七号室の綺想譚
ある白昼、二人の学生の絶叫が大学構内に響き渡った。それは到底まるで人間の声とは思えぬほどの奇怪な叫びで、この世の物とは思えぬ寒気と悍ましさを多くの人の耳に感じせしめたのだった。騒ぎを聞きつけた学生や教官が講義棟の中庭に駆けつけると、そこには先程の悲鳴の主であるらしい二人の学生が倒れており、彼らはすぐさま病棟へと運ばれたと聞く。しかしながら彼らの意識が正常に戻ることは無く、まるで何かに脅えたような虚ろな瞳のままに、遂には両人とも病床の上で発狂せしめた。
これは一つの事故として処理されそうになったが、当時、その中庭の近くにいた学生の一人が「僕がやったのです、僕が其の二人の気を狂わせたのです」と告げたため、事件は更に複雑さを増した。しかし、事件の唯一の証人あるその学生も当局にその言葉を告げるや否や気を失い、目が覚めたときには既に人事不省の状態に陥ってしまった。その重要参考人たる一学生は帝大病院の精神病棟、第七号室に収監され、当局の事件担当班の指導の下、同病院の医師たちによってその記憶を解明せんとする研究が目下行われていた最中であったそうだ。
赤煉瓦と鉄柵に囲まれた、至って平穏な××帝國大學にて起きたその奇妙な事件は多くの謎を残し、そして今なお真相を知る者は居ない。
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これが雀居から聞いた「アノ事件」の詳細である。百道の話に依れば、その学生の一人があの手記を書いた七号室の患者だと云う。だが、雀居の云う所では、そんな事件の記録など存在せず、そもそも七篠兵衛という名の患者どころか精神病棟第七号室すらも、此処には有りはしないのだと云う。一体誰が真実を告げているのか、いや、私の見ているもの聞いていることの何処までが真実なのか私にはさっぱり分らなくなっていた。存在しないはずの七号室が、今こうして私の目の前に現れ、あの毅然とした雀居がほんの一瞬間にみすぼらしい狂人の装いへと姿を変えたのだから。
こんなことがあって良いのだろうか、こんな余りにも現実離れしたことが起きて良いのだろうか。私は酷く困惑し、もしかすれば全てが白昼の微睡が見せる幻想ではないのかしらん、という考えさえも浮かんでくる。アノ事件も、七篠兵衛も、百道も、雀居も、そして私という存在さえも、全ては虚しき白昼夢の幻では無いのだろうか。
しかし、そうやって脳髄に絶えず湧き続ける混迷を余所にして、心の何処かには全く別の自分が……そう、そんな混迷をさも当然の如く受け入れている私が、確かにいるのだった。今、目の前で起きている異常なまでに奇怪な状況。それに対して何の疑問も持たず、寧ろ心から納得してしまっている自分が、此処にはいるのだ。百道が発狂し、雀居が狂人然とした姿に身を窶す。それを私は冷淡な表情で淡々と見つめていたのだった。
もしかすれば、七号室もアノ事件とやらも、百道や雀居の頭の中にしか存在しない幻なのかもしれない。だが、今こうして目の前に存在する、極めて現実味を帯びた白日夢は決して嘘偽りの存在なのでは無い。私は心からそう感じている。今、この目の前に映る七号室の扉は実に現実的であった。剥げた塗装の下から覗く古めかしい木目、白泥を塗り直した刷毛の後、錆びの廻った青銅色の取手。全てが虚構とも思えぬほどに現実味を帯びていた。そして、扉の上方に書かれた「七」の字は酷く擦れて、何ともものものしい不気味さを醸し出している。その木製の扉に手を触れてみても、古い木目の毛羽立ちを確かにこの指に感じることが出来る。
このような幻があるというのだろうか。もしこれが私の脳髄が見せている幻影ならば、私の脳は何故このような幻覚を見せているのだろうか。何が夢で、何が現実なのか。百道は夢か、雀居が現実なのか、アノ事件は虚構なのだろうか。七号室は……そう、眼前に聳えている七号室の扉は幻想なのだろうか。嗚呼、誰か教えてくれ、何が嘘で、何が真実で、何が幻なのかを!
