第八羽 墓参り?
「墓には行かないのか?」
それまで黙っていたアストラルが不意にそんなことを言って、一瞬理解が追いつかない。
「お墓?」
死神からそんな言葉が出るとは。
「この国の人間は誰かを偲ぶときには墓前に手を合わすのが、慣例だろう。」
随分、日本の慣習について知っている死神だと思う。顔立ちが欧風なので知識もそうだと侮りすぎていたらしい。
「普通、死んだ人間に会いたいときは、そいつの身体の一部が眠る土地に行くものじゃないのか?」
真っ黒な視線が私をまっすぐ貫く。私は目を伏せた。
「お墓の場所がわからないから。」
「わからない?」
「元々私とおじちゃんは誘拐犯とその被害者と言う関係なのよ。事件が発覚してそれ以降事件に関わることは禁止されたわ。新聞記事を見ることもワイドショーを見ることも禁止された。おじちゃんのその後のことなど知りようもない。」
今もっている新聞記事だとて、必死で親の目を盗んで手に入れたものだ。それがなければおじちゃんの本名を知ることも出来なかった。
「…もし、墓の場所がわかったとしてお前は行きたいか?」
私はその質問の意味をとりあぐねた。おじちゃんの眠る墓。行きたいかと問われれば。
「行きたい。…けど。」
場所がわからない。そう言う前に私はアストラルに抱え込まれた。
「よし、じゃあ行くか。」
「え?うわっ!?」
突然強い風が吹き付けたかと思うと瞬きする間に、景色が変わった。
風が、吹き抜けて髪を流す。
景色が変わると同時に音が戻る。草が風に流される音が聞こえ蝉の大合唱が聞こえた。
アストラルが時間の拘束を解いたのか。
そこは随分と遠い山奥のような場所だった。
崖の上らしく少し突き出た場所。眼下には緩やかな山並みが広がり、一面には赤や黄色や青い花が咲き乱れる。夢のように綺麗な場所だ。
その崖の突端に誰かがいた。小さな石組みの前にしゃがみこんでいる。
その後姿にどきりとした。随分昔に見た後姿とダブったからだ。そのときよりずっと小さいけど、雰囲気がよく似ている。
その人影が振り向く。ぎくりとした。
「あら」
その人は後ろにひとがいるとは思わなかったのか、驚いたような声を出したが、すぐに笑顔になった。
「こんにちは。」
笑う目じり。女の人だ。知る人は男の人。別人であることに安心すると同時にどうしようもない寂しさが胸をよぎった。
「あ、こんにちは。」
「珍しい。ここはあまり地元民しか来ないのですけど。こんなところまでどうしたんですか?」
聞かれて口ごもる。ここがどこだかわからないし、なおかつ死神につれてこられましたなんていえない。そう言えば、アストラルはどこだろう。
周囲を見回すが、あの特徴的な赤い姿は見えない。
「もしかして迷われましたか?」
「え、あ。…はい。」
一番無難な答えかと思って、頷いておく。
「まあ、この麓も大分観光地化が進んだから迷い込んでしまったんでしょう。ならば、もう少し待ってもらえますか。一緒に町まで降りましょうか。案内しましょう。」
「え?あ、お願いします。」
親切な申し出に、だが町に下りたところでどこだかわからないのでどうしようもないのだけれど。
「いえ、困ったときはお互い様ですから。」
そこ言葉に不意に誰かの声が重なる。
『気にするな。困ったときはお互い様だ。』
笑う顔。懐かしい温かい笑顔。その顔が目の前の女性とダブって見えた。
「あ、あらあら?どうしました?」
女性がびっくりしたような顔をして慌てたようにポケットからハンカチを取り出し差し出してきた。
「目にごみでも入りました?」
そう言われて、初めて自分が泣いたということが、わかった。
胸が苦しくて痛い。懐かしい影に目頭の奥が熱くて涙が止まらなかった。
もうずっと忘れてた。思い出すとつらいから。
それでも毎年命日になると彼が好きだった花だけを持って彼が死んだ場所まで言って供えた。もう誰もあそこに花を供える人はいない。あの場所で死んだ人間のことなど知らない。
でも自分だけは覚えていようと思っていた。あの命日にだけ。
