠牲を無駄にしないように頑張ります」
「その調子だ! 横山」
「いやーー しかし、この飛行機は見晴らしがいいですね。飛行機に乗っているというより自分自身が空中に浮かんでいるように感じますよ」
「死角が多いと敵の発見が遅れるからな…… 」
”サンダウナー200”は国道134号線上空を飛行して鎌倉に向かった。月明かりによって湘南の海は淡く輝き、光を反射しない陸地は真っ黒だった。こんな夜は陸地と海の境がはっきりしているので湘南海岸の形がはっきりと見てとれる。
その真っ黒な陸地では道路を行き交う車のヘッドライトによっていく筋もの光の線ができ、家々から発する光の点が陸地一面にちりばめられていた。光の点は駅の周辺で密集し、藤沢駅周辺の明かりはひときわ大きかった。
その光の一つ一つには「ダイダラ」人にとっても「スクナビ」人にとっても日常の営みがあった。
「みんな家に帰る時間だぞ」加藤中佐はつぶやいた。平凡な日常を嫌って海軍に入隊した加藤中佐であったが、平凡な日常が与えてくれる一種の安心感のようなものに惹かれてもいた。
夜間飛行で上空から家々の明かりを眺めるといつも思う。俺も平凡な安らぎのある生活をしてみたい。だが、そんな生活は1か月もすれば飽きてしまう自分の性格を知っていた。それに平凡な日常にだって不安や嫌なことが沢山あることも知っている。やっぱり俺の居場所は海軍にしかないよ。悪いな! 沙織。加藤中佐は心の中で妻に謝った。
”サンダウナー200”は江ノ島の上空を通過した。着陸の準備を始める時間がやってきた。
「さあ、そろそろ鎌倉だ。降下するぞ!」
「あっという間ですね! もう着いたんですか!」
加藤中佐は無線機を操作して鎌倉コロニーへの航空進入管制を管轄する「鎌倉アプローチ」を呼び出した。「鎌倉アプローチ サンダウナー200 インバンド 1-由比ガ浜!」(こちらサンダウナー200 鎌倉コロニー1階の由比ガ浜基地に着陸します)
「サンダウナー200 鎌倉アプローチ ウインド300 アット 20ノット ユーズ・ゲート1-E1」(こちら鎌倉アプローチ 風300度方向から20ノット 鎌倉コロニーへの進入口は1階東側の1番ゲートです)
北西風か。これ以上、風が強くなるとまずいな! 着陸進入に支障となる風ではなかったが、漠然とした不安が加藤中佐の脳裏をよぎった。北西風が厄介な事態を運んできそうだ……
そこまで考えた加藤中佐であったが、着陸寸前に別のことを考えていると、着陸に伴う危険な要素を見逃してしまう。すでに目の前には鎌倉コロニーの1-E1ゲートが迫っていた。意識を着陸に集中させた加藤中佐は慎重にゲートをくぐってコロニーに進入した。
コロニーの中は外と同じように暗かった。コロニー内の各フロアには、天井に照明設備が設置され人工太陽の役目を果たしている。
この照明設備は、日出没や月出没にあわせて輝度が調整されているため、夜間は減光されているのである。夜間に減光される理由は経費の削減が目的ではなく、「スクナビ」の体内時計を正常に保つためである。身体が小さくなっても生物としての営みは「ダイダラ」とまったく変わりがない。
その鎌倉コロニーの1階部分は、地上から15メートルの高さに設置されている。由比ガ浜に流れ込む滑川を海から500メートルほどさかのぼったところに位置するコロニーを高潮や津波から守るためである。このため、コロニー1階にある鎌倉港を出入りする船舶は滑川から船舶エレベータによって運ばれてくる。
海洋国家である星川合衆国にとって鎌倉港は太平洋側の要となる港である。鎌倉コロニー1階の半分を占める水面は水深が50センチメートルもあり、「スクナビ」最大のタンカーであっても水深を気にすることなく航行できた。
巨大な鎌倉港を出入りする船舶は非常に多く、これは夜間であっても減ることはなかった。今日も、真っ黒な水面を接岸場所に向かう船や、出港して船舶エレベータに向かう船が列をなして航行している。その水面上には、青や赤の光を灯した標識ブイが夜間航行に必要な目安として設置されていた。一直線に並んだ航行船舶のマスト灯と標識ブイのすぐ横の陸岸に加藤中佐が目指す由比ガ浜海軍航空基地があった。
滑川 鎌倉駅南約700メートル
星川合衆国海軍 NAS由比ガ浜(由比ガ浜海軍航空基地)
星川合衆国鎌倉コロニー
由比ガ浜海軍基地(海軍は“鎌倉海軍基地”と呼ぶことを頑なに拒否している)に隣接した由比ガ浜海軍航空基地のエプロン(駐機場)を数人の整備兵が歩いていた。加藤中佐が操る”サンダウナー200”の受け入れを支援するためである。
CVW-9(第9空母航空団)隷下、VF-211(第211戦闘飛行隊)の整備員である竹内2等兵曹は、先頭を歩く金城1等兵曹の背中越しに話しかけた。「今日は、やけにお偉いさんの動きが激しいですね! こんな時におたくのCAGが戻ってくるなんて、もしかしたらフーリガンズが、また何かしでかしたんですかね?」
自分の所属するCVW-15をフーリガンズと言われてカチンときた金城1等兵曹は振り向いて竹内2等兵曹をにらんだ。確かにCVW-15は問題を起こして他の部隊では引き取ってもらえない隊員がゴロゴロしている。だが、自分の仕事にかける情熱はお前らなんかよりずっと上だ。ただ、その情熱が度を越しているだけだ。単に世渡りが下手で問題児だと思われたやつもいる。本当はいいやつばかりなんだ。だからこそCVW-15は、けっして刑務所航空団などではない! 金城1等兵曹は常々そう思っていた。「ボスの“ダブルナッツ”に傷の一つでもつけてみろ、お前らも明日からCVW-15でしごいてやるからな!」
星川海軍の空母艦載機には必ず2桁または3桁の数字が機首の両側に描かれている。“ダブルナッツ”とは、航空機を識別するために付与された3桁の機体識別番号のうち、下2桁が“00”であることからそう呼ばれている。“0”がボルトとナットのナットに似ているからである。最初の1桁目は空母航空団に所属する飛行隊を表し、下2桁が飛行隊内での機体番号となる。そして、この“00”の識別番号を持つ航空機はCAGの搭乗機として指定されるため、CAG機は“ダブルナッツ”とも呼ばれている。
「怒らないでくださいよ!」こんな日に整備当直なんて、とんだ貧乏くじだぜ! 竹内2等兵曹は心の中でぼやいた。
空母搭載中の航空機が陸上基地に飛来すると、空母に搭載されていない手空きの空母航空団が受け入れ支援を担当する。空母搭載中の空母航空団は3人ほどの留守番しか陸上基地に残さないからである。
竹内2等兵曹の所属するCVW-9は、1週間前に空母を降りていた。CVW-9の“ボート”である空母<ニミッツ>(CVN-68)がスクリューの修理と定期点検のためドック入りしたからである。このため、竹内2等兵曹らCVW-9の整備員が今回の支援要員となった。
「そんなにぼやくな。それに、のろまな地上勤務の整備員にジェットを扱えるわけがないだろ。安心してダブルナッツを任せられるのは、お前らのようなボート乗り組みの整備員だけだ。」一転してやさしい口調に戻った金城1等兵曹が言った。
「怒られてるんだか、おだてられてるんだかわからねえや!」そう言う竹内2等兵曹も、まんざらでもない顔をしていた。
「それに、ボスが戻ってくる理由はオレにも知らされていないんだ」金城1等兵曹は真実の半分を打ち明けた。CVW-15の隊員が問題を起こしたのならCVW-15最先任上級曹長“チーフ”村居上級曹長からそれなりの指示があるはずだ。だが、今回に限ってはボスが司令部に報告しに行くとの連絡だけだった。電話では言えない何かが起こっている。たぶん、またドンパチが始まるのだろう。金城1等兵曹はそう考えていたが、そのことまでは言わなかった。
彼らが”サンダウナー200”を駐機させる場所に到着すると、竹内2等兵曹は部下の整備員を適切な場所に配置していった。金城1等兵曹はその状況を確認しながら、航空機に燃料を給油する燃料給油車を探した…………いた! 車両はエプロンの外側、格納庫の横で待機している。チーフが早目に教えてくれたおかげでなんとか間に合った。下士官がいなければ部隊はスムーズに動かないことを何人の士官が知っているのだろう? 金城1等兵曹はそう思いながら間もなく進入してくる”サンダウナー200”を探すためゲートの方向を見上げた。
夜間とはいえ星川共和国の主要コロニーである鎌倉コロニーを行き交う民間航空機は非常に多い。さらに軍の航空基地も多数所在しているので混雑に拍車がかかっている。入り口専用のゲートからは次々と航空機が着陸のため進入していた。
コロニーの中は暗く航空機のシルエットもはっきりしない。このため夜間の航空機識別は困難だったが、金城1等兵曹は進入してくる多数の飛行機の中から”サンダウナー200”を見つけ出した。経験豊富な金城1等兵曹はF-14が夜間に点灯させる航法灯の位置とF110エンジン音だけで十分だったのである。ボスが入ってきた!
