TS少女と疲れた英雄
英雄といえばどんな人だろうか。
強い人?大勢の人を救った人?それとも戦争で多くの人を殺した人だろうか。
一言で英雄と言っても様々だ。時と場合によって、その意味は大きく変わる。
ただ一つ、共通していることを言うのなら、彼らは皆、偉業を成したということだろう。
普通の人では決して出来ないようなことを成し遂げたからこそ、彼らは英雄と言われるのだ。
……だから。
だから、かつて、私は彼のことを遠い存在だと思っていた。
普通じゃできないような事をしたすごい人なのだから、私なんかとは全然違う遠い存在なのだろうと。
大勢の人に慕われ、尊敬されている彼と、一介の奴隷に過ぎない私では何もかもが違うのだと。
でも、今、それは全然違うのだということを私は知っている。
彼は確かに英雄で、でも、それ以前にただの人間なのだということを。
他でもない私が、奴隷である以前に、人間であるように。
◆
窓から光が差し込んでくる。
暁色の夜明けの光だ。
そして、その光が差し込んできたのと同時に、外から多くの人の声が聞こえてきた。まだ寝ている人をたたき起こす声、朝一番の焼きたてのパンを売る売り子の声。
多種多様な声が聞こえてきて、それまでの静寂を打ち消した。
ほんのついさっきまで鳥の泣き声しか聞こえてこなかったのに、大違いだ。
この世界で生きて随分になるが、この夜明けの瞬間だけは慣れない。ここの人たちは朝から元気すぎる。
この世界、エストリアでは、夜明けは活動開始の合図だ。時計がほとんど普及していないこの世界では、太陽の動きが生活を決める。
パン屋のような一部の職業を除き、太陽が出ると同時にベッドの外に出て働き始め、太陽が沈むと同時にベッドに入るのが普通だった。
だから、今の私は普通ではないということになるのかもしれない。
窓の方を見ていた視線を下げ、自らのお腹の辺りを見る。
すると、視界にベッドに座る私自身の体と、それに抱きついている一人の男性の姿が映った。
英雄、最強、勇者。
彼をたたえる言葉は私が知っているだけでも数多くある。
その柔和な笑顔は見る人に安心を与え、圧倒的な剣と魔法の技術は何よりも頼もしい。
この国に住む人で彼を知らない人はいないだろう。
彼こそがこの国を魔物から守る絶対の守護神だ。
そのことは間違いようのない事実で、私もその言葉に何一つの誤りもないことを知っている。
……この、ベッドの外では、だけれど。
私に抱きついている彼は喋ることもせず、身動き一つとらない。
目が開いていなかったら、眠っているのではないかとさえ思っただろう。
その顔は、いつもの柔和な表情を消し、ぼうっとしている。
その姿は、私にはとても疲れているように見えた。
……本当は彼を休ませて上げたい。
一日でもいいから、ベッドから出ず、このまま眠らせてあげたかった。
でも、この町の状況にそれをすることが出来るほどの余裕がないことも、私は知っていた。
そして、私は他でもない彼自身から、彼自身をベッドから出るように促すように命令されていた。
私は立場上は彼の奴隷だということになっているので、彼の命令には従わなければならない。
だから、私はいつもの言葉を彼にかけることにした。
「……ご主人様、朝に、なりました。もうベッドから出る時間です」
「……」
返事はない。いつものことだ。
別に彼が私を嫌っているからとか、そういうわけじゃない。
単純に返事をする気力すらわかないのだろう。
彼の頬に手を伸ばし、撫でる。
手に伝わる温度は、布団の中にいるのにもかかわらず、冷え切っていた。
「ご主人様?」
「……疲れたんだ」
もう一度声をかけると、今度は返事が返ってきた。
しかし、その返事は重く、かすれていた。
「……もう、疲れた」
「……はい」
それはそうだろう。
彼は、毎日毎日この国を襲う魔物と戦い続けているのだから。
休みもなく朝から夕方まで戦い続けて疲れないわけがない。
それに、最近は敵の襲撃が激しくなってきたと聞く。
本当かどうかは知らないが、風の噂では魔王が復活したらしい。
「……もう、嫌だ」
「……はい」
彼が私のお腹に顔をうずめるようにして、呟く。
その姿からは、外での凛とした姿は全く感じられない。
でもそれは仕方がないことだ。
