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曳き鬼

 初夏。急にきつくなった陽光の下。

 吹上かおりは額の汗を押さえながら、いつもの駅で電車を待っていた。


 深く下げた前髪越しにも、五月下旬の陽射しは眩しい。

 今日は二コマ目の講義からだ。

 朝とはいえ遅めなので、駅はラッシュのピーク時ほどは混んでいない。

 混んではいないが、狭い空間に人がたくさんいる状態は辛い。

 全身が不自然に脈打ち、息がしにくくなってくる。

 暑さの為だけでない汗も、じわっとにじみ出てくる。


 不意に背中を激しく突き飛ばされたような衝撃を感じ、かおりはよろめいた。

 思わずそちらを見る。

 険しい目をした、紺色のスーツを着たサラリーマンらしい青年がそこにいた。

 出張なのだろう、書類ケースの他に小さい旅行鞄を手にしていた。

 かおりと目が合うと、彼はあからさまに顔をゆがめた。


「なんだよ、あんた。俺になんか文句でもあるの?」


 きちんとした身なりに似合わぬぞんざいな言葉遣い。

 不機嫌の極みとでもいう低くてとげとげしい声。

 関わらない方が身の為と言えそうな人だ。


「い、いえ……」


 あわてて目をそらそうとしたその瞬間、鼓膜も破りそうな金属音が響いた。

 思わずかおりは顔をしかめる。


「……んだあ、その顔。ヒトのこと見て嫌そうな顔すんな!」


「ご、ごめんなさっ」


 更にひどくなる金属音に、無駄を承知でかおりは耳をふさぎ、しゃがみこむ。


「おい。一体何のパフォーマンス?」


 ややあきれた、そして更に苛立ちの膨れ上がった声が頭上から落ちてくる。


「耳なんかふさいでしゃがみ込んじゃって。まるで俺が悪者みたいじゃねえかよ」


 その声すらかすむすさまじい金属音に、頭がくらくらする。


(行って。お願い、私に構わないで!)


 この人がかおりにつっかかってきたことそのものに、深い意味などないだろう。

 おそらく彼は、もやもやを誰かにぶつけて、八つ当たりがしたいだけだ。


 ひょっとすると彼は、かおりに()()()()()()()()のかもしれない。

 とりあえず謝って、視線を外してしおらしくしていたら多分、彼もそのうち気持ちを抑えるだろう。


 しかし……この人の向けてくる【悪意】は強烈過ぎる!

 耐えられない!


「どうかしましたか?」


 涼やかに通る静かな声。

 耳を聾するばかりだった金属音が、断ち切られたように唐突に止まった。


「彼女は僕の後輩です。何かトラブルでも?」


 かおりは驚いて目を上げる。

 ユキ、だった。



 ユキと知り合ったのは年度が変わる少し前、一月半ば頃のこと。


「あの、ちょっとごめん」


 不意に話しかけられ、かおりは目を上げた。

 冬の陽射しがたっぷりと差し込む学食の、隅っこ。

 そこでかおりは、図書館で借りたばかりの本を読みふけっていた。午後の講義のひとつが突然休講になったので、いつものようにここで本を広げていたのだった。


 学食といってもかおりが入学する直前に全面改装されたらしく、ショッピングモールのフードコート程度には明るくてお洒落っぽい雰囲気だ。

 ここで、お昼ご飯を食べたりコーヒーを飲んだりしながら本を読んでいると、何故かとてもほっとした。

 入学まもなくからかおりは、入り口のガラス戸に『cafeteria』などと流れるようなレタリングで記されている、この真新しい学食が気に入った。

 ガラス越しに燦々と陽が差してくるし、壁やテーブルも白や黄色で明るいから、隅で独りで本を読んでいたとしても、過剰にみじめったらしくなくていい。

 待ち合わせの誰かを、本を読みながら待っている……ような雰囲気になる。

 おまけに大学というところは独りでいる者に対して必要以上に反応しない場所らしく、お陰でかおりは気兼ねなく居心地良くいられた。

 小中高のいつの時代より、独りが目立たないこの状況が嬉しいし、ありがたい。


(あー、一生大学生やっていたいかも)


 ページを目で追いながらお茶やコーヒーをすすり、満足のため息をついてよく思った。


 かおりは目を上げ、息を呑んだ。


 声の主はガラス越しの陽光を背に、すっと立っていた。


 ほんのりと血の透ける色白の顔。

 無造作に整えられた、さらさらした茶色っぽい髪。

 品の良い切れ長の目に、形の良い鼻梁。

 薄めの、桜の花びらを思わせるような唇。


 身に着けているのは太めの白い毛糸でざっくり編んだカーディガン風のコートにブルージーンズ、というなんてことのない服なのに、はっとするほど鮮やかな印象の美青年だった。

 『男装の麗人』という言葉が何故か浮かんだ。いや、彼はまぎれもなく男性だったが。


 次の瞬間、話しかけられたと勘違いしたのではと思い付き、かおりはそれとなく辺りを見回した。

 しかし自分以外、近くには誰もいなかった。

 青年は真っ直ぐこちらを見ている。


「あ、その。いきなりごめん。ちょっと訊きたいんだけど」


 低めの静かな声で言いながら、彼はかおりが読んでいる本へ目を落とした。


「それ、大学図書館の本だよね?今までにも僕、ここで何回か君を見かけたけど、いつも図書館の本を読んでいるよね?だから、ちょっと教えてほしいんだけど……」


「なん、ですか?」


 身構えるような気分でかおりは問う。

 どうやら相手はこちらを見知っている様子だ。ちょっと気味が悪い。

 ナンパとかストーカーとかいう単語が、チラっと頭をかすめた。

 しかし自分が、たとえ遊びでもこんな綺麗な人に好かれたりつきまとわれたりするような女の子だとは、とても思えなかった。

 思い直して、かおりは改めて彼を見た。

 少し恥ずかしそうに彼は、軽く目をしばたたいた。


「大学図書館の使い方、教えてくれない?興味あるんだけど、どう使っていいのかよくわからなくて」


「は?」


 彼は二十四、五歳ほどだ。一年生のかおりより、ずっと先輩の学生にしか見えなかった。

 最も、大学には様々な事情で遅れて入学してくる人も沢山いるから、年齢だけで一概に先輩だとは言い切れない。

 が、たとえ彼が秋入学の学生だったとしても、一月半ばの今、図書館の使い方がわからないなどということがあるだろうか?


