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七篠兵衛の手記

 嗚呼、神様、どうか、お許し下さい。


 いえ、そもそもどうして僕がこんな罰を受けなければならないのでしょうか。どうしてこんな狭い部屋に一日中閉じ込められなければならないのでしょうか。四畳半の狭い板張の部屋でございます、そして天井からは薄暗い白熱電球がたった一つだけブラ下がっているのです。そのくせ四方の壁はまるで不気味なくらいに真っ白く、鉄格子の嵌められた窓の向こうからはヤケに鼻に付く消毒アルコホルの臭いが漂って参ります。向こうの方に扉が一枚見えますが、あれは外から錠を掛けられているようで中から開けようとしてもビクともしません。

 殺風景な部屋の中で目に付くモノと云えば、その扉の上の方に書かれた「七」という文字だけでございます。おそらくこの酷く狭い悪趣味な部屋の番号を指しているのでしょう。そのかすれた七の字はどうにも不気味で、あれを見ると何とも言えない恐ろしさのようなものが込み上げて来るものですから、いつも僕は扉に背を向けて鉄格子窓の方を向いて座っているのです。


 こんな部屋に毎日毎日、一日中押し込められてしまって、僕はもう気が狂ってしまうかもしれません。ですが、僕の頭はまだマトモなのです。僕の脳味噌はこの頭蓋の中でまだ正常に動いております。気なんてチットも狂ってやいないのです。狂人だなんて、誰が言ったのですか。

 僕は正気で全く健康体だったのです。もちろん今だってそうです。それなのに、或る日突然病院に担ぎ込まれて、そのままこの部屋に投げ入れられてカチャリとそこの鉄錠を締められたのです。それからは食事の時であろうと、寝るときだろうと、ずっとこの部屋に閉じ込められたままなのです。此処に連れて来られてから、もうどれほどの時間が経ったことでしょう。トテモトテモ長い間閉じ込められているような気もすれば、実は非常に僅かな短い間しか経っていないと感じてしまう時もあるのです。正直な処、時間にしろ空間にしろ、何がどうなっているのか僕にはサッパリ分かっていない。どうして僕がこんな目に遭わなければならないのです。僕が何をしたというのです。

 嗚呼、誰か教えて下さい。僕が一体何をしたのか、僕に教えて下さい。


 僕は至って普通の学生だったのです。念願の××帝大に丁度あの年の春、入学した、一介の大学一回生に過ぎないのです。あの日も午後の大脳生理学の講義を受けるために、友人らと一緒に別棟の中講義室へ向かって居たところでありました。真新しい革靴でカツカツと小気味良い音を鳴らしながら、中庭の石畳を通って赤煉瓦造りの別棟へ向かっていたのです。春の陽気の中、鶯なぞがあちこちでさえずるのを耳にしました。塀の外に広がる松原の向こうからは、心地の良い海風が柔らかく吹き込んでおりました。空を見上げると――近くには軍の飛行場があったものですから――絹糸のような真白い飛行機雲が、一筋ほど南の方に向かっておりました。天気は良い具合に晴れておりましたから、真っ青な空に真っ白い雲が綺麗に浮かんでいたのを良く覚えています。


 あ、嗚呼、そうです。そうでした。そうだったのです。あの時だったのです。あの蒼々とした空をじっと見ていると、急に誰かが僕の耳元で囁いたのでございます。誰の声かは存じません。男のものかも女のものかも分からぬ声が、今まで一度も聞いたことも無い声が、僕の名前を呼んでいるのです。それは酷く耳障りな音で、背筋も凍るような、心臓を締め付けるような不気味な声でありました。

 その声はどうにも傍に居た二人の友人には聞こえぬようで、二人は急に狼狽うろたえ始めた僕を見て、不思議そうに二人で顔を見合わせておりました。嗚呼、これはいけないと思って、そのとき僕は咄嗟に耳を塞いだのですが、それでも謎の声は鳴り止まず、僕の頭蓋の中でグワングワンと響きながなら、ずっとずっと僕の名前を呼び続けるのです。そして急に謎の声は「此処ハ貴様ノ居ルベキ場所デハ無イ」と囁いたのでした。この言葉を聞いたとき、始めは何のことだかサッパリ分かりやしませんでしたが、謎の声が責め立てるようにして何度も繰り返し僕の頭の中で騒ぎ立てるものですから、何か霧霞のかかったような薄ボンヤリとした思考が、段々と僕の中に浮かんできたのでした。