ボス、待っていましたよ! 妻が家を出て一人ぼっちとなった金城1等兵曹にとってボートの仲間は家族だった。早くボートの仲間に会いたい。下士官である金城1等兵曹は士官に対して家族と呼べるほどの親近感を持っていなかったが加藤中佐だけは別だった。加藤中佐と親しいわけではないが、チーフと加藤中佐が兄弟のように接する様子を見て自然と加藤中佐にも親近感を持っていたのである。
金城1等兵曹は竹内2等兵曹に滑走路に進入しようとする”サンダウナー200”を指差した。竹内2等兵曹は「わかっていますよ!」と親指を上にあげた。
滑川 鎌倉駅南約700メートル
星川合衆国海軍 NAS由比ガ浜(由比ガ浜海軍航空基地)エプロン
星川合衆国鎌倉コロニー
加藤中佐は、金城1等兵曹が確保した駐機場所で”サンダウナー200”のキャノピーを引き上げ、エンジンを停止した。
金城1等兵曹は待っていましたとばかり”サンダウナー200”に駆け寄り、引き込み式の梯子を引き出した。
コックピット横に昇って話しかけようとした瞬間、加藤中佐が先に口を開いた。「急に戻ってきて悪かったな。バタバタしただろ! 足は大丈夫か?」
自分の怪我を覚えていてくれた加藤中佐に金城1等兵曹は笑顔で答えた。「基地を1周走ってもこいつは音をあげません。大丈夫です」といって左足をたたいた。
空母艦上ではフライト・オペレーションの合間にフライト・デッキでの体力トレーニングが許可される。艦内のトレーニング室にはランニング・マシーンがあるものの、天気が良く波の穏やかな日には潮風を浴びながら走ればストレス解消にもってこいだ。ただフライト・デッキは無数の航空機が“タイダウン・チェーン”と呼ばれる鎖によってフライト・デッキに係止されているため、注意して走らないと“タイダウン・チェーン”に足を引っ掛けてしまう。
金城1等兵曹も注意しながら走っていたが、急な横波によって艦が傾いたときに“タイダウン・チェーン”に足を引っ掛け、バランスを失って一段下のキャットウォークと呼ばれる通路に転落してしまった。転落によって左足の付け根を骨折した金城1等兵曹は、治療とリハビリのため地上基地での留守番勤務に回されていた。
金城1等兵曹にとって地上基地での勤務は苦痛以外のなにものでもなかった。いや、正確には毎日自宅に帰ることが苦痛だった。妻が家を出て行ってしまい、待つ人がいない自宅のドアを開けても中は真っ暗だった。
出て行った妻に「ただいま」などと言ったことはないが、返事をしてくれる人がいないと分かっているのに「ただいま」と言って玄関のドアを開ける日が続いていた。もしかしたら妻が戻っているかもしれない。そのような淡い期待もあったが、玄関のドアを開ける度にその期待は裏切られた。妻を失ってはじめて存在の大きさに気が付いた金城1等兵曹であった。
金城1等兵曹と妻の間に子供はいなかった。長い航海中、妻はこの家に独りぼっちで居たんだなと思うと、妻の寂しい気持ちを受け止めなかった自分が情けなく、妻には申し訳ない気持ちでいっぱいだった。様々な思いが交錯して考えがまとまらない金城1等兵曹は、一人きりの部屋にいると、いつもこう思った。「俺は、これからどうすればいいんだ!」 ボートでは頼れる1等兵曹も、私生活は、からっきしダメだった。早くボートの“家族”に話を聞いてほしい。金城1等兵曹の願いは切実だった。
「そうか、よかった! チーフに連絡して早くボートに戻ってくれ。金城が必要な事態になりそうだ」身体を射出座席に固定していたハーネスをとりながら加藤中佐が言った。
「またドンパチですか?」
「そうなりそうな雰囲気だ。それに早くボートに戻りたいんだろ。チーフからも聞いている」
「チーフは何でもお見通しですね!」
「そのようだな……悪いが後は頼んだぞ。俺たちは今からWESTPACFLT(西太平洋艦隊司令部)に行ってくる。今日は、戻らないから明日会おう」
「アイ・サー、ボス!」
”サンダウナー200”を金城1等兵曹に託した加藤中佐は、横山少佐を伴って目の前の格納庫に寄り添うように建てられた細長い“サイドショップ”と呼ばれる建物に向かった。
滑川 鎌倉駅南約700メートル
星川合衆国海軍 NAS由比ガ浜(由比ガ浜海軍航空基地)CVW-15サイドショップ
星川合衆国鎌倉コロニー
サイドショップの出入り口に黒い海軍の制服に着替えた加藤中佐が立っていた。
出入り口の横には「CARRIER AIR WING FIFTEEN」(第15空母航空団)と書かれた看板が立てられ、このサイドショップがCVW-15の陸上司令部であることを示していた。
長いクルーズの後にこの看板を見ると妙にホッとする加藤中佐であったが、今日に限ってはそう思わなかった。
妙な胸騒ぎがする。いつもとは違う何かがありそうだ…………
だが、加藤中佐はその思いを振り払って言った。「よし! 行くぞ! 情報部員」
「お待たせしました。さあ 行きましょうCAG!」加藤中佐と同様に黒い制服に着替えた横山少佐は両手に資料が入ったかばんを持っていた。
「俺の車でWESTPACFLTまでの短いドライブだ」といって加藤中佐が車のキーを出そうとしたその時、ポケットに入れた携帯電話が鳴った。
ん! 誰からの電話だ。加藤中佐は携帯電話の画面に表示された相手を確認すると顔をほころばせて、電話を耳元にあてた。
電話は三宅准将からだった。加藤中佐と三宅准将は大学時代からの親友だった。それは、大学卒業後に星川と酒匂それぞれの母国の軍人となった後でも変わりない。ただ、敵対する国同士ということもあり、なかなか会えないのが難点だった。
「ひさしぶりだな。元気か? そうだ、昇任おめでとう!」加藤中佐は一気にしゃべった。
「あぁ、ありがとう。でも、そのことは後で話そう」三宅准将の声は不安と安堵が入り混じっていた。先ほどは参謀総長の前で星川との接触は任せてくれと大見得を切ったものの、加藤が空母に乗り込んでいたらすぐには連絡できないことを失念していた。電話が繋がったことに安堵したが、果たして加藤はこの話に乗ってくれるのか? 対立する国の軍人から共同作戦の申し出があったなどと誰に報告するのか? 一歩間違えれば違法に外国人と接触したとして逮捕される可能性だってある。逮捕に至らなくても軍には残れないかもしれない。加藤はそのような危険を冒してまで我々に協力してくれるのであろうか? 時間の経過とともに三宅准将の不安は大きくなっていた。
いつもの三宅とは違う。何かあったな。加藤中佐は三宅准将の不安を含んだ声を敏感に感じとった。「どうした?」
「同じゼミだった谷川を覚えているか? 親父の会社を引き継ぐと言って実家に戻った谷川だよ。あいつが実家で大変なことになっている。俺はさっきその話を聞いたのだが、お前もさっき聞いたんじゃないのか? おかげでうちの会社の上層部は大騒ぎだよ。お前の会社も同じだろ?」
三宅は何の話をしているんだ? 確かに谷川は伊勢原にある実家の会社を引き継いだが、大変な事になっているなんて聞いてない。だいいち、俺も三宅も会社なんかに勤めていないぞ。そこまで考えた加藤中佐はピンときた。もしかして三宅は香貫が建設した核ミサイル基地の話をしているのか? それならわかる。秘匿されていない一般の電話回線で核ミサイルの話などできない。ならば話を合わせよう。「俺も夕方、うちの若いもんから聞いた。おかげで出張先から呼び戻されて、今から本社に行くところだ。うちの上層部も大騒ぎだよ。そうそう、うちの若いもんが、会長の息子に会ったと言っていたぞ。お前の会社の!」
「俺も会長の息子から聞いた。お前の部下だと思っていたよ。信頼できそうな人間だと言っていた」
二人は、香貫が建設した核ミサイル基地上空で緒方、石川少尉コンビが出雲少佐と出会った話しをした。盗聴されても会話の本当の意味が分からないよう話しているため、お互いにミサイル基地の話をしているのか確信が持てなかった。だが、関係者しか知らないことをお互いに確認できたことで確信が持てた。
それでも三宅准将は、共同作戦の話を切り出せなかった。親友の頼みとあれば自分のキャリアを台無しにしてでも事を進めるだろう。加藤とは、そんなやつだ。そんな親友のキャリアを終わらせてしまうかもしれないのに、それでもよいのか?