 かおりの怪訝な顔に、彼は頬を染めて事情を説明し始めた。


「実は僕、最近ここで勉強をし始めたんだけど、厳密にはここの学生じゃないんだよ。だから、ホントは図書館を使っちゃいけないのかもしれないんだけど、調べたいことがいくつかあって。図書館って、ここで勉強している者は誰でも利用していいんだよね?」


「……ああ」


 ようやくかおりは納得した。

 彼はおそらく聴講生なのだろう。

 聴講生の中には三ヶ月だったり半年だったり、短い期間だけ講義を聴きに来る人もいる。

 だったら学内に知り合いも少ないだろうし、大学のシステムそのものにも疎いかもしれない。

 図書館をどう使っていいのか、戸惑うこともあるだろう。


「ホントごめん、突然声かけて変なお願いしたりして。あの、別に今じゃなくてもいいんだ、君の都合のいい時にでも……」


「いえ。かまいませんよ、今でも」


 本を閉じ、かおりは立ち上がる。

 ファッション誌の表紙になってもおかしくないくらいのすらっとした美青年が、腰をかがめるようにしてお願いしている様子は、可愛らしいような可哀相なような感じがする。

 それに……彼からは特に【悪意】は響いてこない。

 だったら付き合える。

 かおりは笑みを作り、青年へ目顔で合図する。

「図書館、行きましょう」



 学食を出て道なりに進み、赤レンガ風の外壁の図書館へ向かう。

 図書館のそばには、大学のシンボルツリーでもある大きな木がある。

 夏場は涼し気な葉擦れの音を響かせていたが、今は枝がむき出しで少し寂しい。


 今日は風もなくて暖かい、のどかな冬晴れだ。

 外へ出た途端、彼は眩しそうに目を細めた。

 しかめた顔さえ綺麗な男の人など、身近で見たのはかおりの人生初だ。


「面倒かけてごめんね。柳田國男の『遠野物語』、一回きっちり読んでみようかなって」


 彼は言う。文学や民俗学を学ぶ者なら、一度は手に取る基本中の基本といえる本だ。


「ああ……言葉遣いが古くてちょっと手強いですけど、そんな分厚くないですから多分すぐに読んでしまえると思いますよ」


 何気なくかおりがそう言うと、彼は目を見張った。


「読んだこと、あるの?」


「あ、いえ」


 急に恥ずかしくなって言葉を濁す。


「その。通り一遍に目を通しただけです。夏休みのレポートに必要でしたから」


 レポートの為に読み流しただけだから、読んだと胸を張るほどのものではない。


「じゃあ……ちょっと訊くけど」


 彼は少し眉をひそめた。


「そこに『曳き鬼』って言葉……出てきた?」


「ヒキオニ?」


 かおりは首を傾げる。


「さあ?無かったと思います。天狗とか河童、座敷童とかの記述はありましたけど。あ、でも半年ほど前にざっと読んだ程度ですから、私が忘れているのかもしれませんね」


 かおりがそう言うと、彼は、残念なようなほっとしたような感じでかすかに笑った。



 図書館に着いた。

 検索システムの端末操作を説明し、出てきた情報を確認して書庫へ行き、目当ての本を探し出して貸出カウンターで貸し出しの手続きをする。


 その一連の流れすべてが、彼にとっては非常に珍しい、初めて経験する事柄のようだった。

 彼の、内裏雛を思わせる上品な切れ長の目が、食い入るようにかおりの手元を、行動を見ている。

 瞳はキラキラと輝き、頬は紅潮し、彼がとてもわくわくしているらしいのが伝わってくる。


(この人……)


 もしかすると大学図書館というよりも、図書館そのものを利用したのが初めてなのかもしれない。


(でも、そんなことってある?)



「ホントにありがとう。お陰で助かったよ」


 借りたばかりの『遠野物語』の文庫本を手に、彼は嬉しそうに何度も礼を言った。

 軽い違和感はなくもなかったが、こんなに喜んでくれるのならまあいいか、という気になってきた。


「手を煩わせちゃったね。カフェテリアのでよかったら、お礼にケーキとコーヒーくらいおごらせてほしいんだけど」


「ああいえ。そんな、大したことじゃないですし」


 それに、次の講義の時間も迫ってきていた。そう言うと彼は、本気で残念そうな顔をした。


「そう……か。じゃあ、次に会った時にでも。良かったらお名前、教えてくれない?」


 一瞬ためらったが、子供のように屈託のない彼の顔を見ていると、名乗らないのも不自然な気がしてきた。


「吹上、です。国文学科の一年生の……」


「国文学科の、フキアゲ、さん」


 口の中でかみしめるようにつぶやき、彼はにっこり笑った。


「じゃあまたね、吹上さん。僕は、ユキ」



 それからかおりは二、三度、ユキと名乗る青年と講義が終わった午後、学食でお茶やコーヒーを飲んで話をする機会があった。


 ユキ、がどんな字を書くのか、名字なのか下の名前なのかすらわからなかったが、【悪意】を一切感じさせない、幼い子供のようにピュアな彼と一緒にいると、自然と心が穏やかになった。


