花のある恋物語
窓辺に両手いっぱいの紫陽花を
会う度に好きが積もっていく。
さっきサヨナラしたばかりなのにもう会いたくて。
それなのに好きが積もれば積もるほど、心が擦り減っていくような感覚になるのはなぜだろう…
「じゃあ、またね。」
拓人の部屋を出た瞬間から紗奈はもう彼に会いたくなっていた。まるで麻薬みたいな男。
時間を共有している間、彼はとてつもなく優しくて女の子なら誰だって喜ぶような言葉をくれるし、口に出さなくても紗奈が求めていることを全て実現させてくれる。何よりも拓人の魅力を助長させているのは、街を歩けば大抵の女の子は振り返るモデルのようなその容姿だ。
「私のことを好き?」と聞けば、「好きだよ」と応えてくれるけど、彼は決して誰のものにもならない。
紗奈は彼と自分を隔てる分厚いグレーの扉を恨めしそうに見つめた。
私はこうしてもう一度彼の姿を見たくて、胸の中に顔をうずめたくて、次に触れ合えるまでの充電をしたくて扉の前に立ち尽くすことがあるのに、彼はこの扉の向こうの更に向こうにある浴室で、もうシャワーなんかを浴びているんだろう。
そんなことを思いながらも、マンションを出て紗奈はすぐ振り返り彼の部屋の窓を見上げる。彼が愛しそうに自分の帰る姿を見送ってくれている、そんな理想はどこにもなくそこは空っぽで空が映るだけの窓だった。
「また泣いた?目腫れてる。ブサイク過ぎるぞ。よくそんな顔で講義受けに来れたよな。」
翌日。同じ学部学科の幸之助からはデリカシーの欠片もない言葉を紗奈は浴びせられた。
顔についてイジられることのないよう、紗奈は机に向かって顔を伏せる。
「どうせあいつのこのだろ?」
「あいつって言うけど、こうくんの先輩でしょ?」
拓人と幸之助はテニスサークルの先輩後輩だ。
「一応…ほとんど会ったことないけど。」
「で、今度は何があった?」
紗奈が拓人に恋してから約半年。同じ地方出身の幸之助に相談することが多かった。女友達に相談することもあるが、紗奈の女友達は話を聞いて共感してはくれるがアドバイスはくれないのだ。
「特に何があったわけではないんだけどね。拓人さんはどうして私のものにはならないんだろうって。」
「うわっ。それ講義の前に聞くにはめっちゃ重たいやつ!」
「こうくんから聞いてきたんだから中断させるとかなし!最後まで聞いて。」
「はいはい。それで?」
講義開始の五分前となれば次々と他の生徒たちが講堂に入り込んで、疎らにしか埋まっていなかった席にはパズルのピースが嵌められるように人が座っていく。
紗奈は声のボリュームを少し絞って再び話し始める。
「分かってはいることなんだけど、拓人さんの部屋に行く度に他の女が来た形跡があると、泣きたくなる。でもそれを飲み込んで拓人さんの前で笑うんだけどね、そうすると心が擦り減ってくの。」
「ほお。」幸之助は適当に相槌を打ちながらリュックの中から教科書を取り出す。
「多分、拓人さんと私は間違った文字と消ゴムみたいな関係なんだと思う。」
「 表現の仕方が独特過ぎるだろ。」
幸之助のツッコミを無視して紗奈は続ける。
「間違った文字として書かれていく拓人さんを私がどんどん消してくの。拓人さんはどんどん書き足されて行くんだけど、追いかけてそれを消していく私は身が削れていくだけ…「それ、もう恋じゃないから。」
突然、紗奈の言葉を幸之助はさえぎった。
「そこまで分かってるのによく続けるよな。」
「そんな言い方…「あいつがずっと書き足されてくなら紗奈はいつか消しカスになるだけだろ。何も残らなくなってまで追いかける価値あるのかよ?」
これまでも落ち込む度に幸之助はには励まされていた。だけど、今回ばかりは本当に怒られているのだと幸之助の真剣な顔を見て紗奈は思った。
取り返しがつかなくなる前にもう身を引いた方がいいのかもしれないと少し冷静になって来た。
それでも、頭では分かっているが心が追いつかないというのが本音。
「そ、それでも拓人さんには私みたいな人が必要なんだと思う。真っ直ぐに拓人さんだけを思う人が。そしたらいつかは変わるんじゃないかって。」
「それ、あいつに纏わり付いてる大抵の女が思ってることだから。目、覚ませ。」
そう言い捨てると幸之助は広げ始めていた教科書とリュックを持ち席を立ち、紗奈の前から去って行った。
講義を受ける気力がすっかり無くなってしまった紗奈は荷物をまとめ講堂を出て、中庭のベンチに腰かけた。
『拓人さん、今すぐ会いたいです』
ほぼ無意識にLINEを打っていた。
すぐに既読になり、返事が画面に表示される。
『ごめん。今から面接受けにいく』
大学四年生の拓人は絶賛就活中。
『忙しいのにすみません。面接頑張ってください』
そう送った時にはもう既読にならなかった。
彼女は今にも泣きそうな梅雨空を見上げた。いや、泣きたいのは私だ。
中庭の噴水が一瞬止まって午前十一時を知らせる。そのもう少し向こうに見覚えるのある姿を見つけた。
拓人と知らない女がキスを交わしていた。
二限目の講義中で人気がないとはいえ、中庭で堂々と。
彼は何の面接を受けているのだろう?
紗奈は自分の熱がどんどん冷めていくのを感じていた。
あの現場を目撃してから約一週間。紗奈は拓人と会う約束を取り付けた。
拓人のマンションに向かう途中、駅の花屋で両手いっぱいに藍色の紫陽花を買い、部屋に入れてもらってすぐそれを窓辺に飾った。
いつも通りに拓人との時間を過ごしていく。大学での一週間の出来事を話して、気になっていた洋ドラマのDVDを見て。唯一違うのは、拓人に会うのはこれが最後だと思っている紗奈の心。
途中からドラマのストーリーはもうどうでもよくなった拓人が紗奈の唇に自分の唇を重ね、そのまま二人はベッドに埋もれていく。
このとてつもなく甘くて、一瞬だけでも心の隙間を埋めてくれるような行為がこれで最後だと思うと涙が溢れそうになってくる。
今泣いちゃだめ。泣くな、泣くな。
「じゃあ。」
その後に「またね。」は言わなかった。
このマンションを抜けてその窓辺から私の背中が見える頃、彼が紫陽花を眺めてくれたらいい。その視界の片隅に私の背中が写ってくれたらいい。最後だけは見送って欲しくて。
だから窓辺に両手いっぱいの紫陽花を飾ったの。
紗奈が部屋を出て間もなく、拓人は紫陽花を眺めた。その視界の左上から彼女の後姿が入り込んでくる。
今日は振り向かないんだな、と思いながらもしばらく紫陽花を見つめていた。
拓人の部屋の窓ガラスは外からだと中は見えないマジックガラスだった。