短い沈黙の後、話し始めたのは加藤中佐だった。「わざわざお前が電話してきたのは、一緒に谷川を助ける相談のためだろ? お互いの会社は商売敵だが、無駄な競争はやめて協力することが互いの利益になるんじゃなかったのか? 学生時代に何度も話し合ったじゃないか。俺は今でもその考えを変えていない」
加藤中佐は、学生時代から価値観が同じ星川と酒匂は真の友人になれると考えていた。「それに相模川西岸なんて、星川と酒匂の間で人と物の行き来が増えて初めて価値が出る土地だろ。国交もないのに取り合いをしているなんてバカじゃねえか」学生時代、星川と酒匂の話題になると、加藤中佐は最後にいつもそういっていた。
あいかわらず加藤は直球勝負だな。俺も率直に自分の考えを話そう! 三宅准将はそう考えた。「俺もその考えを変えてはいない。それに今回の協力に関しては社長も同意している。ただ、こんな話を持ち込んだらお前の会社での立場が危うくならないか? そっちが心配なんだ」
「気にするな。確かに持って行き方を間違えたら立場も危うくなるだろうな。だけど、立場が危うくなるようなキャリアもないから大丈夫さ!」加藤中佐は笑ったが、真顔に戻って続けた。「ただ、会社を動かせるかどうかはわからない。俺は、これから今回の件を直属の事業部長に報告しに行く。明日の午前中には担当地域の事業部長にも報告するから返事はその後でもいいか?」
「かまわん。こちらの準備もそんなに早くできんからな。それよりも慎重にやれよ」
「そうも言っていられない。向こうが準備を整える前にやらないとてこずるだけだ。また、連絡する」
「わかった。気をつけろよ」
電話を終えた加藤中佐は、意を決したように車に向かって歩き始めた。何があったのかわからない横山少佐も、あたふたと加藤中佐の後を追って車に向かった。
滑川 鎌倉駅南約700メートル
星川合衆国海軍 NS由比ガ浜(由比ガ浜海軍基地) WESTPACFLT庁舎(西太平洋艦隊司令部庁舎)
星川合衆国鎌倉コロニー
WESTPACFLT庁舎(西太平洋艦隊司令部庁舎)。相模湾を担当する第3艦隊と房総半島から西側の太平洋を担当する第7艦隊を指揮下におく四つ星の海軍大将、菊池西太平洋艦隊司令官の司令部庁舎である。この庁舎はマッチ箱をL字型に並べたような何の特徴もない地上3階、地下5階の建物であった。外見からは西太平洋艦隊の強大な力や威厳など感じられず、庁舎の設計者は指揮通信機能に多くの予算を配分したことは明らかだった。唯一西太平洋艦隊の強大さを示すものは正面玄関に飾られた広大な担当海域を示す地図と多数の指揮下部隊を表した編成表だけである。
「やめてください! 無茶ですよCAG!」加藤中佐から三宅准将との話を聞いた横山少佐は編成表の横で叫んだ。「CAG! いえ、加藤さん! 加藤さんを必要としている人はたくさんいるんです。はっきり言いますが、あなたは上層部にうけがよくありません。こんなことで加藤さんが飛ばされては困るんです」
「ありがとう。だけど、まったく作戦がないわけじゃあないんだ」加藤中佐は立ち止まって横山少佐に話しを続けた。「すまんが、今のことは聞かなかったことにしてくれ。お前まで巻き込みたくないからな」
「そんな訳にはいきません。乗りかかった船です。最後までお供させてもらいます……ですが、なぜ酒匂と組むのですか? それだけは教えてください」
「目的は、あくまでも香貫の核兵器だ。酒匂と戦う理由はないだろ。不必要な戦いはしない。孫子だってそういっているじゃあないか。それにな、お互いに傷つけ合えばお互いに憎み合う。相手が自分たちを憎んでいると分かればさらに憎しみは深くなる。憎しみは怒りに変わって行き着く先は戦争だ。不必要な戦いで新たな憎しみを作る必要はないだろ。」
「憎しみは憎しみを生む……か。そんなこと考えたこともありませんでした。でも、加藤さんらしいや」加藤中佐の心配をよそに横山少佐は屈託がなかった。
「それに、うちの台所事情も苦しいからな」加藤中佐は口をゆがめた。
加藤中佐のいう台所事情とは軍の再編成のことであった。再編成とは聞こえはいいが、本質は「スクナビ」世界の現実を無視した荒本大統領による大規模で急激な軍のリストラであった。削減をまぬがれた残りの兵力で星川合衆国自身とその同盟国をどのようにして守るのか? 荒本大統領就任から、わずか3年で陸軍30%、海軍と空軍が20%もの兵力削減はあまりに急激だった。
兵力の削減は予備兵力の削減から始まったが、それだけでは足りず、東日本大震災の救援活動とその後の復興支援にあたっていた東太平洋軍は司令部だけの存在となった。
星川軍が作戦を実施する場合、その命令は大統領が発令し国防長官を経て統合軍司令官に至る。この統合軍は担当地域ごとに中央軍、西方軍、東方軍、東京駐留星川軍、西太平洋軍と東太平洋軍のほか、機能別の統合軍として特殊作戦軍、戦略軍、輸送軍がある。
それぞれの統合軍司令官は、軍種を越えて配下の陸海空3軍を一元的に指揮する。軍種の縦割りを排除して効率的な作戦を実施するためである。だが、6個ある地域別統合軍はその戦力組成が大きく異なっている。これは、担当地域の地理的特性が違うことと、対処すべき主要な脅威が違うからである。
その主要な脅威とは、中央軍には本土への直接的脅威、東京駐留星川軍には東京北東部を中心に勢力を広げるATO(綾瀬条約機構)軍の脅威、西方軍と西太平洋軍には香貫軍の脅威、東方軍にはテロが絶えない千葉県市原周辺に所在する東東京湾諸国の脅威などである。唯一、現時点で対処すべき脅威が存在しない地域統合軍は東太平洋軍だけだった。
力の均衡によってかろうじて平和が保たれている地域の兵力を削減するわけにはいかない。必然的に兵力の削減対象は東太平洋軍となったが、三陸海岸から九十九里浜に至る地域が安定していたのは、東太平洋軍の存在によるところが大きかった。それにもかかわらず荒本大統領とその取り巻きは、この地域の兵力削減を強行した。彼らには同盟国に対する責任や信頼よりも「どれだけ軍事費が削減できるのか!」ということの方がはるかに重要な政治課題であった。
海軍にとって東太平洋軍の縮小は、東太平洋艦隊の隷下部隊である第5艦隊の消滅を意味していた。原子力空母エンタープライズを旗艦としたCSG(空母打撃群)1個と、強襲揚陸艦ナッソーを旗艦としたESG(遠征打撃軍)1個を主力とした第5艦隊は、今では存在しない。
そして、予備兵力の削減は、現役復帰可能な状態でパイロットの発着艦訓練に専従していた訓練空母ジョン・F・ケネディと2個CVWR(予備空母航空団)の消滅を意味していた。
この結果、空母12隻体勢を維持できず、10隻体勢となった。
さらに深刻なことに、西太平洋艦隊に配属換えの予定だった原子力空母ジョージ・ワシントンが火災を起こし、修理のため横浜のドックに入った。また、流木との衝突によってスクリューが変形したままで相模湾西部での警戒にあたっていた原子力空母ニミッツは、スクリューの変形によって生じる振動によってスクリューの軸受けまで損傷する恐れがでたため、遅れに遅れていた定期点検の機会を利用して修理する決定がなされドックに入った。
空母が削減されたうえ、事故の修理のため空母が2隻も同時にドック入りしたことは、星川海軍にとって大きな痛手であった。香貫の核基地攻撃に充当できる空母は<カール・ビンソン>ただ1隻にすぎない。