 彼の名はユキ。

 社会学部での、民俗学の講義を聴きに来ているらしい。

 図書館で借りている本のタイトルから見て、『ケガレ』の研究に興味がある様子。

 それだけ知っていれば十分だ。


「ケガレっていうのは『気枯れ』……気が枯れる、から来ているんだそうだよ。つまり生命力が枯れるって言うか。生命力が枯れて弱くなったら人は罪を犯しやすくなる、だから忌まれた、そんな説があるんだ」


 ある日、自販機で買ったコーヒーを飲みながらユキは、静かな声でそんなことを言った。

 彼はいつも静かな声で話す。この人が声の限りに叫んだり、大声で笑ったりするなどまったく想像出来なかった。


「ユキさんはどうして『ケガレ』に興味を持ったんですか?」


 何気なくそう訊いたら、彼は、一瞬だったがギクッと身をすくませた。

 軽く目を泳がせ、結局あきらめたような苦笑いを口許に含み、答えた。


「僕は……ケガレじゃないかと思うから」


 意味がよくわからなかったが、それ以上訊くのはなんとなくはばかられた。



 それがユキと会った最後になった。

 ちょうど試験期間になったので講義がなくなったせいだろう。

 が、ユキと会えない日が続くと、かおりの心は徐々にふさいだ。

 居心地よかった学食の隅っこが、急に寂しくて味気ない場所のような気がしてきた。


 ほぼ毎日、午後になると学食へ行って本を開き、ページに目を当ててはいたが、内容がきちんと頭へ入ってこなかった。

 知らず知らずのうちに目の端で、ユキの姿を探している。


(悪いこと、訊いちゃったのかな)


 時々そう思った。

 たまに会って話をするだけの自分が、踏み込み過ぎた質問をしたのかもしれない。

 かおりにとっては何気ない世間話のつもりだったが、彼にとっては触れてほしくない話題だったのかもしれない。


『僕は……ケガレじゃないかと思うから』


 寂しそうな言葉と苦笑いが、何度もかおりの耳によみがえった。



 聴講生の彼とはおそらく、今後二度と会うことはないだろう。

 最後に彼へ、嫌な思いをさせてしまったのかもしれない。



 無意味に長い春休みが終わり、新しい年度が始まった。

 うららかに晴れた春の陽射しの中、無駄に明るくざわめいたキャンパスをかおりは行く。


 人ごみは苦手だ、物心ついた頃から。

 棘のある音や波動……特定の人や物へではない、放射状に発散されている誰かの【悪意】が、不意打ちでぶつかってくる気がするから。

 出来るだけ人の少ない所を選んで歩きながら、かおりは何度目かの重いため息をついた。


 と、目の前へ桜の花びらが風に乗って運ばれてきた。

 誘われるようにそちらを見ると、白昼夢のように淡い色の花を枝いっぱいにつけた、ソメイヨシノの大木があった。


 図書館のそばにある大きな木は、そう言えばソメイヨシノだった。

 盛りを過ぎかけたその木の下に、風に舞う花びらを子供のような表情で一心に見つめている青年がいた。

 春らしい、真っ白な綿シャツを無造作に着ただけのその人は……。


「やあ」


 かおりに気付き、彼は振り向いてほほ笑む。


「お久しぶり、吹上さん」


 ユキ、だった。



「あ……」


 目頭が熱くなった。

 身体の奥から疼くように、彼に抱きつきたい強い衝動が湧き上がったが、なんとか耐えた。

 泣きそうにゆがんでしまう頬で無理に笑い、かおりはやっとユキに応えた。


「お久しぶり、です、ユキさん」


 ふと彼の視線が上へそれた。

 こちらへ近付いてくると、彼は実に無造作に腕を伸ばしてかおりの髪に触れた。思わず息が止まる。


「髪に花びらがついてるよ、吹上さん」


 ほとんど白の花びらが、ユキの指からはらりと舞う。


「似合っていた気もするけど。吹上さんの髪、艶のある綺麗な黒髪だし。そのままにしておいた方が良かったかな?」


 屈託なく笑うユキを見ながら、かおりは止めていた息をほうっと吐き出す。


(久しぶりに会って、そんな不意打ち。反則です……)



 ユキはどうやら、今年度も講義を聴きに来ることにしたらしい。


 学食でお茶を飲みながら向かい合っていると、二ヶ月以上も会わなかったことが嘘みたいに思えた。


「図書館のそばの木、ソメイヨシノだったんだね。花が咲いていないと何の木だかわからないよね」


 のんびりとそんなことを言う。

 彼のこういう、ちょっと浮世離れた感じは相変わらずだった。


「吹上さんは今年、二年生だったっけ?僕はよく知らないんだけど、そろそろゼミをどこにするかとか、考えたりするんでしょう?」


「ええ……そう、ですね」


 半ば上の空でかおりは答える。

 こうして向かい合っていると、ユキの唇に目が行って仕方がなかった。

 長く綺麗な指で紙コップを持ち上げ、彼はそれを唇へと運ぶ。

 それこそ桜の花びらを思わせる唇。

 あたたかいのだろうか、それともひんやりとしているのだろうか?


