百道医師
「いやぁ、君たち、見てくれたまえ。この資料を見てくれたまえよ。これはアノ七号室の患者が書いた独白録みたいなものなんだけどね、どうだい、傑作だろう。一見すれば狂気じみていて……かと思えば酷く冷静な一面も見せてくれる。だが、この不安定な文章こそが、これこそがアノ患者の内奥心理を如実に表しているものなんだよ。彼の意識は未だに脳神経の中に眠っていて、筆跡から、一文一文から、些細な言い回しから、その複雑怪奇、昏迷混乱の脳内心理が手に取るようにアリアリと分かってしまうというわけだ。もちろん所々に重大な矛盾点が散らばっているけれどもね。まあ、そんなことは論理の些細な混乱に過ぎないから、特に問題視する点では無いだろう。そんなことよりも一番大事なのはね、この資料がアノ七号室の患者によって紡がれた、ということに尽きるわけだよ。ハハハ、そう、これは実に素晴らしい研究資料だと思わないかね」
百道医師は一息にそう告げると、興奮して汗ばんだ手で資料と称する紙の束を固く握り締めた。彼を前にして、私と雀居医師は唖然とその様子を眺めていた。はっきり言えば、私達は一人で盛り上がっている百道の様子を見てすっかり呆れ返ってしまっていた。彼の持って来た紙の束が、彼の研究とやらにどう関係しているのか……いや、そもそも百道の研究が一体どんなものなのか知らなかったし、私が今日呼ばれた理由というものすらも分かりはしなかったのだ。
そんな私のことなど全く気に掛ける様子も無く、興奮のためか汗でずれ落ちた眼鏡を戻しながら、百道はその痩せこけた体躯の何処にそんな精力が潜んでいるのかと驚かされるほどに、また熱く語り始めた。
「いいかい、この手紙に秘められた深層心理を完全に読み解くことが出来れば、アノ事件の手掛かりが掴める……いいや、もう事件そのものが解決出来るというものなのだよ。七号室の患者……七篠 兵衛がアノ事件にどう関係していたのか、アノ事件の真相が一体如何なるものであったのか。それらの解が一瞬の内に与えられるわけさ。どうだい、素晴らしいだろう。何しろ、アノ事件について我々が知り得るのは『結果』のみなんだから。そう、何かが起きて『二人の狂人がこの世に生み出された』という結果だけだ。原因や過程というものについて言及しようとしてみても、『何かが起きた』と云う言葉しか我々は持たないのさ。そして、本研究の主眼というのは、勿論、七篠君がこの事件にどう関与していたか、ということに尽きるわけだよ。彼は事件の『原因』なのか、それとも『過程』か。彼は果たして二人の狂人のうちの一人なのか、それとも全く別の新たな狂人なのか。アノ事件の犯人は彼なのか、それとも彼は被害者なのか。わからないんだよ、全く以て全然分からないんだよ。我々には手掛かりも何も無いし、事件の核心に一番近い処に居るはずの当の七篠君に至っては人事不省で自分が何者かすら分かっていない状態だ。しかしだね捜査が全く以て行き詰っていた処に、迷いの森に迷い込んでいた彼の意識がフッと眼を醒ましたんだ。そして、突如この独白録を書き上げてくれたのだよ。これさえあれば、アノ事件の糸口は掴めたも同然で、全てが白日の下に曝される日もそう遠くは無いだろうね。一刻も早くこの手紙を解析して、彼の心の深奥に眠る真相を突き止め無いと。全てが分かってしまえば、昏迷状態にある彼もすぐに覚醒してしまうことだろう。嗚呼、これは快挙だね。どうだい、素晴らしいだろう」
勢い余って指先から滑り落ちた紙片が、燭灯光の中でヒラヒラと舞い散ったかと思えば、隣でパチリパチリという柏手が聞こえてきた。柏手を打っていたのは雀居であり、私は少々面食らった。何しろアノ雀居のような頑固者が他人に対して賞賛の拍手を送るなど、めったに有りはしないからだ。いや私自身、一度も見たことが無い。正直言って、百道の話がそれほどまで雀居の心を捉えたとは思えないのだが、今現に私の隣では百道に拍手を贈る雀居が存在しているのだから。私は酷く当惑した。
