三章
あるところに、惨めな母がいた。
母の鏡ともいえる綺麗な存在から生まれた彼女は、ひどく汚れ切っていた。心を覗けば汚染されるまでに、心を覗けば腐食されるまでに、頭を覗けば退廃されるまでに、救いようのないまでに彼女は芯の芯まで汚れきっていた。
母の鏡ともいえる誰からも好かれる存在から生まれた彼女は、忌み嫌われ物だった。近寄れば皆が引き、歩くだけで人だかりに一本道ができ、生き物は避けていく。誰からも好かれなかった彼女は、だからこそ、よけい歪んだ。それこそいびつに醜く醜悪におぞましく。
あるところに、哀れな母がいた。
彼女は憧れていた。人格という薄くも厚い壁に隔てられた、明るく綺麗な向こう側の世界に。家族に囲まれて過ごす暖かい生活に。
でも同時に、これでよかったのだとも悟った。自分は地べたを這いずり回って泥水をすする生き方が見合っているから。光の世界で暮らせるほど、自分は綺麗ではないから。それに、例え住めたとして、馴染めるわけがない。自分は悪影響しか与えない有害物質、危険因子。暗い闇の中で生きるのが相応しい。
あるところに、不幸な母がいた。
彼女は光の世界で生きる事を望みながらも、隔離される事を願っていた。
けれど、彼女の望みは不運にも叶ってしまった。徐々に人格の主導権が移動していったのだ。それは言い換えるなら病魔のようなもの。自分ではどうにも出来ず抗えない。なのに見えないところで着実に確実に進行していく。彼女は奥歯を噛み締めて耐えるしかなかった。治まるのを信じて。
だが儚くも無情にも彼女は光の世界に引きずりこまれた。嬉しいなど、感激するなど、感謝したいなどこれっぽっちも思えなかった。
必要とされる人間が選ばれ、そうでない者が排除される。
それが常識ではないのか?
それが当たり前ではないのか?
それが当然ではないのか?
それなら、どうして選ばれるべき人間がはぶかれ、要らない人間が表舞台に立つのか。
彼女は失望した。
暗い部屋。とても薄暗い部屋。ここは外界から隔離された研究所内の一室。照明はなく、部屋を照らすのは数十にも積み上げられたパソコンの灯りのみ。時雨にとって、この幽々とした研究室の環境は我に適していた。といっても、ここが研究室と証明するにはあまりにも物が不十分すぎる。彼女に研究者という肩書きがあるのが幸いか。
彼女は今、ディスプレイと睨めっこをしている。画面に表示されているのは霙と名付けられた人型の外郭。その横に九十五パーセントと映っている。これは霙の中から時雨が九十五パーセント詰まっているという意味だ。
彼女の目的はこの九十五パーセントをゼロにする事。つまり霙から時雨を取り除く事。その方法が輪廻転生の応用と、幽体離脱の併用である精神転移技術であるのだが、十年以上の時間を費やしても、一向にこの均衡が崩れる気配はない。もうこれ以上、時間を消費している暇はなかった。彼女は切羽詰っていた。
【ん?】
カチカチとキーボードを叩いていると、突然画面に新しいウィンドウが現れた。
侵入者が進入したとの趣旨が表示されていた。
映像が映る。
画面越しにその侵入者の正体を視野におさめた時雨は気を落とした。
【何で、来ちゃうのかなぁ】
◇
京香とグレイヴは工場のような薄暗い施設内を走っていた。機械の作動音はなく、二人の足音だけが寂しく響く。
人の腕くらいのパイプが露出し、木の根を張る勢いで壁、天井、床を這っている。日光を通す窓もなく昼なのか夜なのか区別がつかない。視界全般、主にルートはグレイヴに頼る他なかった。
道中。二人は飽きるほどの妨害に遭った。が、どれも二人の進行を止めるまでには至らなかった。まぁ、『限りなく機械に近い人間』のグレイヴに対人間用の防壁がが通用する方が異常なのだが。
すると、
「こんにちわ」
「っ!?」
驚愕した。
無人だった進路上を突如として人が遮った。
メイドだった。白いメイドキャップに黒のスカートと白いフリルの付いた典型的なメイド衣装。落ち着いた雰囲気を放ち、感情表現にいささか難があり表情の突起には乏しいが、それでも人間らしさ、人間味には恵まれている。
「もしや、橘京香様と橘驟様で御座いますか?」
「そ、そうですけど」
「やはりそうでしたか。わたくし『限りなく人間に近い機械』の『霖』と申します」
『限りなく人間に近い機械』。そのワードに反応せずにはいられなかった。
二人は臨戦態勢を取る。
「わが主、橘時雨様からお二人方の話は何度も訊いております。とても仲がよろしい自慢の子供達だと、主は胸を張って語っていました」
「……へ?」
ここにきていきなり座談会を開かれてしまった京香は戦闘を予期していただけに拍子抜け。
「実際にお会いした方がよろしいですね。お話より一段と可愛くて格好いいです」
「い、いやぁ、それほどでもないですってば」