 こう云ったことは余りお話しするものでは無いと思うのですが、正直にお話ししますと、僕の生まれは名も知れぬ片田舎の貧しい農村でして(とても柄の良い地域とは言えませんが)、ここ××帝大にも給費生として通って居るような貧しく卑しい身の上なのでございます。どうしてそんな貧民窟の塵芥ちりあくたが、どうしてこの名立たる××帝大に身を置いているのか、と問われましても、奇運が高かった他ありませんが、兎にも角にも僕という存在は、貴人ばかりが通う××帝大において、非常に場違いな存在だったのです。このことが何だかずっと恥ずかしく思えて、僕は自分が田舎者の貧乏人であることを今の今まで浸隠ひたかくしにしていたのです。何しろ天下の××帝國大學でありますから、周りは名家の子息や子女ばかりでございます。そのとき私の傍に居た二人の友人もさる名家と華族の出身で、高価な持ち物だけでなく、身のこなし方や言葉遣いから、既に生まれもっての上品さと云ったものが滲み出ておりました。彼らは田舎者の私から見ても並々ならぬ紳士であったのです。

 そんな真白い鶴の子たちの中に、自分という薄汚い田舎者が紛れ込んでいる。何と場違い甚だしいことでしょうか。そのことに僕は、無意識ではあったにしろ、確かに引け目を感じていたのです。僕は自分の素性を隠すために、糊の利いた舶来の真白な衣服シャツや卸し立ての黒光りする革靴なぞで身なりを整え、忌まわしい故郷の泥臭い訛りを捨て去って、都会風のキチンとした言葉遣いで「僕」を繕いまして、身も心も彼らに引けを取らぬ程の紳士を演じておりました。これはどうにも功を奏していたようで、「僕」の友人達の中で、「僕」を田舎者の貧乏人だと感付いた者は誰一人として居りませんでした。


 しかし、知らず知らずのうちに劣等感を抱いていたのでしょう。もちろん、その劣等感は自分の氏素性に対するものでありましたが、こんな具合にして自己を騙っていたことに対する自責や、いつか皆にその醜い真実をすべて知られてしまうのではないか、という焦燥感も多分にあったのです。そして最前もまえ、僕の耳元や僕の頭の中で鳴っていた得体の知れない声は、そういった劣等感や焦燥感を全て見透かした上で、「此処ハ、貴様ノ、居ルベキ、場所デハ、無イ」と叫んでいるのでは無いか……そんな考えが、ついぞ浮かんできたのでございます。そんな風に思い至りますと、謎の声は更に一層、執拗なほど僕の頭の中に刻み込まれて参りまして、次第に「僕」を罵る音の嵐へと姿を変えていったのでした。姿の見えぬ罵倒が僕の心を蝕み始め、背中の方では何だか脂っぽい嫌な汗が流れるのを感じました。次いで天地が引っ繰り返ったかと思うほどの酷い眩暈めまいが起こり始めて、グルグルと世界が七転八倒の大回転をしているというのに、謎の声は依然として嵐や暴風のように罵声や非難を浴びせ掛けてくるのです。汗で冷えた肌着シャツがビタリと身体に張り付くのを不快に感じながら、僕は己の居場所を奪い去ろうとするその糾弾非難の声に囲まれて、ただただ所在無い焦燥を胸に押し込め、そのまま身体をガタガタと震わせるしかなかったのです。

 「止めて呉れ!」と大きな声で叫びたかったのです。ですが、たったその一言が、どうしても喉の奥から出ようとはしてくれないのです。思えば、心の何処か片隅の方で、この恐ろしい声が己に対する罰なのだ、と考える自分が居たのやもしれません。無為な虚飾と得体の知れぬ恐怖で己を隠し続けたことへの罰なのだと、そう思ってしまったのです。正直な処、僕の胸の内に僅かに残された純心と云うものが、虚栄心で以て重い重い嘘という名の殻骨格がいこっかくを纏っていた己の醜さを、酷く軽蔑していたのでしょう。だからこそ僕は、この何処から鳴るとも分からぬ声を、己を裁く罰として聞いていたのです。

 しかし、クラリクラリと旋回する世界を目の当たりにしながら僕はこうも思ったのです。誰が僕にそうさせたのか、と。

 因果という言葉がありますように、結果には必ず原因が附属するものでございます。つまり、一体誰がこんな風に僕をいつわらせたのか、ということを考えずには居られなかったのです。これは実に難解な問題でして、僕自身その原因には全く心当たりが無かったものですから、これはもう心の奥底の些細な記憶にものこらぬような無意識の泥溜りを、総攫そうざらいにすくい上げてみる外は無かったのです。しかし、何しろ無意識と意識は相反するものでして、僕は心理学者や催眠術士の手も借りずに独力で、自己の意識で以て、自己の無意識を探らなければならなかったのです。これが酷く難解極まり無いことは、混濁極まった意識に在ってもハッキリと理解しておりました。


