その27
柏尾川 大船駅北約1.8キロメートル
星川合衆国空軍 大船AFB(大船空軍基地)
星川合衆国大船コロニー
大船AFBに勤務する隊員の夕食が済んだころ、3/75Ranger(第75レンジャー連隊第3大隊)の隊員は、出撃前最後の食事に向かった。一連の騒動が始まって以来、やっと暖かい食事がとれることにレンジャー隊員は喜んだ。ただ、食事の時間は軍の基準にしては遅い時間だった。レンジャー隊員の何気ない一言から秘密が漏洩することを恐れた連隊本部が、基地に勤務する隊員の夕食時間とずらすように指示してきたのである。人との接触が少なければ少ないほど秘密が漏洩する危険は減る。
腹をすかせたレンジャー隊員は、将校は将校クラブ、上級曹長は上級曹長クラブ、曹長以下の隊員は兵員食堂に分かれて食事場所に入った。
若い下士官や兵が食事をとる兵員食堂は、数人の基地勤務員が食事しているだけだった。そこに入ったレンジャー隊員は、トレーを持って一列に並んだ。
「あんたら見かけない顔だね。どこの整備隊だい?」兵員食堂で民間従業員として働く芳江が、レンジャー隊員の列に話しかけた。
配膳の順番を待つレンジャー隊員の一人が自慢げに言った「お母さん、オレたちは整備員じゃあないぜ! オレたちはレンジャーだ。陸軍さ。」そして、左腕に付けたレンジャー徽章を初老の芳江に見せつけた。
「陸軍さんかい。どおりで体格がいいと思ったわよ。こんな田舎のコロニーに訓練でもしに来たのかい?」
「ちがうよ、オレたちは0時に集合して悪い奴らをぶちのめしに行くんだ」別のレンジャー隊員がこぶしを挙げた。
「おい、任務前点検の時間とか、うかつに喋るなよ!」前に並ぶ伍長が注意した。
「変なこと聞いてごめんなさいね。たくさん食べてがんばってよ」
「まかしとけ!」先ほどレンジャー徽章を見せびらかしたレンジャー隊員が答えた。そして、その後ろに並んでいた若い1等兵は、芳江を自分の祖母とだぶらせたのか祖母の言葉に頷くように首を縦に振った。
芳江は怪しまれないようにレンジャー隊員の人数を数えた。全部で500人くらいね。忘れないようにしないと。芳江はそう考えながら、洗い場に向かった。
1時間後、仕事を終えた芳江は、塗装の痛んだ古い“カムリ”に乗って夫の待つ自宅に向かった。芳江の自宅は、大船AFBの滑走路脇に建つ古いマンションだった。
「帰ってきたよ」ドアを開けると目の前のリビング・ダイニングは真っ暗だった。リビング・ダイニングの奥にはベランダに面して部屋が二つ並んでいる。右側の部屋は明かりとテレビがついていたのだが、ドアが閉められて隙間から明かりが漏れているだけだった。
「お帰り」ドアが開けられた左側の暗い部屋から夫の声がした。
「何かあったか?」夫は三脚に取り付けた望遠鏡で大船AFBを観察しながら言った。マンションの4階にあるこの部屋からは、滑走路とエプロンの一部が見渡せる。
「レンジャーとかいう兵隊が500人くらい食堂に来たわ。夜の0時に集合して悪い奴らをぶちのめしに行くんだってさ。その時間は、たぶん任務前点検の時間だと思うんだけど、任務前点検って何なのさ」
「出撃前の、やる気の確認と、持ち物検査みたいなもんだ」夫は、杖をついて足を引きずりながら明るい隣の部屋に移った。夫は、星川陸軍第82空挺師団に長く勤めた退役軍人だが、戦闘中に負傷した足が動かなくなり、杖がなければ歩けなかった。
「かあさんが仕入れた情報は、新崎さんが欲しがっていた情報そのものだ。こりゃあ臨時ボーナスだぞ。よかったな」夫は、芳江が仕入れた情報と自分が観察した基地の状況を暗号に変えながら言った。
「よし! できた。かあさん、頼むぞ」夫は、暗号にした紙を芳江に渡した。
芳江は「はいよ」と言って受け取ると、数回読み返した。紙を見ながら自然に話せるくらいに内容を覚えた芳江は、自分のガラケーを取り出して横浜コロニーに住む同年代の女性に電話をかけた。
その電話の内容は、他人が聞けばただの日常会話だった。NSA(星川国家安全保障局)が傍受していたとしても、NSAが関心を引くような単語は一切使われていなかった。