単に核基地上空の制空と対地支援攻撃だけなら<カール・ビンソン>に乗艦するCVW-15は十分要求にこたえられる。攻撃のためには防御する空間が少ない相模川を5キロメートルほど遡上しなければならないが、長距離対艦ミサイルを搭載した香貫海軍航空隊の爆撃機はそこまで到達できない。このため、防御よりも攻撃により多くの航空機を割り当てられる。
だが、酒匂軍まで相手にするとなると話は別である。狭い香貫の核基地で核兵器をめぐって三つ巴の戦いになるだけでなく、酒匂海軍の空母艦載機によって<カール・ビンソン>も攻撃を受ける可能性がでてくる。しかも、香貫の核基地を攻撃するために<カール・ビンソン>は相模川に入らなければならない。
障害物のない海であれば、早期警戒機E-2D“ホークアイ”、F-14D“トムキャット”そしてイージス艦による縦深防御が可能になる。川には、そのような空間がない。
E-2Dが背負った最新型レーダー、AN/APY-9レーダーであっても建物や樹木を透過して目標を探知することはできない。BSH飛行(信号機よりも低い高度での飛行)で接近してくる酒匂の艦上攻撃機の探知は困難となり、<カール・ビンソン>への接近を許すことになる。しかも狭い川ではイージス艦を理想的な位置に配置することもできない。
レーダーで探知できない地点の穴を埋めるためには、敵の接近経路に戦闘機を配置すれば対処できる。その代わり核基地上空の制空と対地支援攻撃に必要な航空機が不足してしまう。最も近い空軍基地は二俣川コロニーにしかなく、兵力が削減された空軍の支援は困難だ。どうしても、もう1隻の空母が必要となる。しかし、現在の星川海軍には、その余裕がなかった。
CVW15の司令代理である加藤中佐は、CSG3(第3空母打撃群)の航空作戦責任者でもある。核基地の攻撃支援とCSG3の安全をいかに両立させるのか。その点からも酒匂との争いを避けたい加藤中佐にとって、三宅准将からの連絡は渡りに船だった。問題は、いつ誰にこの話を持っていくのか? 持って行きかたを間違えたら自分だけでなく横山少佐まで飛ばされてしまう。勝算はあるが、もしもの場合、横山少佐まで巻き込むわけにはいかない。加藤中佐はそう思った。
加藤中佐は横山少佐の腕を取って言った。「口が裂けても自分から酒匂と協力しようなどと言うんじゃないぞ。わかったな!」
「わかりました。加藤さんに心配をかけるようなことはしません」
「おれも、お前を失うわけにはいかんからな」加藤中佐は横山少佐の腕から手を離した。
「そりゃあ、私みたいに優秀な情報士官を失うわけにはいかないでしょう」
「お前は、知らない事をさも知っている事のように話すその辺の情報野郎とは違って、知らない事は知らないというし、確認された情報と自分の憶測をはっきり分けて話す。それに、膨大な情報の中から宝を探し出す能力も持っている。お前は今までに会った情報野郎の中で一番だ。その軽口がなければもっといいやつなんだけどな」
「私からこの口を取ったら、私じゃなくなりますよ!」
「それもそうだな!」二人は顔を見合わせて笑った。
そんな二人を階段の上から苦々しく見下ろす一人の大佐がいた。加藤中佐が酒匂の件を最初に報告するWESTPACFLT N-3(西太平洋艦隊司令部作戦主任幕僚)の内藤大佐であった。
相模川河口 平塚駅南東約2キロメートル
星川合衆国海軍 CSG3(第3空母打撃群)攻撃型原子力潜水艦<カメハメハ>(SSN-642)
相模川河口、国道134号線が走る相模大橋の橋脚付近の浅瀬に1隻の潜水艦が浮上した。星川海軍の攻撃型原子力潜水艦<カメハメハ>である。
浮上と同時にセイルに通じるハッチが開けられ、航海長と見張員が垂直の梯子を駆け上っていった。艦長・村田中佐が遅れてセイルに上ったときには、すでに狭いセイルは満員だった。
セイルに上った村田中佐が先にしたことは、セイルにいる全員の命綱がしっかりと繋がっているかの確認だった。
潜水艦としては大柄な<カメハメハ>であっても、丸い断面の船体は少しの横波でも大きく左右に振られる。水面から3センチメートルの高さにあるセイルは、少しの波でも水をかぶる。艦から投げ出されないためには命綱が必要だった。続いて村田中佐はNVG(暗視ゴーグル)を使って周囲の状況を確認してから、船体を見回して艦に異常がないか確認した。異常なし! 結果に満足した村田中佐は、腕をあげて夜光塗料の塗られたルミノックスで時間を確認した。「あと5分」 島崎大尉のシールズ分遣隊を乗せた2機のMH-60Sとの会合時刻まで、あと5分ということだった。
「ヘリコプター2機、2時方向、高度低い、こちらに向かってきます!」右の潜舵に配置された見張員が大声で報告した。村田中佐は、その報告をすべて聞き終わるのを待たずに反射的に2時方向である右前方にNVGを向けた。そのNVGは、2機のヘリコプターを映しだした。2機のヘリコプターはH-60だ。潜水艦乗りにとって最も厄介な存在である対潜ヘリコプターSH-60と同系列のMH-60Sを見間違えはしない。
村田中佐はセイルから身を乗り出してセイル後方の上甲板を見渡した。ヘリコプター誘導員はすでに配置についている。受け入れ準備が整っていることを確認した村田中佐は、セイルにいる航海科員に接近許可の発光信号をMH-60Sに向けて送るよう指示した。
接近許可を確認した2機のMH-60S”キャット04”と”キャット07”は編隊を解散すると、”キャット07”が橋の上流で警戒に当たり、もう1機の”キャット04”が橋の橋脚をぐるりと回って風下から<カメハメハ>に接近した。
セイル後方の甲板上空約5センチメートルでホバリングした”キャット04”から、ホイストと呼ばれるウインチによってシールズの装備品が甲板に降ろされた。<カメハメハ>の乗員が素早く装備品を確保して艦内に運び入れるころホイストはすでに巻き上げられ、続いて運動会の綱引きで使うような太いロープが”キャット04”から垂れ下がってきた。ロープの先端が甲板に接地するのと同時に、まさにあっという間に4名のシールズ隊員がロープをつたって滑り落ちてきた。
最初に<カメハメハ>に降りたったのは島崎大尉だった。その島崎大尉は、甲板作業を指揮している水雷長のもとに近寄り握手を交わしてその横に立った。残りのシールズ隊員は艦内に降りていったが、分遣隊指揮官である島崎大尉は”キャット07”に分乗する残り4名の到着を確認しなければならない。
2機目の”キャット07”は、”キャット04”と入れ替わるようにホバリングに移り、同じ手順で装備品と隊員を<カメハメハ>に降ろして飛び去っていった。
島崎大尉は艦内に降りようとしたが、水雷長や甲板要員は、まだ何かを待つように東の空を見上げていた。「我々のほかに移乗してくる人がいるのですか?」島崎大尉は水雷長に聞いた。
「人じゃない。食料を待っているんだ」返事をしたのは水雷長の後ろに立っていた補給長だった。「君たちが移乗してくる話を聞いたので、<カール・ビンソン>の補給長に頼んで生鮮食料品を分けてもらったんだ。おかげでパリパリの新鮮なキャベツを乗員に食べさせられる」補給長はそういって東の空を見上げた。
「そういう事だから、先に下りて荷物の整理でもしていたらどうだ」水雷長の言葉を受けた島崎大尉は、もう一度夜の相模川を見渡し深々と深呼吸してから名残惜しそうに艦内へと降りていった。
どうしても潜水艦だけは馴染めない。
