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紫煙と雀居

 天地を引き裂くかのような百道モモチの叫び声も、叩きつけられるようにして閉められた扉の反響音も、時間の経過とともに消えていく。しかし、それらが完全に消え去った後となっても私達は一切の言葉も発することは無かった。此処に無意義で、それでいて意思を持った沈黙が続く。耳が痛くなるような無音の沈黙が続くのである。

 その堅牢な沈黙を破ったのは他ならぬ雀居ササイであった。いや、正確には雀居では無い……雀居の擦った燐寸マッチに火が灯る時の摩擦音、というのが正しいだろう。先程まで屹立して百道と対峙していた雀居はいつの間にか籐椅子に腰を降ろしており、懐中から取り出した高級葉巻に火を点け、まるで憂さ晴らしでもしているかのように紫煙をくゆらせていた。


「ふう、随分と酷い有様だな。なあ、見ただろう、あれじゃ狂人どころか廃人だ。人間廃人だ、お前もそう思うだろう。百道の奴はもう駄目だよ、全く気が狂っていやがる。全く毎日毎日研究漬けで、狂気に振り回されていたと思えば、今度はとうとうアイツ自身が狂人の仲間入りか? 木乃伊ミイラ取りが木乃伊になるとはまさにこのことだ」


 両の鼻孔から吐き出した煙はクルクルと渦を巻くと、そのまま部屋中に広がり始め、そしてやがて霧や霞のように消え去ってしまう。だが、紫煙が姿を無くしても癖のある匂いだけは私の白衣に染みついていく。洗えば落ちるだろうか、と雀居の撒き散らす燻香に眉をしかめながら、私は雀居の話を薄ぼんやりとした心持で聞いていた。如何せん理解出来ないことが多すぎる。今日、雀居に呼ばれてこの部屋に来てみれば、いきなり百道のあの気狂いじみた御高説である。その上、その内容も全く以て不明瞭で、アノ事件が何なのか、精神患者の手記がどう訳に立つというのか、私には全く分かっていなかったし、それ以前に雀居に呼ばれた理由すらも知りはしないのだ。何も分から無いまま、私はこうして狭苦しい個室で立ち尽くしている。

 そんな私とは対照的に雀居は勝手きままに紫煙を撒き散らしながら、深々と籐椅子に腰掛けて当然の如くくつろいでいるようであった。ただ、部屋が紫煙に包まれていくうちに、雀居は私を呼び出した理由をポツポツと語り始めた。


「あいつは……百道は、もう駄目みたいだな。俺は精神心理学は専門じゃないが、それでもはっきりしている。あいつはもう完全に気が狂っているんだ。お前も見ただろう、わけの分らないことを口走り、見えもしないものを見ている。ああ、幻覚だ、狂人の妄想だ。シチジョウヒョウエだろうが、ナナシノゴンベエだろうが、そんな患者は何処にも居ない。居るとしたらあいつの頭の中だけだ。お前だって気付いているだろう、七号室なんて存在しないんだよ。うちの精神病棟にあるの六号室までだ、一号室からキッチリ数えても病室は六つしか無い。あいつは自分の脳髄にしか存在しない七号室にずっと囚われているんだよ。普段は、あいつも普通の正常まともな精神を持った人間にしか見えない、お前も知っているだろう? だが、七号室関連の話になると、今日みたいに、気でも狂ったように語り始める。当の本人は本当に何かの研究をしていると本気で思っているらしいがな」


 そこまで語ると雀居は再び口をつぐみ、虚ろな瞳で葉巻を咥え直した。手入れの行き届いた黒い将軍鬚カイゼルひげよじりながら、雀居は何かを考えている……いや、何かを言い出しかねているようであった。部屋に静寂が佇む中、渦巻く紫煙は小さな窓から流れ出て行き、私は消え行く煙の道筋を目で追いながら、雀居が再び話し出すのを待っていた。窓の向こうに映る青空には一筋の飛行機雲が、窓枠の端から端まで一直線に伸びていた。きっと今、この建物の真上には航空機が一機通り過ぎんとしているのだろう。発動機エンジンの鈍い音が窓枠を微かに震わせる。そして、航空機の過ぎ去った後に残る、その反響の余韻が消え去らんとするとき、ようやく鬚の男は口を開いた。


「なあ、これは由々しき事態だろう。天下の××帝大の医学部に狂人が居るなんてのはな、世間体が悪過ぎる。それも精神科の教授が、だ。これは良い風説ゴシップになるだろうよ、きっと今に新聞屋が駆けつけてくるだろう。ほら、最近よく来るあのナントカ日報のスギヤマとか言う記者なんかはもう何か嗅ぎつけているかもしれないな、カカカ」


 葉巻を咥えたまま、いきなり雀居は鉄缶を叩くような笑い声を上げた。かと思えば、またすぐに普段通りのしかつらしい顔に戻って、私の方をじろりと睨み上げた。


「だからこそだ、あいつの狂人振りが衆目に広く知られる前に、百道をここから追い出すべきなのだよ。我が医院のため、いや我が大学の名誉のためだ。だが生憎なことに、俺の一存ではこういったことは決められん。だが、出来るだけ内密にしたまま事を運びたいのだ。何しろ、あの賤しい新聞屋どもは煙さえあれば貪狼猫ハイエナのように嗅ぎ付けてくるからな。だからこそ、お前に頼んでみた、というわけだ。辞職辞官の類はお前の方が詳しいだろう。それに、学長殿に俺が掛け合ってみたとしても、あの人は随分とお優しい方だから、百道を辞めさせることに対して容易に首を振りはしないだろうが、どうも学長殿はお前の言うことなら懇意になって聞いてくれるようだからな。……なあ、お願いだ、百道を辞めさせてやってくれ。あいつの気が狂う姿も、それが衆人の眼前に晒されるのも、俺は決して見たくは無いのだ……」