私は耐え切れ無くなって、思わず叫び声を上げてしまった。するといきなり、目に映る世界が歪に歪み出し、目眩のような幻惑が私を襲った。かと思えば、この世のものとは思えぬ酷く恐ろしい声が脳髄を掻き乱さんとばかりに、私の耳の中で鳴り響いたのだった。
その声……いや、その耳障りな音は延々と私の中で鳴り続け、私の身体を石のように凍らせると、絶えず脈打つ心臓を壊れんばかりにギリギリと締め上げていく。苦しみと痛みに悶えながら、私はもう立っているのか倒れているのかも分らないまま、暴れるように身を捩り、声にならぬ声を喉の奥から絞り上げていた。
その耳鳴りはどれくらい続いたろうか。いつのまにか謎の音は止んでおり、余韻と反響は次第に消え去っていた。気付いた時には、私は酷く軋む床の上に倒れ込んでいて、何処かから流れ込んで来る刺激のある臭いが妙に鼻についた。恐る恐る瞼を開くと、そこは何処か狭い部屋の中で、私の目線の先には鉄格子の嵌った窓が、一点の曇りも無い蒼空をその空間に切り取っていた。
謎の耳鳴りが消え去ってくれたことの安堵感からか、私の手足からは全く以て力が抜けていた。全身にまだ不快感が残るものの、私はゆっくりと身を起こし辺りを見渡した。先程まで廊下に立ち尽くしていたはずだったのだが、どうにも前後不覚で彷徨っているうちに、いつのまにかこの四畳半の狭い部屋に入り込んでしまっていたようだ。四方の壁は妙に白くて居心地が悪く、鉄格子の向こうからは消毒用アルコホルの臭いが絶えず漂ってきていた。おそらくさっきの刺激臭の正体はこれであろう。天井には白熱電球らしいものが一つぶら下がっていたが、灯は点って無いようだ。
ここは一体何処なのだろうかと、見覚えの無い部屋の真ん中で足を組みつつ考えてみる。
今日は実に奇妙なことが立て続けに起きたものだ。百道医師しかり、雀居医師しかり、もちろん先程のあの奇怪な耳鳴りもそうである。未だにあれが現実のことなのか、それとも夢のことなのか判別出来ないでいた。いや、今もそうである。この部屋も果たして現実の存在なのかどうか、私にはさっぱり分らなかった。
しかし、今日の出来事を思い出すにつけ、酷く奇妙な感覚が私を襲ったのである。それは脳髄の陰から込み上げて来る既視感であった。この全く見覚えの無いはずの部屋に奇妙な幻視を抱いてしまうのだった。私は胸元に残るこの気持の悪さを取り払うべく、部屋中を隅から隅まで注視し始めた。塗装の剥げかけた壁の端から、錆の浮いている鉄格子の一本一本まで。この部屋には何かがある、私の知らない……いや、私の気付かなかった何かがあるのである。
そして、とうとう私はそれを見つけてしまった。あの扉の上の方に書かれた、擦れて消えそうな「七」の字を。
私は再び酷い目眩に打ちのめされそうになったが、今度はあの謎の音が鳴ることは無かった。全身を伝う脂汗の気持ち悪さを感じつつ、私の足は得も言えぬ恐怖に震え始めていた。ここは七号室の中であったのだ。しかし、百道や雀居と共に居たあの七号室では無かった。ここには床に撒き散らされた手記の取り残しも無ければ、壊れかけの籐椅子も無かった。百道医師も雀居医師も居らず、私だけがポツネンと狭苦しい部屋の真ん中に立ち尽くしている。いや、それ以前にあのときの、雀居に別れを告げたときに見た七号室をは全くその情景を異にしていた。そう、そこは私が扉を閉ざした「七号室」とは全く異なる「七号室」であったのだ。此処は百道が高説を語った「七号室」ではない。此処は雀居が紫煙を燻らせた「七号室」ではない。
しかし、それならば何故このように奇妙な既視を覚えるのだろうか。初めて見る部屋の様相に対して、どうして不気味とも言える懐かしさを感じてしまうのだろうか。それに、あの扉の上の「七」の文字を見ると、私はどうしても恐怖の念を抑えることが出来ないのだ。そう、まるであの患者の手記のように……七篠兵衛のように。