島崎大尉は潜水艦が苦手だった。確かに艦内は狭いというだけで水上艦艇となんら変わりない。だが、周りを水で満たされた密閉空間というだけで圧迫を受ける。最悪なのは「ロサンゼルス」級攻撃型潜水艦だ。あの潜水艦は狭すぎる。それにひきかえ<カメハメハ>はまだましだった。もともとは戦略ミサイル潜水艦だったのでミサイルの保守要員が乗艦していたスペースがそのまま空いている。それに長期間の潜航に備えて空間にゆとりがあった。とはいえ島崎大尉が受ける圧迫感を完全に解消するほどのものではなかった。潜ることに変わりないからである。島崎大尉はシールズ隊員にはなれても潜水艦乗りにはなれなかった。
火薬や銃弾などを所定の場所に格納した島崎大尉は、セイル直下にある発令所に向かった。潜水艦には馴染めないとはいえ、幾度も潜水艦から発進して任務をこなしてきた島崎大尉は潜水艦の構造を熟知していた。
島崎大尉が迷うことなく発令所に達するのと、セイルから村田中佐が降りてくるのが同時だった。生鮮食料品の搭載も完了したようだ。「潜航用意」命令を発した村田中佐は、島崎大尉の存在に気付いて言った。「また来たな、大将!」
「よろしくお願いします」島崎大尉は敬礼して答えた。
「君たちの発進ポイントまでは40時間で到達するが、その前に、この厄介な相模川を抜け出さねばならん。相模湾に出たところで発進ポイントを細かく検討しよう」
「了解しました」
<カメハメハ>は潜航を開始した。艦内ではブザーと同時に「ダイブ! ダイブ!」という警告が鳴り響いたが、橋の上を走る自動車の騒音と振動によって艦の外までは聞こえなかった。
<カメハメハ>は相模川の流れに逆らってゆっくりと進みだした。真っ暗な橋の下から出たころには潜望鏡だけが水面上に出ていたが、それも徐々に水面下に消え、<カメハメハ>の存在を示すものは何も見えなくなった。<カメハメハ>は、黒い水の色と同化した。
滑川 鎌倉駅南約700メートル
星川合衆国海軍 NS由比ガ浜(由比ガ浜海軍基地) WESTPACFLT庁舎(西太平洋艦隊司令部庁舎)
星川合衆国鎌倉コロニー
WESTPACFLT庁舎2階、広い第1幕僚室の片隅で二人の士官が声を殺して話をしていた。加藤中佐とWESTPACFLT N-3(西太平洋艦隊司令部作戦主任幕僚)内藤大佐である。
「それで、お前は何と答えたのだ」それまで前屈みになって加藤中佐の話を聞いていた内藤大佐は、身体を起こして椅子の背もたれに身体をあずけた。
内藤大佐は常日頃、海軍士官には2種類あると考えていた。アドミラル・クラブ(将官への昇進を目指す一部のエリート士官)に入れる選ばれし一握りの士官と、よくて中佐までにしか昇進できないその他大勢の士官。内藤大佐は、間もなく准将に昇任して自分の艦隊を持つアドミラル・クラブの一員。目の前の加藤はその他大勢の士官にすぎない。それにもかかわらず、本来ならアドミラル・クラブの大佐が占めるべきCVW司令(空母航空団司令)のポストを中佐の加藤が横取りしている。司令代理とはいえ、司令が欠員のCVWを仕切っているのはこの加藤だ。司令気取りで、でかい顔しやがって!
NWC(海軍大学(大学院的位置付けの高級士官養成機関))の履修や国防総省での勤務を通じて習得する国の政策決定プロセスを知らない人間に、CVWのような大部隊を指揮する資格などない。政府は、議会は、国務省はどのように行動するのか? これらを知らなければ判断を誤り、国を窮地に立たせてしまう。現場の戦術判断が全てではないのだ。現場しか知らない加藤に、そんなことが分かるはずもない。我々アドミラル・クラブの士官は国防総省の、あの長い廊下を走り回ってそれが身にしみてわかっている。加藤には前々から身の程をわきまえろと言いたかったのだが、今度はよりにもよって酒匂との共同などと言い出した。
内藤大佐は「いい加減にしろ!」と怒鳴りたい気持ちを抑えて考えた。加藤に同調して酒匂軍との共同に加担すれば敵対国と通じる危険人物と見られかねず、かといって反対すれば兵力削減中で手持ちの駒もないのにむやみに反対する無能な士官とのレッテルを貼られる可能性がある。准将への昇任直前にそれはまずい。ここは知らぬ存ぜぬで行くしかない。内藤大佐は守りに入った。
「私で判断できる内容ではないので、明日また連絡すると答えました。」そういった加藤中佐は、内藤大佐の変化に気付いた。さっそく守りに入りましたね。内藤さん。「ですので、いまから司令官に報告して判断を仰ぎたいと思います」
その言葉を聞いた内藤大佐は、明らかに安堵の表情をうかべて言った。「それがよかろう」二人はその言葉を最後に話合いを終えた。
反目し合う二人であったが、お互いにお互いを必要な人間だと考えていた。政府の立てた政策を具体的に軍が行動できる作戦命令に置き換える人間と、その命令を現場で実行する人間。どちらが欠けても任務は成功しない。そのことだけはお互いに理解していた。ただお互いの生き方が違うだけだった。
狩野川 沼津駅東約1.8キロメートル
香貫公国軍 S15基地高級将校官舎地区
香貫公国香貫山首都コロニー
戦略ロケット軍司令官、成増上級大将との面会を終えた堀内少将は、参謀長にも増援の要請をした。参謀長も今日の事態を憂慮していたため、堀内少将の要求を全面的に支援すると約束してくれた。それでも堀内少将の不安は消えなかった。問題は時間だ。星川が攻めてくる前に防御体勢を整えなければならない。時間に余裕がないことを念押しした堀内少将は、続いて後方参謀部に向かった。明日、R38基地に戻るときに一緒に持っていきたいものがあったからである。
戦略ロケット軍司令部での調整を終えて、自宅に帰る堀内少将を乗せた車は、S15基地の正門左手に広がる将校官舎地区のさらに奥にある高級将校官舎地区に向かった。将校官舎地区は小さい家が寄り添うように密集し、中級将校以下の家族がそれらの家に押し込められている。それに比べ高級士官官舎地区の家々は少し大きく猫の額ほどの庭が付いているものの、香貫公国における軍人の生活環境はお世辞にも良いとはいえなかった。
娘と妻が待つ家の前で車を降りた堀内少将は、二人に会える喜びを噛みしめて中に入った。
「お帰り。夕飯作っておいたわ」堀内少将の妻、紬はキッチンテーブルに頬づえをついて堀内少将の帰りを待っていた。
今日の朝、当分帰れないと言い残してR38基地に向かったため、その日の夜に帰ってきた自分を妻が待っていてくれたとは、うれしい驚きだった。「なんだ、戻ってきたのを知っていたのか」
「早川さんの奥さんが教えてくれたわ。あなたが急に戻ってきて司令官に会いに行ったって……大丈夫なの?」
「至急解決しなきゃならない問題があったもんで、それで司令官に会いに行ったんだよ。でも、大丈夫だ」堀内少将は内心の不安を妻に悟られないよう、なにげない表情を装って答えた。
嘘ね。勘のよい紬はそう思ったが、堀内少将の優しい嘘に付き合うことにした。紬は紬で妙な胸騒ぎを覚えていたからである。この人の身に何かある。紬も内心の不安を悟られたくなかった。
「お早いお帰りだね。パパ。よかった」一人娘の凛が自分の部屋から出てきた。
「凛か、ただいま」堀内少将は一人娘を見つめた。
「どうしたの。何年も会っていなかったような顔をして。明日も帰ってきてね」凛は微笑むと自分の部屋に戻って行った。
「凛は優しい子に育ったな」
「そうね」
堀内少将にとって、家族と過ごすこの一時はかけがえのない宝物であった。この宝を手放すわけにはいかない。なんとしても勝ち取ってみせる。堀内少将は決意を新たにした。
滑川 鎌倉駅南約700メートル