ハッキリ言って、彼女からは全くと言っていいほどに敵意・戦意・悪意の片鱗が感じられない。あまりにも平凡過ぎる会話に何の違和感もなく和んでしまう。というよりは彼女に場を沈静させる素質が備わっているように感じ取れる。グレイヴにいたっては警戒態勢を解く始末。
「あ、あのぉ……」
「はい。何で御座いましょうか」
駄目元で訊ねてみる。
「もしよければでいいんですけど。その道を譲ってくれちゃったりしますかね」
「申し訳御座いません。わたくし、ここの警備を任されている身でして。ゴキブリ一匹通すなと主に命じられております。それゆえ、通行の許可は致しかねます。特にお二人方の通行は堅く禁じられておりますので出来ればご遠慮願いたいです」
キッパリと断られた。
「ところで、無理矢理活路を開くという方法は得策でしょうか?」
話し合いは霖が断言している通り通用しない。それにそもそも談判で折り合いをつけられるような相手でもなさそうなので交渉は論外。
二人は何が何でもこの先に行く必要がある。口が出せぬなら手を出す。早い話、力ずくで従わせる。それに、ここで引き下がるわけにはいかない。
「見たところ、戦闘要員は橘驟様のみですね。もし驟様にわたくしを看破できうるまでの力があるのでしたら。の話ですけど」
あくまでも穏便に済ませたいのだろう。話が物騒な路線に移行しても彼女に戦う意思は見受けられない。
グレイヴの方にそのつもりがないとは言い切れないが。
「それならば問題ありませんね」
呆れたように、
「かなり喧嘩っ早いハーフですね」
「私もそう思う」
「ですよね。橘京香様とは意気が合いそうです」
「でも、その喧嘩っ早さが今は必要なの。今はなりふり構ってる余裕はないの」
「そうですか。橘京香様なら止められると思っておりましたのに。では、親族であるお二人方だからこそ忠告しておきます。わたくし、防御に関してだけは天下一品ですよ。単純な戦闘能力だけなら『限りなく人間に近い機械』、『限りなく機械に近い人間』最強である橘驟様に対して、一つの傷をも負わないと断言いたしましょう」
「忠告は結構ですよ」
最強の矛が盾を突き破るか、
最強の盾が矛を防ぎきるか、
「いきます」
「防御・防衛の『限りなく人間に近い機械』霖。参ります」
スカートの端をつまみ、行儀よくもペコリと挨拶。
グレイヴは行儀悪くも卑怯にも、その隙を突いた。
攻撃が空を切る。
「著作権所有者というのはいいですよね。本筋から脱線しても咎められないのですから」
霖はグレイヴの肩に手を乗せ、側転の感覚でまぬがれていた。
押し潰そうとグレイヴは彼女に加重。その重力が本人に乗りかかった。対象の設定ミスではない。ましてや故障でも不順でも不備でもない。確実に重力は霖に届いていたのだから。
地を這うグレイヴを俯瞰する霖。
「威勢の割りに大した事はありませんでしたね。どうします。諦めます? 開始数秒でこうなるのですから、これ以上の抵抗は無意味かと思われます」
「まだです」
腹這いで足を握り、
「それでどうするんですか」
「こうします」
投げ飛ばした。
単調な腕力だけで振るわれた霖はパイプを無数に突っ切った。
「ビックリです。ここまでとは。やはりデータより直で見た方が――」
余計な暇は与えない。それがグレイヴの戦闘スタイル。
ようやく停止した彼女の目と鼻の先には、黒い鉄球のようなものが待機していた。それは重力を極限まで押し固めたもの。グレイヴはウィンネルが十八番としていた風の集約・凝縮・飛散を何度も見るうちにその製造方法、作業工程を記憶した。
個々が微弱であっても極小であっても、幾千に寄せ集めれば相当な破壊力を生む。
いわば小さな爆弾と化した重力の弾丸を、グレイヴは撃った。
結果に導かれるように、金属の破裂音がとどろいた。
グレイヴから。
バラバラに散ったのは撃たれた霖ではなく、撃った彼の腕。
「言いましたよね。わたくしを防御に回らせたらいくら貴方でも勝てないと」
確かに直撃した。初めもそうだった。紛れもなく攻撃は届いているのだ。なのにどうしてか。その被害をこうむるのは自分。
これは――、
「オカルト。ですか」
「正解です。合ってますよ。こういう次元的法則を塗り替えるのは科学だけでは無理ですからね。――念のために申告しておきますが、委細までは教えませんよ。わざわざ弱点を見せびらかすほどわたくしは自分に酔ってはいません」
「平気です。自分でどうにかしますから」
二発目。修復した腕から弾丸が飛ぶ。
パァァンと、風船が割れるように彼の腕が弾け飛んだ。
「どうです。分かりましたか?」
「いいえ」
彼女はどこまでも防御に徹する性格らしく、グレイヴが危害を加えようとするまでは何もしてこない。
という事はつまり、解析するまでの時間的余裕が生まれるという事。
「(さて。どうしましょうか)」
科学の知識に富んでいるのに対し、オカルトの知識に乏しい彼。ないものから取り出してもどうしようもないので、科学の知識から似たような現象を当てはめ、推測するしかない。もちろん、未開の領域であるオカルトを推するのだから、たとえ“それが”信じられなくとも黙って容認せざるを得ない。