(……触れたい)


 そんなことを思っているのに気付き、はっとする。

 ごまかすように自分のコップに口をつけ、飲み込む。

 妙に甘くて口の中がねとつくミルクティーだった。


「まだちゃんと決めていないんですけど」


 目を伏せ気味にして答える。


「国文学より国語学のゼミにしようかな、とか。音便や文法の研究、面白そうですから」


 彼のほほ笑む気配がする。


「そうなんだ。ちょっと意外。吹上さんは読書家だから、文学の研究をするんだと思っていたな、僕は」


(私は別に……読書家じゃないです)



 読書は決して嫌いではない。が、本当に好きだとも言い切れない。


 『本を読む』という形の中に入っていれば、ぶつかってくる【悪意】からある程度逃げられる。

 たとえるならかおりにとって本は、高速道路に設置されている遮音壁だ。

 小学生の早い段階でそれに気付き、以来彼女は『読書好き』『読書家』になった。『読書家』だということにした、が正しい。


「読書家って程でもないですよ?」


 後ろめたさを隠し、かおりは弱々しく笑ってそうとだけ答えた。



 午後の講義が終わった後、学食でお茶やコーヒーを飲んで休憩するのが一年生の頃からのかおりの習慣だった。

 いつしかユキも週に二度ほど顔を出すようになり、三十分くらいおしゃべりするようになった。


 おしゃべり、といっても主に勉強の話だ。

 ユキが講義で聴いたちょっと面白いエピソード、国文学科では今どんな勉強をしているのか、とかそんな話だ。


 時にはそこから脱線して他愛のない話に飛ぶこともあるが、基本的にお互いのプライバシーには踏み込まない。

 楽しいけれど節度のある、あり過ぎるおしゃべりといえなくもない。


 子供のようにピュアなところのある彼は、知識欲や好奇心も子供のようだった。

 たまたま持っていた紙魚だらけの写本のコピーを興味深そうにじいっと見つめ、これなんて書いてあるのと瞳をキラキラさせて問う。

 かおりには正直、写本のコピーなんて無味乾燥で薄汚いものにしか感じられない。

 そんなにキラキラされるとちょっと戸惑うし、まともに彼と目を合わすのもどきどきする。


「これは『源氏物語』の冒頭、『桐壺』だそうです。いづれのおほんときにか 女御更衣あまたさぶらひけるなかに……って、高校の時に暗唱させられたりするあの有名な箇所です」


「ああ……なるほど。だけど読みにくいねえ、くねくねしてて。当て字がまじってるし」


「う、うーん。当て字とはちょっと違うんですけど。まあそう……かもしれませんね。仮名は元々、当て字みたいなものですものね」


 そんな話をしていた時、かおりの頭へいきなり複数の小石がぶつけられた。

 ぶつけられた、ようにしか思えなかった。

 後頭部を押さえて鋭く振り返ると、少し離れたところに華やいだ雰囲気の見知らぬ女の子たちにグループがいた。

 目が合うと彼女たちは、ややばつが悪そうにそっぽを向いた。


「どうかしたの?」


 心配そうに問うユキへ、かおりは曖昧に笑ってごまかす。



 おそらく、目も覚めるようなさわやかなイケメンと親しそうに向かい合っている女の子が、どう贔屓目に見ても冴えない子、なので、彼女たちは面白くなかったのかもしれない。

 小声で陰口をたたき合っていたら、いきなりかおりが振り向いたのでばつが悪くなった……と。


 似たような経験なら幾らでもある。

 別に直接悪口や陰口を言われなくても、【悪意】を向けられればかおりには感じ取れる。

 形としては、痛みだったり騒音だったり、あるいは全身を圧迫するような異様な感覚だったりと、その時によって色々だ。


 この感覚とは物心が付いた頃からの付き合いだが、厄介なことに現実の痛みや音などと区別をつけるのが難しかった。

 痛いとかうるさいとか訴えては、家族や級友たちから怪訝な顔をされた。

 どうやら他の人は感じないらしい、とはっきり自覚した瞬間、かおりは愕然とし……ようやくみんなの反応が腑に落ちた。


 つまりこの感覚は持って生まれたかおりの体質、あるいは能力のようなものなのだろう。

 経験からそう理解したが、冷静にそれを受け入れ、受け流せるようになったのは比較的最近かもしれない。

 否応なく慣れはしたが、慣れたからといって嬉しいものでもない。


 心配そうに眉を寄せるユキへ、かおりはもう一度、曖昧に笑ってみせた。



 その帰り道。

 ショーウインドーに飾られたチュニックに、かおりはふと引き寄せられた。


 桜の花びらを思わせる淡いピンクの地へ、深みのある赤と緑の糸でアラベスク調の繊細な刺繍が、襟元や袖口、裾に施されている。

 可愛い服だなと思った次に、これに濃いインディゴブルーのスリムジーンズを合わせれば私に似合うんじゃないかと思った。


 いつも目立たないことを第一に考えているかおりが、可愛いとか似合うとかを積極的に考えたのは久しぶり……ほぼ初めてで、自分でも驚いた。


『髪に花びらがついてるよ、吹上さん』

『似合っていた気もするけど。吹上さんの髪、艶のある綺麗な黒髪だし』


 ユキの言葉が頭の中で響く。

 もし……もし桜の花びらが私の髪に似合っているのなら。

 この桜色のチュニックも、私に似合う、かも。

 自分へ言い訳するように胸でつぶやき、かおりは思い切ってショップへと向かった。



 民俗学の講義がある曜日を調べ、その日に合わせて新しいチュニックをおろす。

 手持ちのスリムジーンズと合わせてみると、思った通りにいい感じだった。


 午後。

 少しドキドキしながらかおりは学食へ行き、ユキを待った。

 しかし彼は現れなかった。

 がっくりと気落ちし、次の日彼女はやや投げやりな気分で、目も伏せ気味に学食へ向かう。当然、いつもの適当な服だ。


「やあ」


 不意に声をかけられ、驚いて顔を上げる。

 ユキだった。


 今日のユキは、胸元に切り替えがあるアンティークっぽい生成りのワークシャツに、スリムのブルージーンズ。シンプルで地味だけどさり気なくお洒落で、彼によく似合っていた。

 何故かカッとなった。


「今日は確か、『柳田学』の講義、ない日ですよね?」


 ほとんど咎めるようなかおりの問いに、ユキは驚いたように目をしばたたく。


「そう……だけど。大学って、講義のない日は来ちゃいけなかったの?」


 心許なさそうに彼からそう問い返され、かおりは後悔した。


(ユキさんが好き)