星川合衆国海軍 NS由比ガ浜(由比ガ浜海軍基地) WESTPACFLT庁舎(西太平洋艦隊司令部庁舎)
星川合衆国鎌倉コロニー
加藤中佐は司令官執務室の手前にある副官室に向かった。
菊池司令官は地域統合軍であるUSWESTPACCOM(西太平洋軍)の司令官も兼務しているため、副官室は海軍の他に陸軍、空軍、海兵隊の副官と秘書官が詰める手狭な部屋だった。
よく整頓され、清潔だけれども狭い副官室は駆逐艦の艦内にそっくりだ。ここに来る度に加藤中佐はそう思った。
その副官室に加藤中佐が入ると、女性の秘書官が顔を上げてにっこりとほほ笑みながら言った。「お久しぶりです加藤中佐、先ほどから司令官がお待ちです。今、お電話されていますので、そちらにお掛けになってお待ちください」
「ありがとう。遅くまで大変だね」
「普段は定時に帰れますから…… それと、どこにも行かないでお待ちください。おとなしく待っていただくようにと司令官から言われておりますので。コーヒーでもいかがですか?」
「今日は、ゆっくりとコーヒーを飲み時間もなかったからありがたい」
「なんの騒ぎだか分かりませんが、この騒ぎの原因は、また加藤中佐でしょ」秘書官がそう言いながらコーヒーポットの前に立ったとき、電話の終わった菊池西太平洋艦隊司令官の声が執務室から響いた。「加藤は来ているかな」
「はい。お見えになっています」
コーヒーポットを片手に持った秘書官を見た菊池司令官は「加藤、すまんが私のコーヒーも頼む。コーヒーでも飲みながら話そう」といって秘書官にうなずいた。
菊池司令官と加藤中佐の関係を知っている秘書官は「どうぞ」といって2つのコーヒーカップを加藤中佐に手渡した。
加藤中佐にとって唯一の理解者である菊池司令官との出会いは、加藤中佐が大学3年の夏休みに受けたNROTC(星川海軍予備役士官訓練課程)の海上実習のときであった。
NROTCとは、一般の大学に設置された海軍士官養成課程のことで、大学での単位に加えて海軍少尉になるために必要な教育と訓練を受けて、大学卒業と同時に海軍少尉に任命される制度のことある。名称こそ“予備役士官”となっているが、待遇は正規の海軍士官養成機関である海軍兵学校の卒業生と変わりなく、海軍士官の約4割はNROTC出身者が占めている。
このNROTCは、ほとんどの州立大学に設置されていて、ダイダラにも設置している大学がある。加藤中佐は高校生のときに海軍士官を志してダイダラの大学入学時にNROTCに志願した。
NROTCの訓練は厳しく、週3回の訓練のほかに夏休み期間中のほとんどが水上艦艇での実習にあてられていた。加藤中佐が大学3年の夏休みは、当時艦隊の主力巡洋艦であったベルナップ級ミサイル巡洋艦<スターレット>での実習だった。この実習には指導官も同行するが、このときの指導官が当時中佐の菊池司令官であった。
菊池中佐は、とりたてて優秀ではないが、人間味があって機転のきく加藤候補生に好感を持った。加藤候補生は、厳しいながらも熱心に指導してくれる菊池中佐を尊敬した。
以来、加藤候補生は、学生間では解決しない疑問の答えを求めに菊池中佐の家に通うようになった。加藤候補生が持ち込む疑問は難題が多く、菊池中佐も答えに窮する事もしばしばだった。それでも菊池中佐は加藤候補生を受け入れた。若い加藤候補生の情熱を大切にしたいという思いからだったが、加藤候補生が持ち込む疑問の多くは、よい研究材料にもなった。当時の菊池中佐は、大学院で博士課程の履修を命じられた大学院生であったからである。
菊池中佐のように民間の大学院で博士課程を履修する士官は、エリート集団アドミラル・クラブのトップ数名だけ。まさにエリート中のエリートであった。そんな海軍の人事慣例を加藤候補生が知るはずもなく、菊池中佐も自分がエリートだと鼻にかけることもなかった。このため、お互いに軍の階級を意識することがなくなり、年の離れた兄弟のような関係になっていった。その関係はいまでも続いている。
「報告にはすべて目を通したぞ。それにしても、お前のところの高校生はお手柄だったな」
「私もそう思います。これからが楽しみな二人ですよ。だからこそ、早いところ、うちから出さなきゃなりません。」加藤中佐は菊池司令官にコーヒーを渡しながら言った。
「刑務所航空団にいたら二人の将来に悪影響を与えるからか?」菊池司令官は自分の横にある椅子に座れと手を振った。
「そうです。なんせ、いまだに司令が欠員の航空団なんですから」
「司令を引き受ける者がいないのだ。いつ服務違反を起こしても不思議のない連中がゴロゴロしている部隊の司令になろうなどと考える大佐は今の星川海軍にはいない。当面、お前に司令代理を続けてもらうしかないな」
「うちの隊員は、少々癖はありますがスキルの高いやつらばかりですよ」
「それが問題なのだ。実戦で結果を出す実力を持っているにもかかわらず、懲戒処分を受けた前科者の処遇に中央は困っている。CVW15を解隊して、彼らを別の航空団に転勤させようとしても引き取り手がない。かといって、彼らの高いスキルは捨てがたい。今回の兵力削減でもCVW15が削減候補リストに入っていなかったのは、彼らをどう扱っていいのか結論が出ていなかったからだ」そう言った菊池司令官は、加藤中佐に顔を近づけて話を続けた。
「何度も言うように、お前自身と、CVW15は上層部に受けが悪い。今回の兵力削減では難を逃れたが次はわからない。慎重に行動してくれ。お前を失うわけにはいかない。それとならず者たちもな。わかったな」
「わかりました。ありがとうございます」加藤中佐は頭を下げたが、菊池司令官は加藤中佐の微妙な表情の変化を見逃さなかった。
「なにかありそうだな」
「私の同級生だった三宅を覚えていますか?」加藤中佐は、これからが正念場だぞと思いながら三宅准将と交わした内容を菊池司令官に報告した。
「なんでそれを早く言わない…… それで、お前は酒匂が本気だと思うのだな?」
「根拠はありませんが、酒匂は本気で我々と手を結ぶ気でいると思います」
その答えを聞いた菊池司令官は電話を取った。「CJCS(統合参謀本部議長:星川軍制服組のトップ)と連絡を取りたい。CJCSが、どこにいてもかまわない。至急連絡を取ってくれ」電話を置いた菊池司令官は、加藤中佐の目を見て思った。昔と変わらない目をしている。加藤の話を信じてみよう。
それにしても加藤は運のいいやつだ。これまでなら、こんな報告をした時点で敵性国と通じているとして秘密に接する資格を失う可能性もあった。そうなれば秘密の塊である戦闘機に乗ることは許されず、作戦の立案に必要な秘密情報に接することもできなくなる。必然的にCVW15を追い出されるが、秘密に接する資格のない中佐に転勤する場所なんぞない。加藤は、そうなる覚悟で報告したのだろうが、今や状況は一変していた。
状況が一変したのは3日前、大統領官邸の地下で行われたNSC(国家安全保障会議)の席上で荒本大統領が放った一言からだった。「軍は、紛争が発生すると我が国だけで対処しようとする。平和を信奉する我が国は、単独で紛争を解決すべきではない。国際世論の要請を受けて、しかたなく軍を派出するのであって、他の国から派出される軍と協調して紛争を解決しなければならない。たとえ我が国だけに対する直接的脅威であっても、「スクナビ」世界の文化・経済の中心である我が国を支援する国はたくさんある。それらの国と協調して事に当たらなければならない。それにもかかわらず、なぜ軍は自分たちだけで紛争を解決しようとするのか? それは、巨大化しすぎた軍を維持する理由が必要だからだ。この問題に関しては、軍から納得できる説明をしてほしい。場合によっては、単独で対処できないほどに軍を縮小することになるだろう」