「(もしや。反射)」
思案。一拍おいて、否定。確かに、それがもっとも理に適っているし攻撃を反射しているのなら自分がダメージを受けたのもうなずけた。けれど、霖の能力がただ単に『反射する能力』だけなら、弾丸は攻撃軌道上を流動して戻ってくる。それなら彼にとっては回避可能な範疇。
「(いいえ違いますね。反射ではありません。“戻ってこなかった”のですから)」
本来なら霖が負傷するタイミングで、部位で、箇所で、グレイヴが損害をこうむった。一瞬のラグも発生せずにだ。
これはもう、反射なんていう生易しい領域を超えてしまっている。
「(ならば別の、もっと別の似て非なるものが)」
原理や摂理、定理と言った堅苦しい枠から離れ、もっと自由奔放な発想を見出す。それこそ、クリスマスの夜にサンタを待ち焦がれる子供のように。
「(もし、)」
空を飛びたいならどうすればいい。
若くなりたいならどうすればいい。
死人を蘇らせたいならどうすればいい。
憎い相手を傷つけたいのなら――
「あぁ。なるほど。そういう事ですか」
例えば、人並みに善良な科学者が実験を行う時、必ずと言っていいほど実験体としてモルモットを扱う。それは、同じ『生き物』という概念に属しているモルモットを人間と見立てているからだ。ネズミに有害なら人にも有害。人に無害ならネズミにも無害。その方程式が成り立つ。
彼はこの法則をオカルトに強引に結びつけ、拡大解釈した。
「対象の差し替え。科学的に言えば置換ですか」
「…………」
「傷を受ける、被害を被る対象を自分ではなく相手に変更。被害を返す。という原理ですよね」
呪いの藁人形。それが霖の能力を比喩するのにもっとも適している。呪いたい人間を藁人形に投影し、五寸釘を傷つける事で対象の人間に身体的被害を与える。
「驚きですね。まさか言い当てられるとは思いもしませんでした。そうですよ。わたしの能力は『移し変える』能力です」
ついでとして、外傷や内傷などといった物理的なものに限らず、痛みやストレスといった形のないものまでをも移せると彼女は補足する。
「まぁ、原理や理屈を知ったからといって、どうにかなるものではないのですけれど」
そう言う彼女の頭上には、重力を手の平に固めたグレイヴが今にも襲い掛かろうとしていた。
「ですから……」
途端、空気がいなたいた。力のはけ口を一点に絞った加重圧は空間・気圧に干渉し、振動させるまでの重圧を発揮。放射状に分散した“それ”は、射程圏内の物質という物質、形あるものをことごとくひさぎ尽くした。
中心地にたたずむ少女一人を例外として。
「結果は変わりませんって」
グレイヴをフォローするつもりはないが、反則顔負けのオカルト混じりのトリック抜きで二人が正面衝突した場合、純粋な個々の水準が大きく上回っている彼が圧勝。霖は原型を残さないまでの損害を浴びていたのだ。
本来なら彼女が請け負うべきだったその損害を、グレイヴが全額肩代わりするハメになった。
「わたしの“これ”はいわゆる概念武装です。力ずくではどうにもなりませんよ」
概念武装。それは質量保存の法則、慣性の法則、作用反作用の法則といった先人達が発見した一般科学常識を、根本から無視するオカルトの側にのみ許された科学への対抗策。対抗手段。
『壊す』といった概念武装なら硬度・強度関係なしに壊し、『逸らす』概念武装ならどんなに正確でも速くても必ず逸れる。
「分かりませんね」
ボディが瓦解したグレイヴに、霖は淡々と本を読み進めていくような目で心の内を吐露した。
「私にはどうして橘驟様がそこまでなさるのかが解りません。一体なにを成し遂げにここまで来たのですか。もちろん、それ相応の報酬があっての事ですよね」
文字通り廃物になりながらも虚弱にくちびるを動かす。
「報酬、ですか。そんなもの、有っても無くてもここに来ています」
「とすると、それ以上の何かでしょうか」
「はい。私は時雨様を連れ戻しにきました」
言葉の意図が正確に伝わらなかったらしく、彼女は疑問の色を表に出す。
「何を言っているのですか。あなたは」
「ですので、私と御嬢様は時雨様を連れ帰りにきたと申しているんです」
霖にとってそれはあまりにも異端な返答だったようだ。
「理解に苦しみます。連れて帰るですって? 主をですか? 何を言っているのですか。主は橘京香様、橘驟様を捨てたのですよ。それを驟様は許せると、何事もなかったかのように日々を平然と過ごせると、そうおっしゃるのですか」
ポケットから取り出すように、袋から目当ての粗品を選び取るように、グレイヴはすでに選定された回答を選択した。
「そこまで出来なくて何が家族ですか」
「つまり驟様は、主を許せると。そう言われるのですね」
「当然です」
興味なしげの顔色とは一転して、何故か霖は嬉しそうにほころびた。
「わたくし、主は誰にも理解されないと思っていました。ましてや想われる事も愛される事もないものだと思っていました。そうですか。案外、主は幸せ者なのですね」