 ソメイヨシノの下にいる彼を見た瞬間、かおりは気付いてしまった。

 完全に自覚してしまうのが怖くて必死でごまかしてきたけれど、もはや無理だ。

 こうして会って、他愛のない話をする日を重ねるほどかおりの思いは募った。


 しかしユキがかおりを好きだとは思えない。

 もちろん嫌いではなかろうが、彼にとってかおりは、学内での数少ない知り合いの一人であり、それ以上では決してない。

 屈託のなさすぎる彼の笑顔を見る度、残酷なくらいはっきりわかる。

 どれほど都合よく解釈しても、かおりはユキにとり、年下の女の子の友達でしかない。


 今までも、そしておそらくこれからも。



 そんなことがあった数日後の出来事だ、あの不機嫌なサラリーマンに絡まれたのは。


 初夏の陽射しがきつい朝のプラットホーム。

 新しい標的を見つけた男は、舌なめずりでもするようにユキへと視線を向けた。


「トラブルってのか。あんたの後輩さん、態度が失礼なんだよなあ。俺がちょーっとぶつかっちゃたのをえらく根に持ってんのか、人の顔見てすさまじく嫌そうな顔しやがるし、いかにも被害者みたいに耳ふさいでしゃがみ込むしよ。あんた、後輩の躾がなってないんじゃねえの、ええ?イケメンさん」


 なるほど、とつぶやき、ユキは静かに男の目を見た。


「そうですか、失礼があったみたいですね。申し訳なかったですけど、今回は許してもらえませんか?彼女、ちょっとセンシティブなところがある子で……」


 露骨に顔をしかめ、男はチッと舌打ちした。


「……んだよ。要するにちょっとイッちゃってるのかよ、この女」



 突然、ユキは声を出さずに冷笑した。

 ぞく、と肌が粟立った。辺りの気温がにわかに下がったような気がして、思わずかおりは自分で自分を抱くようにした。

 男へ目を据え、ユキは変わらず静かに言う。


「何をもって『イッちゃってる』とするのかはよくわかりませんが。でもそれは彼女より、むしろあなたの方へ当てはまる概念ではないですか?」


 はああ?と男は大きな声を出した。周りの目がゆるく集まり始めている。


「そもそもはあなたが彼女へぶつかったのでしょう?まずは彼女へ謝るのが筋じゃないでしょうか?」


「なんで俺がこのうっとうしい女に謝らなくちゃならないんだよっ。ふざけんなよお前、ちょっと顔が良いと思ってよお。こっち来いや、おらあ」


 激昂する男へ、ユキは冷笑を深める。

 眩しいはずの初夏の陽射しが、彼の周りだけ陰っているのは気のせいだろうか?


「こっち来い……()()()()()ね、僕のこと」



 つぶやくように言い、ユキは一歩進み出る。

 男は手にあるカバン類を投げ捨て、ユキの胸ぐらをつかみかかる。

 ユキは、乱暴に伸ばされた男の腕を、舞の所作を思わせるような典雅な動きでとどめた。


 その刹那だ。

 すとん、と、腰が砕けたように男はその場に転がった。

 茫然と彼はユキを見上げる。怒りどころか生気すら失せた顔をしていた。


「彼女に謝って下さい」

 静か過ぎるほど静かな声でユキはもう一度言う。

 半身を起こした状態で茫然とユキを見上げていた男の目に、鋭いおびえが閃いた。

 おどおどと目を泳がせ、彼はかおりを見る。

 慌てたように身体を起こし、彼は、正座をして媚びるような笑顔を作った。


「あ、あの。ご、ごめんよねえちゃん。俺がぶつかっちゃったのにさ、悪かったよ」


「あ、いえ。いい、です、けど」


 男は卑屈なまでに媚びた笑顔をもう一度浮かべると、よろよろと立ち上がった。

 そんじゃね、とかなんとかもごもご言うと荷物を拾い、ふらつく足で彼はどこかへ消えた。


「立てる?吹上さん」


 ユキがかおりの腕を取る。

 その瞬間、まるで吸い込まれるように目の前が暗くなった。


「吹上さん、吹上さん……」


 あせったようなユキの声を、遠くで聞いたような気がした。



 新緑の匂いの風を感じ、かおりはゆっくり目を開けた。

 ぎょっとする。

 そこは見知らぬ和室だった。

 床が伸べられていて、何故かかおりは、そこで横になっていたのだ。


「気が付いた?良かった」


 どこかうるんだような声。

 あわててかおりは身を起こした。


 少し離れたところにきちんと正座をしたユキがいた。


「ごめんね、吹上さん」


 何故か謝る彼。

 辺りを見回す。イグサの匂いも清しい十畳ほどの和室だ。


「ユキ……さん。ここは?」


 問うと、


「僕のねぐら」


 と、ユキは簡単に答えた。


「ね、ねぐら?」


 あまりに意外な答えに、かおりは思わず裏返った声で繰り返したが、ユキはただ済まなそうな表情でかおりを見ていた。


「ごめん、本当はこんなところへ君みたいな若いお嬢さんを連れてくるべきじゃないことはわかっているんだけど、君、気を失っちゃって。他に安静にできるところを思いつかなかったから……」