どんなに強い人だって英雄だって、人間で、疲れるのだから。
そして、疲れれば誰かにそばにいてもらいたくなるし、すがりつきたくなるのだ。
私はそれを、経験として知っている。
何故かと言うと答えは単純だ。
前世の私が今の彼と同じように疲れきっていたからだ。
私には、前世の記憶がある。
かつて、生まれ変わる前の私は異世界にある日本と言う国で生きる一人の男だった。
普通の男だったと思う。彼のような強さなんて当然ないし、別に頭がよかったわけでもない。どこにでもいそうな人間だった。
ただ一つ、普通じゃなかったことを挙げると、ブラック企業に勤めていたことだろう。
前世の私は残業時間が月二百時間を越えるような酷いところで働いていた。
あの頃は辛かった。終わらない仕事と、上司からのプレッシャーでつぶされそうになっていて、やめたくても金がなくてやめられなかった。
いつも疲れていて、寝ても全く疲れが取れず、足を引きずるようにして職場に向かっていた。
いつも思っていた。誰かに助けて欲しいと。そばにいて支えてくれる人が欲しかった。誰かにすがりつきたかった。
でも、当然のようにそんな人は現れず、前世の私は過労の末、一人で会社の事務室で死んだ。
そして、気が付いたらこの世界にいたのだ。
前世の記憶を持ったまま、なぜか女の姿になって。
二度目の人生で私が生まれたのは田舎の農村だった。
食事にも困るような農村で、娘が売られていくのなんて日常茶飯事。
私も例に漏れず、十歳になる頃に奴隷として売られてしまった。
そして、いくつかの町を回った後、この町に流れ着き、そして、彼に買われた。
それが、私のこれまでの人生になる。
「……」
彼の頬を撫でていた手を離し、彼の頭を抱きしめる。
そして、彼の頭をゆっくりと撫でた。
最近の彼の眼は、死んでしまう直前の私の眼によく似ているような気がする。
だから、力になってあげたいと思った。
前世の私は、いつも誰かに助けて欲しいと、誰かにそばにいて欲しいと思っていた。
でも、前世の記憶を持っていると言っても、私には何の力もない。
彼の代わりに魔物を倒すことなんて出来ないし、戦場で彼を助けることなんて出来ない。
だから、せめてそばにいて支えたいと思う。
「……」
ゆっくりと、ゆっくりと手を動かす。
私の体温が少しでも彼に伝わるように。
私は、あなたのそばにいるのだと伝えるために。
「……かい」
「……ご主人様?」
しばらく撫でているとご主人様が何かを呟いた。
よく聞き取れなかったので、聞き返す。
「……暖かいな、君は」
今度ははっきりとした声。
その声には先程まではなかった力が少しだけこもっているように感じた。
「そうですか?」
「ああ……君は本当に暖かい」
そう言って、彼は少しだけ笑った。
そして、ゆっくりと体に力を入れて私の腕から抜け出し、ベッドから下りた。
「……そろそろ、起きようか。もう日も昇っていることだしね」
立ち上がった彼が伸びをする。
……よかった。今日も彼は立つことができたようだ。
「そうですね。すぐに朝食の準備をします」
「うん、よろしく頼むよ」
その姿からはさっきまでの疲れきった雰囲気は感じられなかった。
いつもと同じ、柔和な笑顔。
私をあの地獄から、奴隷商から救ってくれたときの顔だ。
彼が洗面所へと向かう。
私もベッドから抜け出して、朝食を作るためキッチンへと向かった。
◆
その後、用意した朝食を一緒に食べた。
そして、彼が戦いに行くのを玄関まで見送る。
「じゃあ、行ってくる」
「はい、行ってらっしゃい」
そう言うと、彼は笑顔で手を振って、家から出て行った。
……今日も、彼は立ち上がれた。
でもこの先、彼がどうなるかはわからない。
彼はもう限界の一歩手前に立っている。
もしかしたら明日には、ベッドから起き上がれなくなるかもしれない。
そうなってしまえばどうなるのだろうか。
おそらく、この国は魔物に蹂躙されてしまうと思う。
そうなれば立ち上がれなくなってしまった彼は死ぬだろう。
そしてそれは私も一緒だ。戦う力がない私が一人で生きていけるとは思えない。
きっとすぐに死んでしまう。
……終わりの日は近いのかもしれない。
できることなら、最後まで彼の隣にいたい。
そう思った。