彼女は何かを決心したかのように、安らいだ顔つきで首を縦に振った。
「分かりました。貴方達に託す事にしましょう」
グレイヴを蚊帳の外に、霖は話を進める。
「どうか主を助けて下さい。主は今、周りを巻き込むまいと独りで闇の道を突き進んでいます。主に直接造られた橘驟様なら、この意をご理解頂けますよね」
グレイヴしかり、ウィンネルしかり、霖しかり、みんなは時雨の黒い部分を知っている。それゆえ時雨は自分の危険性を誰よりも危惧していた。だから表の住人との絆を断絶して、関係を捨て、関わりを持とうとしなかった。
でもそれは違う。不幸な境遇に生まれた彼女にこそ、そばに誰かが付き添っていなければならないのだ。
「このままでは主はもう戻ってこないかもしれません。お願いします。わたくしには主を止める事が出来ません。お二人だけが頼りです」
「そんな事、言われるまでもありませんよ」
深く深く、感謝の気持ちを表現するように彼女は頭を下げた。
「有難う御座います」
「こちらこそ感謝します。再生する時間を稼げました」
グレイヴが手を差し伸べる。
「これは……」
「行きますよ。御一緒に」
「お気持ちは嬉しいです。ですがわたくしはこの先に行く事ができません」
だから。
「わたくしを殺して行って下さい」
防御・防衛の『限りなく人間に近い機械』である彼女には、『侵入者を排除する』種のプログラムが組み込まれている。ゆえに彼女はこれに従わねばならない。意思がどうのこうのという問題ではない。冷蔵庫が物を保存するために造られたように、電子レンジが物を暖めるために造られたように、造られた理由が彼女の存在意義。
「何を躊躇しておられるのですか。はき違えないで下さい。お二人方の目的を何ですか」
彼の腕が緩慢と黒曜色に染まる。
「――了解しました」
胸に詰まる不透明な痛みをこらえながら、彼は鉄槌を下した。
「主をよろしく頼みましたよ」
◇
気分は最悪だった。嫌気が差すくらいに虫唾が走るくらいに心底。
「くそっ。くそっ」
見てしまった。訊いてしまった。この世で一番訊きたくないものを覗いてしまった。
危害を加えぬようにと、悪影響を及ぼさぬようにと縁を断ち切ったというのに。
「(何で、何で、)」
避けてくれないのか。離れてくれないのか。
しかも時雨と。霙ではなく時雨と。しかも連れて帰ると。ハッキリとそう言っていた。霙ならともかく、どうして自分なのか。自分に愛される資格はないというのに、一緒に暮らす権利はないというのに。
とりあえず、急速にこの場から離脱する必要があった。それには中途半端な手段は好ましくない。この研究所を丸ごと処分する勢いでなければ、今日みたいに居場所を探られる危険性がある。研究成果が消滅するのは心苦しい感じもするが、そこまでの損失ではない。
彼女にとっては研究結果云々よりも、霙と離別するチャンスが先延ばしにされるのがとても痛ましいかった。
【んぁ?】
足を急がせていると、真っ暗だった通路の奥から、順々に明りが灯った。
【チッ。あいつらか】
少なくとも二人はこの施設の中心部まで来ている。電気系統の制御はマスターコンピューターで管理しており、操作一つでこのバカみたいにだだっ広い研究所を掌握可能。それゆえにそれ相応の厳重で重厚なプロテクトが何重にも掛けられているのだが、どうやら同種の機械であるグレイヴにはあってもなくても大差はなかったらしい。
【飼い犬に噛まれるっていうのはこういう事か】
だとすると、自分の居場所もすでに把握されているのかもしれない。
という予感は早くも的中した。
「見つけました」
壁を難なく突破した息子と娘が視界に入る。
「会いたかった」
【何しにきた? と訊くのは無粋か】
母の奪還。それが二人の目的。
良くも悪くも霙と時雨を含めて。
【悪いが、今あんたたちについていく気はないし戻る気も帰る気もないな】
それについては事前に承知済みだそうで、
「御心配なく。私は実力主義です」
【ほぉ。オリジナルのあたしに勝てるとか思ってんのかよ青二才】
命令する。それだけで彼女は機械を従わせてしまう。
世界に言い聞かせるように、語りかけるように、そそのかすように、声を発した。
【“そこを退け”】
…………。
…………。
…………。
……………………。
「………何も起きないわよ」
【やべ。忘れてた】
VIM。正式名称「viruses induce malfunction」。時雨特製のウイルスの機械化だ。これを空気の振動、波長、波、声に乗せて無差別に散布。精密機械、電子機器、貴金属に付着させる。機械類に感染したならば宿主に誤作動をうながし彼女の命令どおりに強制従属させ、貴金属なら言葉通りにが動かす。
それが時雨が有する対『世界の全てを賄う機械』用の能力。出し惜しみさえしなければ、機械相手には完封勝ち。無敵と誇ってもいい。