「え?あ…あのう、それじゃあここって……ユキさんの、おうち、なんですか?」


 ユキさんのおうち。

 声に出して言った途端、かああっと頬が熱くなる。

 無意識のうちに掛け布団を引き寄せた。

 一体何がどうなったのかさっぱりわからない。


 ユキは真顔のまま首を傾げる。


「うち……とは言えないな。だって『うち』ってもっとあったかくて優しい場所なんでしょう?ここはそんないいところじゃないよ、僕しかいないから気兼ねはいらないけど」


 あまりに見当違いなことを生真面目に言われ、かおりは脱力した。


「でもよかった。もし君が気を失ったままだったらどうしようって、僕、心配だったんだ」


 少し恥ずかしそうに目許をゆるめ、ユキは小さな声で言う。

 思わずかおりは目をそらした。

 にわかに鼓動が激しくなる。

 いつにないユキの表情と声、誤解してしまいそうで怖い。


 しかし次の瞬間、『僕しかいないから気兼ねはいらない』というさっきの言葉を思い出す。

 思わず息を止め、かおりはさらにきつく、掛け布団を自分の身体へ巻き付けた。

 訳もわからないうちに獣の巣穴へ連れ込まれたような理不尽に、怒りと恐怖が全身を貫く。


 しかしその怒りと恐怖のすぐ後ろに、その獣になら裂かれて食らい尽くされたい、とでもいう甘やかな妄想も張り付いていた。

 自分の妄想に驚き、かおりはあわてて打ち消す。

 彼は断じてそんな人ではない。


 ユキは曖昧にほほ笑み、腰を浮かせた。


「とりあえず、お茶か何か飲む?もう少しして落ち着いたら、君をおうちまでちゃんと送るからね。また倒れたら大変だし」


 言われた途端、かおりは猛烈なのどの渇きを覚えた。


「あの、それじゃあお茶を一杯、いただけますか?」


 わかった、と、彼は笑みを含んだ口許で言い、立ち上がるとふすまを開けて静かに部屋から出て行った。


 ほっとしたような期待外れのような、妙な気分でかおりはユキを見送った。



 障子越しの陽の光の感じからすると、もう午後、それも夕方に近い。

 ずいぶん長く気を失っていたらしい。


 風を感じ、そちらを向く。

 障子のはまっている円形の窓があり、少し開いている。

 はっきりとはわからないが、近くに竹林があるらしい。

 葉擦れの音と、青い涼やかな匂いがする。

 いつかテレビで見た、京都・嵯峨野の小さな庵を思い出した。


 その辺りでかおりは、朝の駅でつっかっかてきた不機嫌な男のことを思い出した。


(そうだ、確かあの時、ユキさんに助けてもらって……)


 助けてもらい、その直後に何故か目の前が真っ暗になったような。

 自分へ呼びかける焦ったようなユキの声を、ぼんやり覚えていなくもない。



 強い【悪意】にさらされると、心身共に消耗するのは確かだ。

 が、前後不覚にまでなったのは今回が初めてだ。

 前後不覚になり、ユキの家へ運ばれて寝かされ、おそらくは四、五時間。


 その間の記憶は、断ち切られたようにまったくない。


 不意にぞくっと悪寒がした。

 再び風が涼やかに通る。

 青く清しい匂い。


 違和感がきざす。


 真新しいイグサの匂いがする、手入れの行き届いた清潔な和室。

 埃の気配すらない。

 ここが普段は使わない客間か何かだったとしても、あまりに綺麗で整い過ぎている。生活感がまるでない。

 映画のセットのようだ。


 『迷い家』という概念がふと浮かぶ。

 『遠野物語』に記述がある、訪れた者に富貴をもたらすというこの世ならざる家のことだ。


 そもそも……この状況は変、ではないか?

 知り合いが目の前で気を失ったとしたら、まずは救急車を呼ばないだろうか?

 知り合いでしかない気絶している女の子を、まともな感覚の若い男性が、一人暮らしの自宅に連れ帰ったりするだろうか?

 ユキは確かに浮世離れたところがあるけれど、非常識な人では決してない。


 違和感がふくらむ。

 表現のしにくい不気味さが、そくそくと迫ってくる。


「おまたせ。どうぞ」


 小さな盆を手に、ユキが戻ってきた。

 差し出された盆の上にはゆのみがひとつ。

 香り高い緑茶が満たされていた。

 手を伸ばそうとして……ためらう。

 飲みたい。とても。

 ゆのみに満たされたこのお茶は、熱くもなければぬるくもない、ちょうど飲み易い温度だろう。

 そんな気がする。

 色も美しく香りもいい、きっと上等の緑茶だ。

 美味しいだろう、とても。

 ひりつくように渇いたのどが鳴る。

 なのに、どうしても手が伸びないのだ。


「どうしたの、吹上さん」

 静かに問うユキの声。

 かおりは、知らず知らずのうちに睨むように見つめていたゆのみから目を上げた。

 いつもと変わらぬ、端正で静かなユキの顔がそこにはあった。

 訳もなく心臓が鳴る。


 ユキは哀しそうに眉を寄せた。


「怖い?」


 応えなくては、と、かおりは小さく口を開ける。が、どう応えていいのか混乱した。

 いいえ、なのか、はい、なのか、かおり自身がわからない。

 ただパクパクと何度か口を開け閉めした。

 嫌な汗がじわじわとにじみ出てくる。


 哀しい目のままユキは笑んだ。


「それでいい。君は真っ当だよ、生き物として。……僕が怖い。それでいいんだ」


「ち、違います!ユキさんが、怖いんじゃなくって……」


 あわてて言い募ったが、それから先をどう続けていいのか迷った。



 そこに『曳き鬼』って言葉、出てきた?