芳江は、電話を終えると深く息を吐き出して、近日中に振り込まれる臨時ボーナスの金額を計算した。金額に満足した芳江は「のどが渇いたわね」と言って明るい部屋を出ていった。
芳江からの電話を受けた横浜コロニーに住む女性は、第6台場金融センターで金融業を営む男に電話をかけた。彼女は、芳江との会話を一字一句漏らさず伝えると電話を切った。
電話を受けた金融業の男は、暗号を解読すると別の暗号に翻訳して香貫山首都コロニーで保険ブローカーを営む男に電話でその内容を伝えた。彼は、電話を終えると解読と翻訳に使った紙を机の上に置かれた灰皿の中で燃やした。紙が完全に燃えたことに満足した彼は、席を立って窓から外を眺めた。窓の外には眠らない町、第6台場金融センターの摩天楼がきらきらと輝いていた。
芳江と夫は、銀行の通帳を見ていた。「もう少しで目標金額ね」芳江はほほ笑んだ。目標金額とは、孫の手術に必要な費用のことだった。生まれながらの難病に苦しむ孫が生き続けるには、高額な手術費用が必要だった。その手術費用を貯めるために二人は必死に働いた。
だが、思うように金は貯まらない。それでも、できるだけ早く孫の苦しみを解放してあげたい。そんなとき、二人は星川国防新聞社の新崎編集長と出会った。事情を聞いた新崎編集長は、「大船AFBの動向を常時観察して報告してくれれば、相応の謝礼を払いますよ」と提案してきた。普段の謝礼は少なかったが、時々今回のような特別な情報を求められることがあり、その際の臨時収入はけっこうな金額だった。
「さぁ、私は内職を終わらせましょうかね」芳江はコンピュータの電源を入れた。
「今日は、もういいんじゃないか」夫は芳江の身体を気遣った。
「そうもいかないでしょ。1日でも早く手術しないと。ねっ」と言って、コンピュータの壁紙になっている孫の写真にほほ笑んだ。
芳江が自分を犠牲にしてでも孫を助けたいと決意したのは、孫が1歳の誕生日を迎えた日からだった。
孫の両親と芳江夫妻は、孫が入院する病室で、ささやかな誕生祝いを行った。
無数のチューブが身体につながれた孫に向かって、芳江はやさしく言った「1歳になったね。誕生日おめでとう」そして、芳江は孫に向かってほほ笑んだ。
すると、それまで無表情に天井を見ていた孫は、顔を芳江に向けてにっこりとほほ笑んだ。
鼻にもチューブが繋がれ、それでもほほ笑む孫を見て芳江の心は痛んだ。
芳江は孫に顔を近づけた。ふと、ほほ笑む孫の口の中を覗くと白い乳歯がみえた。あっ、乳歯が生えてきた。この子は病気と戦っているだけじゃないのね。大きくなろう、大きくなろうともしている。そんな健気な孫を見て、芳江の目から涙がこぼれた。
せめて、このチューブをはずして自由に動けるようにしてあげたい。それは、孫の両親と芳江の夫も同じ思いだった。だが、高い高い手術費用が必要だった。それでも孫の両親と芳江夫妻は、手術費用を貯めようと誓った。なかでも芳江の決意は固く、以来3つの仕事を掛け持ちして働き続けている。
そんな芳江夫妻にとって、新聞社に情報を提供するだけで得られる臨時ボーナスは無くてはならない収入だった。芳江夫妻は新崎編集長に感謝した。
だが、芳江夫妻は騙されていた。
新崎編集長の名刺に印刷された星川国防新聞社の住所には、狭い事務室に電話があるだけで新聞社などではなかった。星川国防新聞社など存在しないのである。そして新崎編集長は、芳江夫妻には星川国防新聞社編集長の名刺を渡していたが、別の協力者には別の会社、別の肩書き、別の名前の名刺を渡していた。新崎編集長は会う人によって肩書きも、名前も変えていたのである。彼は、KGB(香貫国家保安委員会)の海外工作員だった。芳江夫妻が提供した情報は、香貫に流れていたのである。
芳江の夫は、情報の伝達方法や高額な報酬に不審を抱いていたが、芳江と孫のことを考えると詮索はできなかった。ましてや、芳江にその事を話すことなどできなかった。私は、外国に情報を売り渡しているのではないか。芳江の夫は、そう思うこともあったが、それならそれでいい。最後まで騙されたふりをしよう。芳江の夫は、芳江とは違う決意を持っていた。