【今は『限りなく人間に近い機械』じゃないんだった】
まぁ、それは時雨が『限りなく人間に近い機械』だったらを前提として話を進めた場合だが。
【おいおい。最悪じゃねぇかよこの状況】
敵対するは『限りなく機械に近い人間』グレイヴ。
この時点でもう絶望的だった。武装も何もない生身の人間が、機械と真っ向から対立するというのは単なる自殺行為。勝算はほぼ0に等しい。というか物理的に考えてまず勝てないだろう。
「……よし行けグレイヴ」
【まぁちょっと落ち着けよ。ここは共同戦線を張らないか?】
このまま無抵抗で身柄を拘束されるのだけはプライドが許さない。
「共同戦線?」
「二つ以上の団体が戦いのためにとる協力態勢の事です」
「わ、分かってるよそんなの。私が言いたいのは、何でここで共同戦線を張らないといけないのかよ」
【そう先を急ぐな。あんたたちにとって悪い話でもないぞ】
彼女の提案は至極単純。“まずは離別を済ませてからその後は好きにしろ”というもの。現状ではまだ霙と時雨は別離できていない。それはすなわち、彼女を捕まえれば二人は永遠に真の目的を達成できなくなる。
これは一種の脅迫でもあった。
【どうだ?】
「ぅ……」
「…………」
口を濁す。
どうしたってどう考えたって、二人はこの提案を飲むしかなかった。
【よし。答えは決まってるな小僧ども】
奥を指し示す。
【ついてこいよ。装置はもう完成してる】
ここまでは順調。難題はここからだ。
実を言うと、霙と時雨を切り離す研究はまだ未完成。研究段階だ。明言していた内容は時間稼ぎのための真っ赤な嘘。
【(さぁ、ここから先はどうする)】
課題を先送りにしたところで、根本的な解決には至らない。たとえ娘達を装置のある部屋につれていったとしても、どうにかなるわけでもない。
だからそれまでに解決策を打ち出さねばならない。そのための時間稼ぎ。
【(とは格好良く言ってもな)】
ないものはない。出ないものは出ない。ゼロからアイディアをひねり出せと言う方がどうかしている。己の知識、知能、知恵を総結集させても解決の糸口さえ開けずにいる問題が、こんな短時間で済めば苦労しない。
【(ん? まてよ)】
いいものがあった。
【(なんだ。そうか)】
手持ちの頭脳で打開できえないのなら、
【(あれがあるじゃねぇか)】
外部から引っ張ってこればいい。
「ねぇ、まだなの」
【ほらよ。着いたぜ】
とても近代的で機械的な扉。空気の排出音を鳴らしながら来客を迎えた。室内は数メートル大のスーパーコンピュータが立ち並び、隙間を埋め、道を作るように配置されている。その中でもひときわ目立つのが数多のケーブルが繋がれた一対の装置。人が入れるようにカプセル型になっている。
【ほら。さっさとよこせ】
「?」
【ペンダントだよ。それがないと何も始まんねぇだろ】
このペンダントは彼女自身も予期しなかった絶大な相乗効果を生み出した。それこそ世界を敵に回しても痛くもかゆくもないまでにだ。そこまでの威力なら、未完成の研究を完成させるくらいは軽くやってもらいたい。
京香は黙って渡す。すると時雨は適当な調子で、
【よし。……んまぁ、こんなんでいいか】
「ちょ、ちょっと!?」
接続部が壊れる勢いでペンダントを差し込んだ(ねじ込んだ?)。
【んぁ?】
元々ペンダントを受け入れる形状ではないので、予想通りに端子は潰れた。
「これどうすんのよ」
【おいおい。あたしの集大成をなめてもらっちゃ困るぜ】
すると、中破したカタカタとパズルのような動きで形状を変えだした。これもペンダントが生み出した相乗効果の副産物なのか、端子はペンダントを受け入れる環境を無理やり“作らされた”。
これには誰もが度肝を抜かれた。確かに、彼女の研究は世界を塗り替えまでの力を有するものの、それはあくまでも『理論に新たな理論を上書きする』という範囲のみ。『状況を適した環境に作り変える』などといった『物質に直接の影響を及ぼす』効力があるとは微塵も想像していない。データという情報が地形や自然に干渉する事はないのだから。
これなら、いけるかもしれない。
【よし。クソ餓鬼ども。準備は整った。後は説明するからおとなしく訊いとけ】
この装置には精神を送る送信型と、送られた精神をキャッチする受信型の二つがある。受信型には時雨の『限りなく人間に近い機械』が収納しており、彼女の人格はここに収まる仕組みになっている。
【んじゃ、ま】
カプセルが開き、またがるように入る。
【驟。後は説明不要だな】
「はい。畏まりました」
稼動。ガラスに沿って電流が流れ出した。表面が帯電し発光する。一種の壁となった電気に阻まれ、外の様子はうかがい知れない。
【慣れねぇな。この感覚】
自分の身体が自分のものじゃなくなるような、他人に乗っ取られるような、そんな感覚。手指が痺れる。重くなる。徐々に身体の感覚が薄れていく。力が入らない。動かない。
【ぁぁぁぁ……】
眠い。だるい。かったるい。力を入れるのも面倒。考えるのも煩わしい。