荒本大統領による、さらなる軍の縮小宣言であった。
激しい批判にさらされても星川が軍縮を強行したおかげで「スクナビ」世界の軍縮が達成され平和な社会が訪れた。その偉業を成し遂げた大統領こそ荒本大統領だと後世に評価してもらう。それだけが荒本大統領の目的なので、軍を縮小する理由は何でもよかった。荒本政権発足当初は、その理念が国民から熱狂的に歓迎されたが、ATO(綾瀬条約機構)諸国や香貫公国に軍を縮小する兆候は見られない。一方的な軍の縮小は、星川の策略ではないかとの疑心暗鬼を生じさせ、逆に緊張が高まっていた。対話を通じてお互いに信頼関係を築き、その上で自らの理念を実行に移すというプロセスをふまず、何の説明もないまま一方的に軍を削減するだけでは敵対国のみならず同盟国も戸惑うばかりだった。国民はこのような政権に見切りをつけ、荒本大統領への支持率は急降下していた。連邦議会も与野党問わず、これ以上の軍の削減には反対だった。
だが、反対が強くなればなるほど後世の評価が高くなる。そう信じる荒本大統領は、だからこそ軍の縮小を強行しなければならないと考えていた。
このような大統領に軍の縮小を断念させるためには、その理由が事実無根だという状況を作るしかない。その意味で酒匂と協力することは、その状況を作る絶好のチャンスだ。CJCS(統合参謀本部議長)もそう考えるだろう。菊池司令官はそう確信した。
「CJCSは国防総省にいらっしゃいました。電話に出られます」秘書官からの報告を受けた菊池司令官は、盗聴防止装置の付いた赤い電話の受話器をとって、CJCSが電話に出るのを待った。
CJCSが電話に出ると、菊池司令官はいきなり用件を話し始めた。「議長(CJCS)、香貫のミサイル基地の件で新たな展開がありました……いえ、香貫からの攻撃ではありません。この件で酒匂、酒匂王国連邦からコンタクトがありました」菊池司令官は加藤中佐から受けた報告をCJCSに伝えた。途中、加藤中佐は何度も菊池司令官が話す内容に間違いありませんと確認するように何度もうなずいた。
「まさにそのとおりです。POTUS(星川合衆国大統領の略語:現在は荒本大統領)はどうお考えになるか分かりませんが、POTUSの意向に沿っていることは間違いありません……はい。私も、まずは会って話し合うべきだと思います……はい……はい。わかりました。お待ちしております」
CJCSとの電話を終えた菊池司令官は、加藤中佐に向きなおって言った。「CJCSも酒匂と組めるなら組むべきだと言っていた……そんな不思議そうな顔するな。これには理由があってな……」
菊池司令官は、荒本大統領による新たな軍の縮小宣言を加藤中佐に話した。「……というわけだ。だが敵対国の酒匂と協力するとなるとPOTUSの許可を得なければならん。CJCSは、明日のNSC(国家安全保障会議)で許可をもらう腹づもりのようだが、その前にAPNSA(国家安全保障担当大統領補佐官)と相談するので、少し待っていろとのことだ。一緒に待っていてくれ……おかげで、久しぶりにお前とゆっくり話せる時間が取れたな」
だが、ゆっくり話をする間もなく赤い電話が鳴った。
「……いえ、加藤中佐はUSWESTCOM司令部(西方軍司令部)にやって、酒匂と会う準備をさせたいと思います。POTUSへの説明は私が行います……はい。では明日」
加藤中佐は、事の急速な進展に戸惑った。菊池司令官に酒匂の件を報告してから30分もしないうちに大統領官邸は知ることとなり、明日にはPOTUSが何らかの結論を出す段取りが整えられてしまった。国家指揮中枢で働く人々の決断力と行動の素早さに、ただただ驚く加藤中佐だった。
「何をボーっとしているんだ。POTUSへの報告は、お前がやりたかったのか? だが、お前はあまり表に出るな。お前の手柄を妬む連中に足元をすくわれる可能性がある。お前をそんな目にあわせるわけにいかん。酒匂の件はトップダウンで進めるほうが軍のためにもお前のためにもいい」
酒匂の件は、すでに自分の手に負えないレベルに達したと感じた加藤中佐は黙ってうなずいた。
「明日は予定どおりUSWESTCOM司令部(西方軍司令部)に行ってくれ。ただ、明日、USWESTCOM司令官は私と一緒にNSC(国家安全保障会議)に出席することになった。報告する相手がいなくなっても行く理由は、酒匂と会う準備をするためだ。頼んだぞ!」
「わかりました。うちの情報部員は、まだ明日の報告に使う資料を作っているはずですから、必要なくなったと言ってきます」
「そうしてくれ……他に話しておきたいことでもあるか?」
「積もる話は山ほどありますけどね」加藤中佐は笑って答えた。
菊池司令官も笑った。「この件が片付いたら、お互いに時間を作ろう。約束だぞ……久しぶりに戻ってきたんだ。今日はもういいから、琴乃ちゃんの顔でも見て来い」
「ありがとうございます……まだ仕事ですか?」
「USWESTCOM司令官とも話をしなければならん。お前は、気にせず早く帰ってやれ」
加藤中佐は、再び礼を言って横山少佐がいる情報幕僚室に向かった。
藤沢駅北西約400メートル
日本国 神奈川県藤沢市 小料理屋「彩」
WESTPACFLT庁舎(西太平洋艦隊司令部庁舎)を後にした加藤中佐と横山少佐は、その足で鎌倉コロニーに多数設置された縮小・復元器の一つを通って「ダイダラ」に出でた。
縮小・復元器は複雑で大規模な装置だが、縮小・復元される側にとっては、ほんの数秒、自覚症状もない手軽な装置だった。もちろん、加藤中佐の車で縮小・復元器を通過した二人も、高速道路の料金所を通過するような手軽さで「ダイダラ」になった。
そのまま30分ほど車を走らせて藤沢に着いた二人は、加藤中佐の妻、沙織が営む小料理屋「彩」に向かった。加藤中佐が横山少佐を誘ったのである。
「彩」には、客の姿はなく沙織と一人娘の琴乃が待っていた。
「お邪魔じゃなかったですか?」横山少佐は、マツタケご飯をほお張りながら、すまなそうに言った。
「そんなことありませんよ。それよりも、いつも主人がお世話になっています」沙織が答えた。
「マツタケのご飯なんか何年ぶりかな。すごくおいしいです」
「残り物ばかりで、ごめんなさいね。もっと早く連絡してくれれば色々と用意して待っていたのですけど」沙織は加藤中佐を見て言った。
「そんなことありません。本当においしいです……ねっ、加藤さん」
「うん、うまい」加藤中佐はにっこり笑った。加藤中佐の表情にみんながほほ笑んだ。
横山少佐は、加藤中佐を見て、一癖も二癖もあるフーリガンズの荒くれ者が加藤中佐に従う理由が分かったような気がした。
「さっ、私は店を閉める準備をするわ。琴乃、パパの面倒を見ているのよ」といって沙織は店の外に出て行った。
沙織が店の外に出て行くのを見計らったように琴乃は携帯電話を取り出した。
「パパ、今送った写真見て」
「ん! なんだい」加藤中佐は携帯電話を取り出して琴乃が送った写真を開いた。そこには薄明かりの中を飛行する加藤中佐のサンダウナー00が写っていた。「どうしたんだ。琴乃が撮ったのか?」
「私が撮るわけないじゃない。ねっ、鎌倉コロニーの隣にある“インバンド”っていう喫茶店知ってる?」