しかし雀居の表情を覗き込めば、その困惑が杞憂であったと直ぐに思い至った。雀居は確かに両の掌を打ち合わせていたのだが、その顔はいつもの雀居と同じ様に……いや、いつも以上の不機嫌そうな無愛想で無骨な表情を現していたからだ。この上無いほどの不快感を隠すこともせずに、手を打ち続ける。これが示すことはただ一つで、要は百道の話に雀居は一片の興味も抱かなかったのだろう。だからこそ、この無意義な駄弁をすぐさま終わらせん、と雀居は不快な顔のまま髭を釣り上げていたのである。
「ああ、実に素晴らしいな。実に素晴らしい研究だ、俺も感心するよ。もし、その書類数枚でアノ事件とやらが瞬時即決方式で解決するのなら、願っても無いことだ。いやあ、実に素晴らしい。嫉妬してしまうな、百道よ」
「そうだろう、そうだろう。ハハハ、ようやく君も素直に他人を認めるようになったわけだ。雀居、君はいつも他人なぞ詰まらない木偶か何かと思ってる風だったから、君が我々の研究に理解を示してくれたことをトテモ誇りに思うよ。いや、認められて当然だったモノが、漸く認められたということかな、ハハハ」
「だがな、百道よ。お前は良いのか、こんな処で油を売ってて」
「え」
四方の壁に高笑いを響かせていた百道医師は、雀居の投げ掛けを耳にして漸く、雀居が自分の思っているような……いや、元より分かっていたことだが、腹に一物を含んでいるような男であったことに気付いたのであった。そもそも、先程まで高笑いしていた百道の眼には、明白に嫌悪の念を見せていた雀居の顔など一寸も映ってやしなかったのだ。彼の耳が、眼鏡越しの曇った瞳が、捉えていたのは全て自分に都合の良い事実だけで、ハッキリ言えば自分の成し遂げた成果というものを声高らかに話せる相手でさえあれば、別に私や雀居で無くても田園に乱立する案山子の群でも良かったわけである。
自分で雀居のことを『他人に興味の無い愚物』と暗に罵っておきながら、百道自身もその手の愚物であったこと。それを雀居に見透かされているような、糾弾されているような錯覚を覚えて百道は殆ど声も出せず、何とかこの場を取り繕おうと言葉を紡ぐが、喉から出てくるのは「阿」「吽」などの喃語だけであった。百道は眼前で屹立している雀居を前にし、その無言の威圧感に完全に圧倒され、その不健康そうな顔はみるみるうちに青冷めていった。
一方、それを見た雀居は笑いを堪えることが出来なかったのか、弦月のような髭を大きく上に釣り上げて、更に百道を追い詰めるように言葉を放つ。
「百道よ、お前の研究が素晴らしいのは分かるが、こんな処で油を売ってる暇があるのか。確かに、その紙の束を徹底的に心理分析することが出来ればアノ事件とやらも解決するんだろうが、残念だがそれは分析が成功すればの話だ。もしも失敗したら……その紙片から何も見出せなかったら、それこそ笑い草だ。その高笑いが嘲笑になってお前さんに返って来る日もそう遠くないかもな。さあさ、笑い物になるの嫌なら、自慢話なんぞ話したがる無駄口を清水で浄めて、さっさと自分の仕事に取り掛かるべきじゃないか、なあ百道よ」
黒い髭越しに嫌らしい笑みを浮かべる雀居の言葉が相当心身に堪えたのか、さっきまで真っ青に染めていた顔を恥辱で真っ赤に変えながら、百道は床に散らばる資料紙片を掻き集めて、脳髄と精神を狂わすような絶叫を響かせ、駈け出した。そうして百道医師は逃げ去るようにして真四角の部屋を後にしたのだった。私達は百道のその痩せ細った背を全くの無感情で見つめていただけで、二人とも微動だにしなかった。それどころか一言の言葉も紡ぐことは無かった。
そして消毒液の薫る真白い部屋に残されたのは、私と雀居、そして勢い良く閉じられた扉の反響音。それだけであった。