【ぅぁ……ぁぅぁ――】
すると、
【ぁん】
ある一点を境目に、霧が晴れ渡るように“冴えた”“醒めた”。
試しにと、弾丸をも寄せ付けないガラスを蹴りつけた。
ヒビが入る間もなく、音もなく破砕。
衝撃で電気系統が断絶して電気供給が断たれたらしく、外は真っ暗。足元すら目先すら確認不可能な暗闇。言いつけるように言い放った。
【“電気系統の再供給”】
パチッと、その要求に蛍光灯や証明が応じた。
【…………】
マジマジと身体を見下ろす。力試しに、ハイヒールの靴底で手頃な距離の装置を一蹴。バギン!! と装置は派手な音を立てながら山積みになったパソコン群に突っ込んだ。外気に触れた基盤から火花が盛大に散り、引火。火を噴いた。
【わぁお】
成功した。しかも完璧に。霙に残っている時雨の残留精神は毛の先ほどもない。彼女は『橘時雨』という別固体としてこの世に確立した。
【ふぅ】
当初の手順とは多少違うものの、彼女は元来の目的を果たした。それは娘達も同じ。時雨を時雨として拘束できる状況になった以上、二人は全力で捕獲しにかかってくる。勝算は十分にある。『限りなく人間に近い機械』の殻に潜った時点で勝利は目に見えている。
【“動くな”】
初手で、一手目で積みにかかった。不必要な争いは現段階では適切ではない。逃げ切れば勝ちなのだから。
時雨は逃走を図る。敗北を、逃亡を負けだと彼女は思ってはいない。不動状態に陥ったグレイヴは飛び去る時雨を追えず、呆然と立ち尽くしていた。
逃げ切れる。そう確信していた彼女の背中に衝撃が加わった。誰かに踏まれるような、そんな衝撃が。
【なっ、てめぇ!!】
「逃がしません」
それは霖だった。逃がすまいとどこにも行かすまいと、時雨に乗りかかる。
【どうやった。あたしの命令は解除できねぇはずだが】
「一時的ですが、橘驟様の自動再生をレンタルしました」
いわゆる臓器移植のようなもの。機械ゆえに、加工にはあるていどの機械の専門知識さえあれば事足りるので複雑な人間よりは数段やりやすい。
【何だよ。お前を敵として判断していいのか?】
「主と敵対するつもりはございません」
それは『橘時雨』という異質者に対する恐怖に起因するものか、それとも創った側と創られた側という主従関係によるものか。どちらにせよ、気分がいいものではない。
【はは。んだよ。矛盾してるぜ?】
「主に話があります。主と話がしたいです」
【悪いけど、興味ないな】
“退けろ”と、霖を退かす。
すると霖の背後から、
【なんだよあんた達。予想の斜め上をいきやがって】
グレイヴが腕を夜空色に染めていた。
重力が発生する前にすかさず“能力使用禁止”を発令。組み討ちで応戦し、押え付けて無力化。
【何なんだ。どうやってVIMを引っぺがした】
グレイヴの表面にはVIMが付着していなかった。そこまでおいそれと容易に排除できる代物ではないのだが。
【まぁいいや。これから確かめてやっから】
命令解除のVIMを散布。するとVIMは彼に付着する寸前でひしゃげた。
原理はこうだ。まずは通常の能力とは個別に能力の発動条件を設定する。発動条件は“半径何ミリメートルにVIMが進入する”事。次に能力の発動対象を設定する。発動対象は“区域内に入ったVIM全機”。噛み砕いて説明すると“感染する前に徹底駆除する”。ウイルスも、ばい菌も、細菌も、感染しなければ害はない。
【機械が学習するとはな。生前の名残か】
死角で霖が動いた。『限りなく人間に近い機械』に潜ってからわずか数分。能力の行使するにはまだ慣れていないようだ。グレイヴに放った指令が霖のVIMにも作用した。
【あ~、ったくめんどうくせぇ。ここまでのイレギュラーな流れは想定してなかったぞ】
実質的に、グレイヴがいる限りVIMは効力なし。さらに霖も戦闘復帰。二対一で、しかも固有能力を封じられたも同然な不利な戦況で、時雨は不謹慎にも愉快そうだった。
【よし。作戦変更だ。あんたら全員かかってこい。あたしがまとめて相手してやっからよ】
言うも同時。石ころを蹴り飛ばすように足元のグレイヴを霖めがけて蹴った。グレイヴを受け止め、両手がふさがった霖ごと打撃で二人を隣の部屋に送りつける。
彼女も後を追う。
【安心しろ。殺すまではいかねぇ。動けなくなるくらいにグチャグチャにすっだけだから】
空気が変わった。足取りを鈍くし、気だるさをもよおす重い空気に。
本格的に圧される間際、時雨は避けるよりもVIMの発動を優先した。効かぬと承知の上で。
届かない。止まる。重力が。目に見えない何かに阻まれる。
【ん? んだぁ、その面は】
口元に合わせて近辺の一メートル超の機材が宙に浮かぶ。見えずとも、ミクロ・ナノ単位の世界で力が働いているのだ。
【何でVIMが有効かって不思議がってる顔だな。少し考えれば分かるだろ。……そうか。機械だから柔軟な発想ができないのか】
一つ二つだった機材がさらに数を増す。