加藤中佐は首を横に振った。
「その喫茶店って、鎌倉コロニーに出たり入ったりする飛行機が見えるんだって。マニアにすごく人気らしいの。私の同級生にもマニアがいて今日も行ってたみたい。その子がお前のパパが帰ってきたぞって送ってくれたの」
「よく撮れているじゃないか」
「その子に言っておくわ。パパを尊敬してるらしいから喜ぶんじゃない。でもね、この写真をママに見せてからが大変だったよ。パパが帰ってくるーって。お客さんの注文なんかほったらかして、急にマツタケご飯なんか作り出すんだもん。そのマツタケご飯とかは、残り物じゃないよ。ママがパパのために作ったんだよ。おかげで私がお客さんの注文を全部作らなきゃいけなくなって大変だったよ」
「ご苦労さん。大変だったな」
その言葉を待っていた琴乃は、加藤中佐の目の前に手を出して言った「特別手当!」
相模川 平塚駅北東約2キロメートル
酒匂王国連邦海軍 第6艦隊 通常動力型潜水艦<そうりゅう>(SS501)
<そうりゅう>は、新たな監視位置で露頂深度(潜望鏡が海面に出る深度)のまま星川軍の監視を続けていた。
艦長・高原中佐は、発令所の中央に座ってくつろいでいた。いや、くつろいでいるように見せていた。発令所の雰囲気は、あっという間に艦全体に伝播する。その発令所の雰囲気を作るのは艦長だ。そのことを高原中佐は知っていた。ただでさえ相模川に閉じ込められた状態で星川軍の動静を監視しているため、艦全体に緊張感が漂っている。この状態が長引けば、そのうち乗員のミスも増えてくるだろう。潜水艦にとって1つのミスは乗員全員の生死にかかわる。ミスを防いで実力を十分に発揮できる雰囲気を作らなければならない。潜水艦の艦長は、戦術や操艦技術に優れているだけでなく心理学者である必要もあった。
とはいえ、<そうりゅう>をめぐる状況は好転していた。釣り人の“攻撃”圏内からは離れ、星川軍の対潜捜索の中心は徐々に海側に移動している。おかげで露頂深度を維持できる。これまでは、30分おきに川底から露頂深度である深度7センチメートルまで浮上して星川軍の動向を監視してきた。この露頂深度まで浮上することが、乗員に度重なる緊張を強いていたのである。
潜水艦にとって、深く潜航している状態から露頂深度まで浮上するとことは危険であった。水面近くまで浮上することで、水上を航行中の船に衝突する恐れがあるからである。ソナーを使って、近くに船がいないか確認しながら露頂深度まで浮上するのだが、水中での音の伝わりは気まぐれで、ときには1メートル先にいる船の音を聞き取れない場合がある。
露頂深度まで浮上してしまえば潜望鏡やレーダーを使って水上の状況を把握できるが、これらが水面の上に出るまでの最後の瞬間は盲目状態となる。古参の潜水艦乗りならだれしも、潜望鏡が水面上に上がった瞬間、間近に船を発見したため急速潜航で衝突を回避した経験をもっている。このため、露頂深度まで浮上する度に艦内は緊張していたのである。
だが、高原中佐には気がかりなことがあった。空母<カール・ビンソン>の動向である。小出川に入ったかとおもえば、すぐに出てこようとしている。しかも、いつになく警戒は厳重だ。かといって相模川西岸への攻撃とは思えない。星川は何をしているのだ? 疑問を解消するには、まだ、パズルのピースが足りなかった。
高原中佐が堂々巡りをしていると、電信長がクリップボードに留めた電信文を持って現れた。「艦長、6艦隊司令部から特別緊急通信です」
高原中佐は電信文を一読すると、目の前に立っている副長・新井少佐に電信文を黙って渡した。
新井少佐は、電信文を読むなり声を荒げた「6艦隊司令部は、何を考えているのですか! こんな場所に閉じ込めさせておいて“可能な限り速やかに橘基地に向かえ”とは身勝手にもほどがある。星川の監視の目を逃れて相模川に入るだけでも一苦労だったのですよ。それに、すぐには海に出られません。間もなく<カール・ビンソン>が小出川から出てきます。厳重な対潜警戒がされている河口に、のこのこと出て行くことは自殺するようなものです」
新井少佐の言うとおりだ。「はいそうですか」と言って簡単に相模川を出られる状況にはない。だが、6艦隊司令部は“可能な限り速やかに”といっている。“速やかに”ではない。
この意味するところは、星川に探知されない範囲で、できる限り早く橘基地に帰港せよということだ。相模川に入って以来、常に相模川を抜け出す手段を考えてきた。準備はできている。そう考えた高原中佐は、海図台にかがみこんだ。
問題は、いつ<カール・ビンソン>が小出川から出てくるかだ。大きな川であるにもかかわらず相模川の河口は狭い。しかも河口には漁港もある。狭い河口で漁船と鉢合わせになれば、漁船の作り出す横波がまともに当たり、全長1メートルの<カール・ビンソン>であっても転覆する恐れがある。そのような危険を回避するには、漁船が出港する前に、できるだけ陸岸から離れようとするはずだ。この読みが正しければ、そろそろ<カール・ビンソン>は小出川から出てくるだろう。
そして、我々は漁船の出港に合わせて相模川の河口を通過する。漁船のスクリューとエンジンから発生する騒音に紛れて相模川を抜け出せば、もし星川が河口付近で対潜警戒していたとしても探知される恐れはない。漁船のスクリューがかき乱した水の中を行くことに不安がないわけではない。乱気流に遭遇した飛行機のように激しく揺られるだけでなく、一時的に操艦が不可能になる可能性だってある。困難で危険を伴う方法だが、星川に探知されて追い掛け回されるよりは、はるかにましだ。高原中佐は、そう考えた。
「干潮は0730です。最適ではありませんが、まずまずの潮です」相模川を抜け出す手段を高原中佐と一緒に考えてきた新井少佐も同じ結論に達していた。
「そのようだな。まずは<カール・ビンソン>のお出ましを待つこととしよう」
10分後、<そうりゅう>のESMマスト(レーダー波などを探知する受信装置を先端に装備したマスト)が<カール・ビンソン>から発せられたSPS-49対空レーダーの電波をキャッチした。<カール・ビンソン>が小出川から出てきた。高原中佐の読みは当たった。
「よし。こちらの読みどおりだな。副長、我々は漁船に隠れて相模川を脱出することにする。それまでは、ここに留まろう」
「わかりました。ここを出発したら荒天準備を発令したいと思います」現在の位置を離れて河口に向かう時間を計算していた新井少佐が答えた。
「そうしてくれ。漁船が真上を通過するときは激しく揺れるぞ。非番の者は全員ベルトを締めて寝かせよう……私は、少し時間があるので1時間ほど仮眠をとってくる」高原中佐はそういって艦長室に向かった。途中、士官室で夜食をとってから寝ようと思ったが、腹にくい込み始めたベルトを見て、そのまま寝ることにした。
5分後、艦長室の前を通り掛かった若い水雷士は、艦長室から聞こえてくる地響きのような音を聞いた。その音がいびきだと気付いた水雷士は、驚きとともに感心もした。こんな張り詰めた状況でも、艦長はいびきをかいて寝られるんだ。潜水艦訓練教育隊の初級士官コースを卒業したばかりの水雷士は、目の前の業務をこなすだけで精一杯だった。自分が艦長になることなど考えたこともなかったが、艦長になるには、このくらいの度胸が必要なんだろうなと思った。自分にできるかな? まあいいさ。艦長に余裕があるということは、当面は安全だということだ。水雷士は、そう思いながら魚雷発射管室に向かった。