 僕は……ケガレじゃないかと思うから。



 脈絡もなく思い出す、かつて彼が言った意味のわかりにくい言葉。

(ヒキオニ。ケガレ)

 そういえばユキは、冷笑を浮かべてあの男へこう言った。



 こっち来い……()()()()()ね、僕のこと


 

 この世ならざるモノは、招かれなければ端境(はざかい)を越えられない。

 うろ覚えの知識の断片が脳裏をかすめる。


「……『曳き鬼』という言葉そのものは、調べた限りでは見つけられなかった」


 かおりの表情から何かを覚ったのだろう、ユキは不意にそんなことを言い出した。

 静かな静かな声だった。


「ずっと昔、どこかの田舎町にふらっと立ち寄った時だ。物知りで昔話の上手なご老人から、僕は一度『曳き鬼』と呼ばれたことがある。……『曳き鬼』というのはとにかく寂しい鬼で、餓えたように誰かそばにいて欲しいと思っている。いて欲しい、いて欲しいとあんまり思いつめているものだから、近付く者の命を根こそぎ吸い取ってしまう。可哀相だと思っても、決して『曳き鬼』に同情してはいけないよ。ご老人は子供たちを引き寄せ、怖い顔をして言って聞かせた……僕を睨みながら」


 ユキは泣きそうな目でかおりを見ると、やはり静かな声で問うた。


「僕、幾つに見える?」


 空唾を呑んでかおりは答えた。


「二十四、五……二十代の半ばくらいかなって思っていました、けど」


 ユキは虚しい目でゆるく笑う。


「ホントいうと自分でもよくわからないんだ。だけど、もう百年も二百年も前から、僕が『ユキ』なのは確かだね。『ユキ』の前は何だったのか……生きていたのかいなかったのか、ヒトだったのかどうなのかもよくわからない」


 語尾が消えかける辺りで一瞬、ユキの身体の輪郭が薄れてゆがんだ。

 かおりははっと息を呑み、思わず強く、何度か目をしばたたいた。


 ユキの姿は元通りだった。彼は軽く腰を浮かせる。


「送って行くよ、吹上さん。どうしても嫌なら無理にとは言わないけど、そのお茶は飲んだ方がいい。飲んだら送ろう。楽しかった、今までホント、色々ありがとう」


 最後はひとりごとのようだった。



 かおりは鋭く息を引き込んだ。

 今までとは別の恐怖が、胸の真中を強く絞り上げる。


「それは……どういう意味ですか?」


 ユキはただ笑む。寂しい笑みだ。


「もう大学へ来ないんですか?もう学食でお茶しないんですか?」


 どうしても声が震えてしまう。ユキはただ笑む。


「それを飲んでよ、吹上さん」


「嫌です」


 かおりは子供のようにかぶりを振る。


「嫌です。飲んで、ユキさんに送ってもらったら。もう二度と会えないのでしょう?そんなの絶対嫌です。私は……」


 乾ききった唇をやはり乾いた舌で軽くなめ、かおりは大きくひとつ、息をついた。

 そして、断崖から飛び降りるつもりで、言う。


「私は、ユキさんが好き。好きだから、もう会えなくなるなんて嫌なんです。あなたが……たとえ鬼でも。私はあなたが好き。あなたになら命を取られても、私は後悔なんかしません」



 ユキの顔が激しくゆがんだ。


「駄目だよ吹上さん。言っただろう、『曳き鬼』に同情なんかしちゃ駄目だ。そんなこと言われたら、僕の中の『曳き鬼』の性を抑え切れなくなってしまう。君が……欲しくなる!」


 かおりはもう一度、深く大きく息をついた。何かがすっと定まる。


「同情なんかじゃありません。好きなんです、ユキさんが」


 真っ直ぐユキを見つめる。


「ユキさんが私に恋愛感情を持っていなくてもいいんです。もし……私が欲しいのなら。かまいません」


「そんなこと言っちゃ駄目だ!」


 出会って初めて、ユキは叫んだ。


「今のはとっても危険な言葉なんだよ、吹上さん。やめてくれ、駄目だ、いけない!僕は君を、守り切れる自信がない!」


 いつになく激しく取り乱すユキへ、かおりはゆったりとほほ笑む。


「かまいません。あなたが好きですから」


 ただひとつの大切な思いだけが今、かおりには見える。


「あなたは綺麗です、容姿もそうですけど何よりも心が。【悪意】を持たないヒトなんて、私は今まで、あなた以外、見たことありません……」


(ああ、そうだ)


 言葉にして初めてかおりは気付く。何故か涙がにじむ。



 そうなのだ、ユキは【悪意】を持たない。

 少なくともかおりはこれまで、彼から【悪意】を感じ取ることはなかった。


 あの不機嫌の塊のような男と対峙していた時でさえ、彼は、怒ってはいたが相手へ【悪意】を向けていなかった。

 ひょっとすると彼は【悪意】という感情そのものを知らないのかもしれない。


 嫌というほど知っている。

 【悪意】は単純な怒りや腹立ち、疎ましさとは違う。

 この感情は呪いだ。

 相手の不幸や不運を願う、その存在を憎んで貶めて否定する、人間の持つ感情のうち最も醜い感情だ。


 今までいったい何人から、無造作に【悪意】をぶつけられてきただろうか。

 何度それに、無慈悲に残酷に傷付けられてきただろうか。


 でもそんな自分でさえ、怒りや妬みが形を変え、【悪意】としてほとばしるのを止められなかったことが何度かある。

 かおりからほとばしった【悪意】が、あやまたずに相手へ向かってゆくのを感じた。

 貶めたいという醜い意思がねばり、その人の全存在にへばりつく。見える訳ではなかったが、おぞましいまでに肌で感じ取れた。


 これが理性だけでは制御し切れない感情なのは知っている、自分も抱えているのだから。

 要するにかおりも、かおりを傷付けた者たちと同じくらい罪深いのだ。



 かおりの涙に驚いたのか、ユキは虚脱したようにすとんと腰を落とした。

 目をぬぐい、掛け布団を横に押しやってかおりはきちんと座り直す。


「かおり、です。私の名前は、吹上かおり、です」


 フルネームを告げ、笑む。ユキは硬直した。


「自ら名を明かすのは、相手に自分の支配を許すこと。うろ覚えの、言霊信仰にまつわる雑学ですけど」


 血の気の失せた顔でユキはかおりを見つめている。

 おびえたような彼の瞳から視線を外さず、かおりはそっとにじり寄る。


「あなたが好きです、誰よりも。だから……殺されたっていいんです」



 堰は切れた。

 ユキはかおりを激しく抱きしめる。

 かおりもユキに、必死でしがみつく。


 骨ばった彼の腕がきつく身体をしめつけ、背骨が折れそうだ。

 息が苦しくて気が遠くなる。


(死んでもいい……いいえ。殺して、下さい)