 一瞬、なみだで雀居の目が潤んでいるかのように見えたが、そんな色も鼻腔から漏れ出る煙のためにすぐ掻き消えてしまった。百道が狂人の判を押されるのをこれ以上は見たく無い、という意見には私も同調するが、あの高慢で頑冥な雀居が心からそう望んでいるとは俄かには信じがたい。彼は元々敵愾心(てきがいしん)の強い男であったから、そんな彼が百道を追放すると言い出した時、私の政敵を蹴落とそうとする思惑が彼にはあるのだろうと邪推してしまったが、その物悲しげな声の質と憂いを湛え湿潤れた瞳を見るにつけ、本当に真の同情心から来ているのかもしれない。思えば、雀居と百道の付き合いはもう長いもので、学生時代から続いている。もちろん、それは二人の友人たる私にも同じことが言えるのだが。付き合いが長いとはいえ……いや、付き合いが長いからこそ互いの真の思惑など知り得ないのだろう。

 私はそう考えて、とりあえず学長に相談してみる、と雀居に適当な返事を返した。そして、特に何か思ったわけでも無いが、百道がああなったのはいつ頃のことだろうかと、ふいに訊いてみた。


「それがいつ始まったのか、俺もはっきりとしたことは言えないが、俺が最初に異変に気付いたのはもう数週間も前の話だ。午前の回診を終えた帰り路、廊下の窓から中庭を何の気も無しに眺めていたら、百道が実に魂の抜けたような様子でボウッと突っ立っていた。だから、何をしているんだと駆け寄ると、あいつは一言『アノ事件を解く鍵が見つかったのだよ』と焦点の合わない目で呟き、そのまま何処かに消えてしまったのさ。その後も何度か顔を合わせることがあったが、大抵の場合は何もおかしな様子は無く、変な言動をすることも無かった。しかし、『アノ事件』とやらについて尋ねてみると、途端に目の色を変えてわけの分らぬことを熱っぽく語り始めるのだ。一度、あいつの言う『アノ事件』とやらを調べてみたんだが、その手の事件に詳しい県警の知り合いに訊いてみても、そんな事例は未だかつて一度たりとも無かったと言う。つまり、あいつは虚構の白昼夢に囚われているわけだ。そして、その白昼夢を見る頻度も次第に増えてきた。このままじゃ、あいつが完全に発狂せしめるのも、いや、あれの異常態が世間の耳目に届くのも時間の問題だろう。早く、早く手を打たなければ……」


 その時、一本目の葉巻を吸い尽くしたらしく、雀居は白衣の懐からまた新しいのを一本取り出し燐寸で火を付けた。剣先のように鋭く尖った黒い鬚に紫煙が纏わりつくと、部屋には煙草の臭いが立ち込め始めた。その後、『アノ事件』とやらの詳細について尋ねてみたが、雀居は渋々とした様子で中々口を割ろうとはしなかった。だが結局、途切れ途切れではあるものの、その面妖な事件の全容を語り尽くし、雀居は最後に「お前も、そんな有りもしない白昼夢に踊らされるなよ。ことによると、今回あいつのが発狂したのも、誰からかそれについて吹き込まれたのやもしれんからな」とだけ付け加えた。


 私は懐中時計を取り出し、話がこれ以上長くなっても困るので、部屋を後にすることに決めた。雀居は再三「学長の話、頼んだぞ」と言っていたが、私は適当な返事をしつつそれに背を向けた。


 XXX


 無精に伸びた鬚を捩りながら、丸めた紙切れを煙草のように口に咥える。薄汚れた病人服の上から微かに紫煙の臭いの残る白衣を纏い、壊れかけて軋む籐椅子に腰を掛けている。その男の眼は絶えず虚ろな光を灯していた。それが最後に見た雀居の姿であり、先程まで雄弁に語っていた雀居の姿であった。

 だが、私の目に映るその不可思議な現状を、私はただの「像」として捉えることしか出来なかった。認識に先行して、既に身体が行動を始めていたのだ。脳が眼前の非現実を拒否しているかのように、既に私の身体は部屋の外へと向かっていた。二度と振り返ること無く、殆ど無意識のままに私はその真白く四角い部屋から立ち去った。そして後ろ手でゆっくりと扉を閉める。ピシャリと扉の閉まる音が聞こえた時、先程の非現実が脳内を目まぐるしく駆け巡り、脳髄の奥底から何とも言い難い当惑が溢れ始めた。だが、その当惑はすぐに驚愕へと姿を変えることになる。

 振り返ると、見覚えの無い文字が目に映る。「七」という一つの文字である。


 閉ざされた扉に私が見たものは、擦れた「七」という文字。その扉は、存在しないはずの七号室のものであった。

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