その時、嵌絵の符と符が合わさるようにして、私の頭の中で何かが音を立てて繋がった。ああ、そうだ、ここは「七号室」だ。七篠兵衛が書き殴った、あの七号室なのだ。不気味なほどに真白い四方の壁、寂寥に吊る白熱電球、堅牢な鉄格子。そして錠の閉ざされた一枚扉。これはまさにあの手記に描かれた「七号室」そのものである。私は、今、あの精神患者と同じように収監されているのだ。
そして、それに気付いたと同時に、私の頭に甦るのはいつぞやの風景である。春風、鶯の啼鳴、蒼天の果てまで続く雲の白線、中庭に並ぶ石畳。そして突如として襲い掛かる、身の毛の弥立つ耳鳴り。混ざり合い、歪曲み合う世界。そして……そして、二人の絶叫。友人二人の絶叫だ。
ああ、そうか……そうだ、私だったのだ。私が……七篠兵衛だったのだ。私こそが、アノ事件の犯人。二人の学生を発狂せしめた七篠兵衛。××帝大の精神病棟、その七号室に閉じ込められた狂患者。七篠兵衛、その人だった。私があの二人を、百道と雀居の気を狂わせてしまった。あのとき抱いたあの真っ黒な呪わしい感情が、あの悲劇を巻き起こしたのだ。私が、私が、私が……。
あの日、私は二人の友人を壊した。脳髄と精神を狂わせた。ならば、今まで私が見てきたのは……全て幻想だったというのか。酷く不健康そうな百道の姿も、殊に傲慢そうな雀居の姿も、全て幻だったのか。全ては七号室に閉じ込められた私が見た幻影……。アハハ、アハハ、これでは私の頭が狂ってしまいそうだ……いや、もう既に狂っているのか、ハハハハハハ。
いや、仮にそうだとしても、肝心なことがまだ分っていない、まだ思い出せていない。どうやって、私が、あの二人の気を狂わせたのか、全く以て思い出せないのだ。
因果という言葉があるように、結果には原因が附属する。一学生でしかなかった私が、如何にして百道と雀居の精神を壊したのか。恨みの感情を他者に向けただけで、狂人が生まれるというのか。あの歪み狂った世界で、私は彼らに何か狂った言葉をを告げたのか。私の狂った瞳が彼らを狂わせたのか。それとも、あの不気味な耳鳴りが狂気を引き起こしたと云うのか。……分らない、分らない。
そもそも本当に、私は本当に七篠兵衛なのだろうか。いや、私は一体誰なんだ。私は、一体、何者なのだ。本当にアノ事件の犯人なのだろうか。それとも私こそが被害者なのだろうか。私が百道で、私が雀居。……もしかすれば、私の存在自体が彼らの脳髄にしか存在し得ない「七号室の狂人」なのかもしれない。いや、その百道や雀居すらも、私の脳髄が描き出した幻影なのか。全く以て分らない、分らない。真実も、虚構も、何もかも分らない。
嗚呼、私はきっと繰り返すのだろう。己が誰かを知るために延々と歪みきった脳髄の海を彷徨い続けるのだろう。白日夢から覚め、再び淀みに眠り就く。そうやって幾度も幾度も繰り返すのだ。あの百道の弁舌を、あの雀居の紫煙を。永遠に繰り返すのだ。
アノ事件の真相を、私が誰であるかを思い出すまでは、この七号室を巡る綺想と幻影を何度も何度も繰り返す。私の脳髄……いや「誰か」の脳髄の中で「七号室」を繰り返すのだ。狂患者七篠兵衛は、永遠に「七号室」に閉じ込められ、私は「七号室」に囚われ続ける。これが私の罰だと云うのか。この無間地獄が私への罰だと、神はそう仰るのか。そして、その罪の真相を……あの事件の真相を思い出すこと。つまり私が……七篠兵衛が誰であるのかを思い出すこと。それが私の罰だと云うのか。
罪の全貌を知らぬまま、私は無限の罰を繰り返す。私の罪を知るために七号室の綺想譚を繰り返す。ぐるぐる、ぐるぐると繰り返す。繰り返す、くりかえす、クリカエス。
嗚呼、誰か、教えて下さい……教えて下さい……教えて下さい。