【いいか? 確かにあんたがいる間は効き目はねぇ。でもな、それはあんたらに感染させるとき限定の話だ。いくら完全な抗体を持ってるからって、それが空気中の細菌類にまでは及ぶわきゃねぇだろ?】
ニッコリと、天使のような悪魔の笑顔が合図だった。一機の機械の突撃を口火に、豪雨の勢いで機材がグレイヴと霖を強襲。鼓膜を叩く轟音が周囲を支配した。
時雨は歩み寄り、邪魔な機械、機材を撤去する。そこには『ガラクタ』『鉄屑』『スクラップ』の比喩が相応しい二人の姿があった。自動再生はいまだ健在で身体の修正は随時行われているが、半々に切り分けたせいで修正速度は亀の遅さ。
転がっていた手頃な棒状の鉄を拾い、壁ごとグレイヴと霖の手の平に押し当てる。
【(はぁ。何でこうなっちゃったかな)】
息子を失いたくないがために、息子を生き返らせたいがために、息子に会いたいがために禁忌を犯し『限りなく機械に近い人間』の施術を施した。それが完成したのは息子の皮をかぶった従順な手駒だった。ならばと、娘が兄の死を乗り越えられるよう、独り身の娘の支えとなれるよう、自分に代わって娘を護れるよう再調整し送った。
それがどうしてこのような結末になるのか。
でももう慣れっこだ。消魂する気力もない。
【じゃあな。……色々と楽しかったぜ】
容赦なく、戸惑いなく、ためらいなく打ち込ん――
「時雨!!」
その声で反射的に手が止まってしまう。
【あ?】
グレイヴや京香といった若年層の声ではない。もっと歳の利いた、女性らしく真水のように透き通った声色。心中に鬱積した憤懣から生まれた負の人格である時雨とは真逆の、生まれつき完全なる母であり正の人格。
【久しぶりだなぁ】
懐かしむように馳せるように、
【霙】
「もう、止めましょう」
精神の移転というのは予想以上の体力を消費する。霙もかなりの体力を消耗したようで、京香に肩を貸してもらいかろうじて立っていられるのが現状。
「こんな事したって、時雨の欲しいものは手に入らない」
【いいんだよ別に。いまさら。あたしに欲しいものなんてないさ】
何も望むまい。
何も求むまい。
何も願うまい。
どうせ手に入らないのなら、どうせ掴めないのなら、どうせ届かぬのなら、最初から高望みなぞしない。
「嘘つき。時雨の嘘つき」
【嘘つきたぁ? あんたに何が分かるってんだよ。正女さんよぅ】
「私が何も知らないと思ってるの?」
時雨がわずかに反応する。
「私はずっと中にいたのよ。あなたの存在感のせいで話し掛ける事は出来なかったけど、あなたの気持ちは伝わってた。時雨の事は時雨以上に理解してるつもりよ。……時雨、あなた」
【うるせぇ!!】
吼えた。けれどそれは決して怒りなどの感情から沸き起こったものではない。隠し事を隠す時に話を誤魔化そうとするような幼稚な理由で怒号を被せたのだ。
【たかが中にいた分際で知ったような口を利くなよ霙!!】
誰にも理解されない。誰にも受け入れられない。誰にも好まれない。
それこそが橘時雨。人生の敗走者。
【もういい。茶番はここまでだ!! これ以上あんたらと戯言を交わす気はねぇ!!】
バコッ!! ステンレスが凹むような音が響いた。
「いやよ。私はまだ……」
【さっきから耳障りなんだよ小娘が。いい加減その口閉じねぇと縫い付けんぞオラァ!!」
「や、やれるもんなら、やってみなさいよ」
京香の目に水気が溜まる。微々たるものだった震えが水面を伝う波紋のように広がる。
【んだよんだよ。大した台詞の割りに泣きそうじゃねぇかよ。おい。あ? その意気込みの入りようじゃ手足を折ってでも追いかけてきそうだなこりゃ】
涙をグッと堪え、震えを抑え、小さくも大きくもない確実に聞こえるボリュームで、
「あんたには屈しない」
【――やってやろうかクソがァァアぁぁああぁあアアアぁあぁアァあぁああァぁア!!!】
その雄たけびに呼び起こされたグレイヴと霖。時雨と、京香と霙との間に割って入った。不完全再生な脆弱な状態にも関わらず、その身を挺した。
【おいおいおいおい。そんな身体で何しようとしてんだ】
バカにするように、コケにするようにせせら笑った。二人は今にも消え入りそうな声で返した。
「私は私の出来る事をするだけです」
「右に同じく」
【そうか】
終わらせる。長い一日に終わりを迎えさせる。
【なら、そこまで言えたんだ。失望させてくれるなよ】
一言、告げた。
【“潰れろ”】
天井に張り付いていたVIMが、一斉に天井を引き下げた。
◇
辺境の森。この土地に文明の進出がない原因は科学の細工を施しても有益ではないから。高層ビルを田舎に建てたって、港を内陸に作ったって意味がないのと同じで。
世界ナンバーワンの科学者はそれを利用した。誰の目にも届かないからこそ、そこに研究所を建てた。
「驟、早く戻って!!」
グレイヴに担がれている霙は、進路方向とは真逆の方角へと叫んだ。
だが例の彼は相槌も打たなければ返事もしない。暴れる彼女を制して足を動かす。