それ以外は勤めて忘れようとしていた。そうでなければつらすぎた。
あの狭い部屋の空気と今の空気の暖かさが違いすぎて心が折れそうだった。
だが、どうしてだろう。この目の前にいる女性はどことなくあの日にもらった暖かさを備えている。一緒にいるとどうしようもなく思い出してしまう。
涙が止まらない私に、女性はなにも言わずに背中をさすってくれた。明らかにごみが入ったなんて泣き方じゃなかったのに何も言わずにそばにいてくれた。
「…ごめんなさい。突然。」
どれくらい経ったのか。漸く収まった涙に跋が悪くて俯いていると、女性はなんでもないことのように微笑んだ気配がした。
「…なに、時々ありますよ。気にしないで。」
にっこり笑うその暖かさにさらに胸を締め付けられてなきそうになったので、慌てて話を変えようと話を振った。
「あ、あの。ここで何をされていたんですか?」
「え?」
「こんな花以外なにもなさそうな場所にお一人でおられるから…て、あ。」
そこまで言って自分がどれだけ詮索好きな人間みたいなことを言っているのか気付いて、恥ずかしくなる。別にこの女性がこんな場所で何をしていても自分には関係ないことではないか。それに人には聞かれたくないこともある。
女性だって、突然現れて突然泣き出した私のことを何一つ聞いたりしなかった。
「あ、ごめんなさい。言いたくなければいいです。不躾な質問をしてしまってすみません。」
慌てて謝る私に、だが女性は笑って見せた。
「いえ、別に隠すようなことではないからいいんですよ。」
女性はころころと笑う。それから崖の先の小さな石の集まりに指差しながら少し寂しそうに微笑んだ。
「あそこ。この崖の先は私の弟の墓なんですよ。」
「…弟さんの?」
胸が早鐘のようになる。
「ええ、訳があって先祖代々の墓には入れられずこんなところに埋葬することになってしまっていて。今日がその命日なものでね。」
その横顔が知っている人に似ていた。今日が命日だと言う弟。あの石の下に眠るのは。
「その人って…。」
思わず聞きそうになるが、口を噤む。
一体何を聞いたらいいのか。おそらくおじちゃんが先祖の墓に入れなかったのは私の事件があったせいだ。あの事件で誘拐犯として新聞に載ったおじちゃんにこの人の親族は一緒の墓に入れるのを拒んだのだろう。そしてこんな人の来ない場所に埋葬されてしまった。その原因になった私が一体何を聞けるというのだろう。どんな顔をしておじちゃんの親族に会えばいいのかわからない。
「ねえ、あなた。ここでであったのも何かの縁でしょう。」
「え?」
「町では弟のことは禁忌みたいに言われて誰にも話すことが出来ないの。でも命日って普通は故人のことを思い出す日だわ。良ければ弟のことを聞いてくれないかしら。」
女性の言葉に私はつばを飲み込んだ。
「…聞かせて。くれるんですか?」
「貴方さえよければ。」
女性が微笑む。
女性はきっと知らない。私が彼を死に追いやったこと。
おじちゃんは私と一緒にいるためにはお金が足りないと早朝のアルバイトを始めた。でも、それまでもおじちゃんはたくさんの仕事を掛け持ちしていて疲れているのにさらに仕事を増やした。仕事がない日には私の相手を一日中してくれて疲れていた。休む間のない日々。そんな中で起こったバイク事故。
あの日植物園に行こうなんて言わなければ、疲れて、風邪を引いて、風邪薬なんて飲まなければおじちゃんは今も生きていただろう。
私が殺したようなものだ。私が素直に家に帰っていれば。私が攫われたりしなければ、こんな寂しい崖の上に一人眠ることもなかった。死ぬこともなかった。
「わ、私は…。」
ああ、なんと言ったらよいのだろう。懺悔もなにもない。
私はずっと加害者だった。私はおじちゃんを死に追いやった殺人者だ。
世界はずっとモノクロだった。だって、鮮やかな世界に生きる資格なんて私にないから。
私には喜びも楽しさも感じてはいけない。
何も言えずに黙り込む私に女の人は、微笑みながら、だが話を始めた。