 誰よりも綺麗なあなたが。

 ぼやけた頭でかおりは思う。


 互いの唇が軽く重なる。何度も。

 ユキの唇は花びらのようにきめが細かく、ひんやりとしていた。


「吹上さん。【悪意】を持たないモノなんて、ホントは質が悪いんだよ」


 何かを必死で抑えている苦し気なささやき。

 腕が少しゆるむ。

 おずおずと伸ばされ、かおりの頭に触れた指先が、髪の中へ深く埋もれる。梳くように髪をくぐる彼の指先は、唇とよく似たひんやりとした感触だった。


「ホントに……ホントに質が悪いんだから」


 苦し気にもう一度、まるで絞り出すようにユキはささやく。その意味を問うよりも先に、かおりの意識はさらにあやふやになった。

 重なり合ったままふたりは、畳の上へゆっくりとくずおれる。


「死なせたくない。君を死なせたくない……」


 耳朶や首筋に触れる花びらの感触の向こうで、熱に浮かされたような小さなつぶやきが聞こえてくる。

 かおりはゆっくりとまぶたを閉じた。

 もはや身体に力は入らない。


「……従え。我に従え。吹上かおりへ、命じる……」


 ひどく苦しそうなユキのつぶやきが、意識のすべてが闇に溶ける直前に聞こえた。



 晩秋のキャンパスを、かおりは大学図書館へと向かう。

 レポートが沢山ある。

 二年生の前期はほとんど休んでしまったので、出来るだけちゃんと単位を取ろうとすると大変なのだ。


 五月下旬のある朝から、かおりは不思議な病気にかかった。

 うつらうつらと眠り続け、決してきちんと目が覚めないという状態が延々と続く病気だった。

 睡眠障害の一種だろうと診断されたが、原因はまったく不明。

 そして何もかもがまったく不明なまま、突然回復した。


 結局、一ヶ月半ほど入院した。

 点滴とカテーテルに繋がれた状態で約一ヶ月ほどうつらうつらし続け、目覚めるようになった残りの半月は、様々な検査とリハビリに費やした。

 降ってわいたような災難と言えたが、そのお陰なのかどうなのか、他人の【悪意】を必要以上に敏感に感じ取れる、物心ついて以来の鬱陶しい感覚が嘘のように消え果てた。

 病気のせいであの感覚が消えたのかもしれないし、あの特殊な感覚が消える為に必要な病気だったのかもしれない。



 赤く染まった落ち葉が足許でつむじを巻く。

 木枯らしの季節だ。

 何気なく目を上げると、図書館のそばの大きな木が、燃えるように赤く色付いていた。


 この木が春、白昼夢のような淡い色の花を枝いっぱいに咲かせていたことを、かおりはふと思い出した。


(そしてその下に……)


 誰かがいた。はっきりと思い出せないけれど、とても綺麗な人が。


(夢?)


 そうかもしれない。



 あの原因不明の睡眠障害を患っていた時、かおりは切れ切れに長い夢を見ていた。

 夢の内容は詳しく覚えていない。

 ただ、とても綺麗で、胸が絞めつけられる切ない夢だったような気がする。この夢から覚めたくない、ずっとずっとこの夢の中にいたい、そう強く願っていたのだけは今でもぼんやり覚えている。



 身体をきつく絞めつける骨ばった腕。

 唇に、耳朶に、首筋に触れていった、花びらに似た感触。

 髪を梳くひんやりとした指先。

 指一本動かすのも億劫なだるさの中、口移しにゆっくりと与えられた甘やかな緑茶。

 そして……緑茶の甘さの後ろにある、涙の苦み。



 時折ふと思い出す、あるはずのない記憶。

 しびれるような官能的な記憶。

 ただ一度だけ近々と触れ合った、切ない恋の記憶。

 きっとあの時の夢の記憶だ。

 夢の中だけで出会った、幻の恋人。

 もう二度と会うことのない……。


「あ?」


 視界のゆがみに思わず立ち止まる。

 あふれ出る故のわからない涙を、困惑しつつぬぐう。


「ユキさん……」


 ぬぐいながらかおりは、無意識のうちにそうつぶやいていた。

 つぶやいて怪訝に思う。

 ユキ、さん?誰?

 そんな人、私は知らない。

 ……知らない。



 図書館へ行こう。

 一度強くまぶたを閉じ、涙を払う。

 息をつき顔を上げ、かおりは歩き始めた。



 木枯らしがソメイヨシノの枝を揺さぶる。

 燃え上がるような音を立て、赤い葉は舞う。

 図書館へと急ぐかおりの身体を、風は一瞬強く、枯葉越しに抱いた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 切ない恋物語でした。 かおりの心の動きが丁寧に描かれてあり感情移入できました。 ユキがかおりに声をかけたのは、かおりの持つ「異能」故ではないかと思わなくもないですが、切っ掛けなんてささいな…
[一言] 隕石阻止企画から参りました、アカシック・テンプレートです! 本作は、『曳き鬼』という存在を軸に、かおりとユキの二人の悲恋が切なくも激しく描かれており、終盤のユキの葛藤から、かおりが少しだけ…
[良い点] とても、とても素敵な物語でした!! 16000字のローファンと言うことで、読むのに二の足を踏んでいましたが、かわかみれい様のご高名は存じておりましたので、一度御作品を拝読したいと思っていま…
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