「戻ってよ!! 京香が、京香が……」
三人は倒壊寸前の研究所から、命辛々といった感じで京香を置き去りに逃げ出してきた。これはなにもグレイヴが彼女を見捨てたというわけではない。彼は真っ先に京香を助けようとした。なのだが、彼女はそれを拒んだ。
そこにどんな真意があるのかはうかがえないが、それが彼女の意見なら、考えなら、主張なら、彼に逆らう理由などありはしなかった。
「(御嬢様。どうか御無事で)」
不安を胸につのらせながらも、彼は忠義をまっとうした。
◇
目を疑った。その一部始終が嘘だったみたいに幻だったみたいに信じられなかった。
でもこれは現実。この手の温もりがそう確信させる。
【おいおい。あんたバカかよ】
呆れた。京香の行動は無謀と言う他ならない。
だって、
【何で逃げなかった】
差し伸べられた手を振り払い、瓦礫の降りしきる中、時雨の胸中に飛び込んだのだから。
「信じてたから」
【あたしを?】と嘲笑気味に言い返す。
「うん」
【ハッ。ほんとムカつくね。その思考回路。あたしがあんたを助けるって信じてたのか】
「でも、助けてくれたじゃない」
時雨、京香。倒壊した研究所の下敷きになりながらも、二人分の必要最低限なスペースが確保されているのは彼女の能力のおかげ。
時雨は壁に背を預けるように座り、京香は時雨の腰に手を回すように白衣に顔を埋める。
【これはあんたを助けるためじゃねぇよ。あんたが勝手に入ってきてんだろうが。それを自分の都合のいいように捏造すんな】
理由はどうであれ、結果的に助ける形になったが、それは断じて京香を助けるためではない。グレイヴに護らせる算段だった。という趣旨の説明をすると、京香は話し終わらない内に口を挟んだ。
「やっぱり、時雨は嘘つきだね」
嘘つき。霙の言葉が脳裏を過ぎった。
「私、知ってるよ。『限りなく人間に近い機械』はこれくらいじゃ壊れないって」
京香は潤んだ双眸で、もう一度問うった。
「ねぇ、何で私を助けたの」
――娘だから。かけがえのない存在だから。なんて言えない――
「何でお兄ちゃんなの」
――息子だから。失いたくなかったから。なんて口に出来ない――
「何でお母さんと離れようとしたの」
――母と一緒に居る事が京香にとっての幸せだから。なんて述べられない――
「何よ。悪人ぶって。人を遠ざけて。何よ何よ。全部自己犠牲の塊じゃないのよ。自分の幸せなんてこれっぽっちも考えてないくせに。他人の幸せだけ願って」
【うるせぇよ、】
娘の一言一言は本心に深く刺さる。
【あんたに、あんたに何が分かるってんだよ。あたしの何が分かるってんだ】
拒絶される存在。隔離される存在。孤立する存在。自分がどうこうではなく、どんな意思を持って何を成すのかではなく、生の末路に死があるように絶対的に最悪な結果が終始まとわり憑く。
【さっき言ったよな。あたしは悪人ぶってるって。違うんだよ。これは芝居じゃない。これがあたしの“素”なんだ】
際限なく殺意が湧き上がってくる。無性に殺戮衝動に駆られる。とめどなく殺人欲求が溢れてくる。己はそんなよどみによどみ、屈折した偏執的な精神の破綻者。
【これで普通の生活が送れるとでも思ってんのか。あんた達と一緒にいられるとでも思ってんのか。……無理だね。あたしは表で生きてくべき人間じゃない】
これで諦めてくれる。そう思っていた。
「じゃあ、一緒に克服しよう?」
【何言ってんだあんた】
二人でなら大丈夫だよ。皆でやれば心配ないよ。全員がいれば安心だよ。
まさか、そんな言葉をかけてもらえるとは夢にも見なかった。
【ハッ。くっだらねぇ】
だからこそすがり付いてはいけない。甘えてはいけない。
【そんな短絡的な考えでどうにかなってたら、ここまで苦労してねぇよ】
「なんだ」
何故だか、表情が明るかった。
「自分でも治したいんじゃん」
読み取れない。理解できない。分からない。その考えが。思考が。
【何でだ】
「?」
【何でそこまでする。一体、何が望みだ】
どうして拒んでも拒否しても否定しても諦めてくれない止めてくれない。
なぜ突き放すほどに離れるほどに距離を詰めてくる近づいてくる。
メリットなんてないのに。得なんてしないのに。益になんてならないのに。
「え。だって家族でしょ?」
邪気のない、こっちが恥ずかしくなるくらい屈託のない笑みでそう口にされた。
「望みか。あえて言うなら四人で住む事かな。それ以外にはない」
【チッ】
希望なんて、救いなんて、砂で形造ったような脆いものでしかなかった。軽く触れようと、掴もうとするだけで消える軽薄なもの。繊細なもの。
だから、痛感している己の人間性も重なって、自分は追い求める器じゃないと自覚していた。
でも京香は違った。そのどれとも違っていた。ここまでされたのは初めてだ。こんなに鬱陶しくてお節介で頑固なものは。これなら、今回なら、今なら、素直にその手を受け取ってもいいかもしれない。切実に、そう実感した。
【本当に鬱陶しい娘を持ったもんだな】