その33
伊勢原駅北西約650メートル
井崎コロニー
井崎家の屋根裏に築かれた井崎コロニーは静かだった。古いが頑丈な建物は強い風くらいではびくともしない。ただ、航空機が出入りする穴を塞ぐシャッターが、時折カタカタと小さな音をたてていた。いつも通りの静かな井崎家の夜。その静けさが破られようとしていた。
エプロン横にある運航事務所には、女性専用の当直室が管制室の隣に設置されていた。この当直室にはベッドが3台並べられ、3人の女性が毎夜交代で当直に当たっているのである。
今夜は井崎美代が当直だった。美代は部屋を暗くして右端のベッドで仮眠をとっていた。
「…… レディオ イサキ・レディオ ヤツ・カーゴ・スケジュール0405 ハウ ドー ユー リード」(井崎レディオ 谷津カーゴ・スケジュール0405です。 聞こえますか?)
「ん? なに? 急患?」美代はベッドから起き上がると隣の管制室に急いだ。これはラジオからだわ。誰かが無線で呼んでいる。それに急患なら電話で連絡があるはずよ。
美代は管制卓の天井から吊るされた無線のマイクを飛びつくように掴み取った。「ヤツ・カーゴ・スケジュール0405 イサキ・レディオ 呼びましたか?」
「あー…バリバリ…レディオ いやー 通じてよかった ヤツ・カーゴ・スケジュール040…バリバリ…エマージェンシー…バリバリ…」
「ユア ボイス カッティング エマージェンシーを宣言されましたか?」美代は眉を寄せた。
「ヤツ・カーゴ・スケジュール0405 エマージェンシー・ランディングをリクエストします…バリバリ…受け入れてもらえま…バリバリ…」
「イサキ・レディオ ラジャー 受け入れ準備をします。所要時間5分。リクエストETA(到着予定時刻) アンド ユア エアクラフト・タイプ」
美代はヤツ・カーゴ・スケジュール0405から一通りのことを聞き出すと「たいへん」と言って管制卓のスイッチを次々と入れ、救難班に通じる警報を鳴らし、父親である井崎太一郎に電話をかけた。
「どこの飛行機だ」井崎太一郎は、作業着の上着を持ちながら管制室に入ってきた。
「谷津ラインカーゴのIl-76。あと1分で到着するわ」滑走路の状態を双眼鏡で確認していた美代は、双眼鏡から目を離さず答えた。
「谷津ラインか」太一郎は、上着のボタンを留めながら言った。
「何か問題でもあるの? この飛行機に受け入れ許可を出してあるわ」美代は、双眼鏡から目を離して太一郎を見た。
「いや、受け入れに問題があるわけじゃない。ただ、この会社は運航態勢や整備態勢に問題があってな。近々、星川の査察が入るとの噂がある会社だ。ところで、準備はどうだ?」
「後は救難班が位置につけば完了。シャッターは両方とも開いている。システムはオール・グリーン。異常無いわ」
短い時間でよく判断して準備を整えたものだ。娘を誇りに思った太一郎は大きく頷いた。
「エマージェンシーだって! 負傷者はいるか?」美代の兄、医師の井崎淳一郎も管制室に入ってきた。
「負傷者はいないと連絡を受けているわ」
「なら、一安心だ」淳一郎はホッとした表情を浮かべた。
伊勢原駅西約0.5キロメートル
香貫公国空軍 軍事輸送航空コマンド第6955基地第2航空群 イリューシンIl-76MD“山鳥-570“
“山鳥-570”いや、今は“ヤツ・カーゴ・スケジュール0405”を名乗るIl-76MDのコックピットでは、機長が後ろを振り向き通信士席に座るKGBの北村中尉に言った。「うまいもんだな。KGB(香貫国家保安委員会)ではこんな訓練もしているのか」
「いろいろやっていますよ」井崎レディオとの交信を担当する北村中尉は自慢するように言いながらマイクのジャックを握り締めた。北村中尉は無線機の不調を演出するために、マイクのジャックを抜き差ししながら井崎レディオと交信していた。完全にジャックを抜いたり、微妙に少しだけ抜いたりすることで自然な形で無線機が不調であるように見せていたのである。
「そうだろうな」機長は、人を騙すことを自慢げに話す北村中尉に良い感情は持てなかった。
コックピットの後部で身体を支えながら立っていた木下空軍大尉も、KGBの北村中尉に良い感情を持てない一人だった。木下大尉は戦闘職域の将校ではなく、航空管制官だった。10機以上の戦闘機を秩序立てて離発着させるには航空管制官も必要だということで“魔女の食事”作戦部隊に派遣を命じられたのである。
エマージェンシー機があると、どれだけの人が無事に助けようと必死になるのか。そのことをKGBの中尉は知っているのだろうか? けっして自慢できる話ではない。
「しかし、東京湾の人間はそんなくだけた話し方で無線交信をするのか?」機長は、話を変えた。
「星川はもっとくだけた話し方で無線交信をしますよ」北村中尉は、当然だというように答えた。
我々がこんなくだけた無線交信をすればただではすまんだろうな。機長はそう思いながら目をせわしなく動かして井崎コロニーを探した。あった。我々のために点灯させてくれた進入方向表示灯を見つけた。
「井崎の進入方向表示灯を視認した。いったん上空をパスして、ダウンウインド経由でコロニーに進入する。井崎に連絡してくれ」機長は井崎コロニー上空を進入方向表示灯の示す方向で通過できるよう旋回を開始した。