 ですが、そんなことは杞憂に過ぎ無かったのです。何しろ、僕の頭の中でそんな考えが渦巻き始めた時には既に、その原因とやらの糸口が見えていたのですから。そのとき僕は、酩酊にも似た悪寒の中を彷徨っていたのですが、そんな昏迷状態のときでさえも、僕を虚栄という破滅に導いたその根源的な悪夢は僕の目の前に明々(あかあか)とブラ下がっていたのでございます。前後どころか天地上下も分からぬほどに意識は混濁し、瞳に映る世界は全て歪曲していましたが、グニャグニャと曲がりくねった情景の中に混ざり込んだ友人二人の姿を見たとき、ハッと気付いたのでした。

 全ての原因と云うのは、彼らのその瞳だったのです。つまりは高貴な方々が僕のような下層民を見るときの、あの侮蔑とも憐憫ともつかぬ凍えた瞳が僕自身に向けられるのを酷く酷く恐れていたのです。凍えた、と云うのは比喩でも何でもございません。あの目が向けられると、僕の背筋に不快感が走り出し、そのまま頭の頂から足の爪先まで神経がカチコチに凍って動かなくなるのです。えぇ、あの氷の眼は決して蔑視などと云うものではありませんでしたとも。あれは動物園や博物館なぞのように、人が何の感慨も感情も無く、硝子ガラス越しの獣畜生や造物を見る眼なのです。これは観賞や鑑賞ではございません、タダの「観察」です。ただ「見る」と云う行為の粋を集めた「観察」に過ぎぬのです。目には見えない、手でも触れられない、分厚く頑健な夢幻の硝子を隔てて、彼らは僕らを観察している……。だから、あの恐ろしい瞳のことを考えただけでもう僕はガタガタと怯え出して、無意識のうちに重く淀んだ嘘と虚栄で我が身を塗り固めてあの瞳から逃れようとしたのです。

 嗚呼、そうです。全てはあの人達のあの眼が悪いのです。あの瞳を恐れるが余り、僕は自らを偽り続けて来たのです。


 そして、歪み行く世界の中に映る彼らを見たとき、ふとよこしまな考えが浮かんだのです。彼らが居なければ、彼らがあのみた眼で僕を見なければ、こうして謎の罵声に責め立てられることも無かったのに、と。僕は己をあの「観察」の瞳から守ろうとしていただけなのに。その「観察」の原因たる彼らは裁かれずに、僕だけ裁かれる。これはどうにも不公平じゃ無いですか。彼らの眼が、僕じゃない別の誰かに向けられた時でも、僕は我が身を射抜かれるような恐ろしい心持と不快感を抱いていたのです。僕が今も、いえ、今までずっと苦しめられていたのに、どうして彼らだけは何の苦しみも得ぬどころか、爾前と変わらぬ冷たい眼で「観察」を続けるのです? これは不公平だ、実に理に合わない。彼らにも僕らと同じだけの苦痛が与えられても良いのでは無いか、彼らにも制裁が与えられるべきでは無いか……と恐ろしくも考えてしまったのです。

 だから、僕は眼前で巡り廻る世界に向かって、「消え去ってしまえ!」と呪わしい瞳を向けてやったのです。


 そして………………。


 そして…………。


 そして……それから……それから……、あ、嗚呼、どうしたことでしょう。それから何をしたのか、思い出せない。いびつな思いに心が埋め尽くされてから、それ以降の記憶が全く無いのです。どれだけ思いだそうとしても思い出せません。歪曲した世界の中で友人たちの姿を見てから――この部屋に連れ込まれて押し込まれるまで――その間の記憶が、僕の頭からはスッポリと抜け落ちているのです。

 一体、僕は何をしたんでしょうか。こんな狂人部屋みたいな処に閉じ込められるようなことを、僕はしてしまったのですか。あの友人二人はあれから、どうなったんでしょうか。昏迷の海を彷徨っていたときの、僕の邪な呪い事が何か酷い悪いことを引き起こしてしまったのでしょうか。それなら一体、何が起きたのでしょうか。僕は一体、何をしてしまったんでしょうか。

 何も、ナニモ、思い出せない、思い出せない。思い出せないのです。


 嗚呼、誰か、教えて下さい。誰か、お願いです、どうして僕がこんな罰を受けなければならないのか、教えて下さい。どうか、教えて下さい、おしえてください、オシエテクダサイ。



 昭和七七年七月七日、七篠 兵衛(シチジョウ ヒョウエ) 記す


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