「…弟はね。昔から要領の悪い子でね。人が良くて気が弱くて、そのくせ厄介ごとをいつも背負い込んではいつも苦労しているような子でした。でも時々大胆なときもあって、それでよく貧乏くじを引く羽目になっていたんです。」
それは知っている。だって、お人よしで誘拐した子供が親から愛情をもたれてないとしって、その上でその子の世話を背負い込むような人だ。
「この町でもずっと要領が悪くて、皆にいじめられてね。みんなを見返すんだって言って東京に出て、そしてそれっきり。出て行くときはお嫁さんでも連れて帰ってきてくれればと気軽に見送ったんですけど、帰ってきたと思ったら死んでしまっていてね。」
寂しそうな顔に胸が締め付けられる。
「…おじ…、弟さんは幸せなときはあったんでしょうか。」
「さあ、どうでしょうね?…でも。死ぬ直前にもらった電話では幸せそうでしたよ。」
「え?」
「聞いたこともない声で、誰かに頼られて一緒に生きることがこれほど幸せなことだとは思わなかったと嬉々として話していました。」
幸せだった。その言葉に呆然とする。
「…嘘。」
「…嘘じゃありませんよ。随分苦労したみたいで、貧乏していたらしいけど、声だけは明るくてね。それだけでああ、幸せなんだなって。」
「…そんなの!嘘!」
強く否定すると流石は女性が驚いたようにこちらを見た。
だが一度溢れた感情は止められなかった。
「そんなわけないじゃない!こんな場所で、一人で眠って。真夏に風邪を引くくらい働きづめに疲れて、死んで。一体その生活のどこに嬉しさや幸せがあるって言うの!?」
記憶の中でおじちゃんはいつも笑っていた。
「でも弟の死に顔は安らかでしたよ。」
「っ!……。」
女性が何もかも見透かすような透明な視線を向ける。
「ねえ、この崖の上、綺麗でしょう?」
「え?」
「元々は何もないただの野原だったんです。何もない一面緑だけの味気ない。だけど、弟の墓を立てた後辺りからぽつぽつ花が咲き始めてね。」
今ではこの有様、と可笑しそう女性が笑う。
「最後の電話でね。弟が言ったんです。都会には碌な花がなくてその子に見せる種類がなくて残念だって言ってました。都会は色がなくてつまらないって。だから、今度植物園に連れて行くんだって。でも本当は故郷の花を見せてやりたいって言ってました。
この地に咲く色とりどりの花を一緒に暮らしている子に見せてあげたいって。きっと喜んでくれるっと嬉しそうに言っていました。」
女性が崖に向かって視線を投げる。私はその背中を呆然と見つめた。
「きっとこれは弟の仕業なんでしょうね。弟がその子に見せたいと思っていた色とりどりの鮮やかな世界。」
私は崖の上を見渡した。
それは色鮮やかな花の乱舞。赤や青、ピンクに黄色。それらが鮮やかな色を放ち緑の中に咲き誇る。夏の強い白い光にも負けない、世界は色に満ちている。
『なあ、マア坊。』
おじちゃんの声が耳に蘇る。
『よく見ろ。よく感じろ。世界はまっすぐお前の前に広がっている。感じろ、色を。感じろ、音を。ほら。』
ああ、世界はこんなにも鮮やかに綺麗な場所だ。
人は容易く目の前のものを見失う。慣れという感覚に自分の立ち位置さえ見失う。
確かにそこに存在するのに。いつでもいつのときでもそこにあるのにそれを見ようとしない。当たり前になると自分の視界さえも疑って、そこにないものにする。
『でもそれじゃあ、つまらないだろう。』
おじちゃんの笑顔が浮かぶ。少し疲れてやつれていたけど、それでも一杯明るくて幸せな笑顔だった。
つまらない人生を送るな。
おじちゃんは確かに私に言った。
『不幸になるために生まれた人間なんてない。』
努力を怠るな。幸せになる努力。
世界を感じて、一杯取り込んで、たくさん笑って。
『幸せになれ。』
暖かな笑顔。ああ、そうだ。おじちゃんは私の前でずっと笑顔だった。
不意に視界が歪む。私はその場にしゃがみこんだ。
「弟は幸せだったわ。」
女性が私の背中を撫でる。その仕草は優しい。