第6話:メイドの作法
旅が始まって三日目。ルーカスは、アメリアという人間の完璧さに圧倒されていた。
朝、目が覚めると既に彼女は起きており、身支度のための道具が完璧に整えられている。水は適温に温められ、タオルは清潔に畳まれ、その日の天候に適した衣服が選ばれて用意されていた。
食事の時間も正確だった。ジルが作った料理は、ルーカスが席に着く頃には最適な温度に調整されている。そして食事が始まる前に、アメリアは必ず小さな銀の匙を取り出し、料理の一部を味見する。
「毒見、ですか?」
初めてその光景を見た時、ルーカスは思わず尋ねた。
「はい。基本的な安全確認です」
アメリアは何の感情も見せずに答えた。まるで、毒見など日常茶飯事であるかのように。
「しかし、ジルが作った料理に毒など……」
「油断は死を招きます。どれほど信頼できる相手でも、食材に毒が混入している可能性はあります。また、第三者による工作の危険性も考慮すべきです」
その説明は論理的で完璧だった。しかし、ルーカスには何か息苦しいものを感じさせた。
***
馬車の中でも、アメリアの動きには一切の無駄がなかった。
ルーカスが書斎で手記を読んでいる間、彼女は千里眼の窓で周囲を監視している。その視線は絶えず動き回り、少しでも異常があれば即座に気づけるよう、全神経を集中させているようだった。
時折、彼女の手が腰のポーチに触れるのが見える。そこに仕込まれたナイフの位置を確認しているのだろう。まるで、いつでも戦闘に入れるよう、常に臨戦態勢を保っているかのようだった。
「アメリア」
「はい、何でしょうか」
振り返る彼女の表情は、相変わらず完璧に無表情だった。紫水晶の瞳には、感情というものが宿っていないかのように見える。
「少し、休んでもいいのではないか?ずっと警戒していては疲れるだろう」
「いえ、職務ですから」
「しかし……」
「私の疲労は問題ではありません。ルーカス様の安全が最優先です」
その返答は、まるで機械のようだった。確かに忠実で、確かに有能だが、そこには人間らしい温かみがまったく感じられない。
ルーカスは、次第に彼女と話すことに躊躇を覚えるようになっていた。何を言っても、完璧で冷たい返答が返ってくるだけなのだ。
***
その夜、一行は街道沿いの森で野営することになった。
ジルが手際よく焚き火を起こし、アメリアが周囲の安全を確認している間、ルーカスは馬車から出て夜の空気を吸った。
森の中は、昼間とは全く違う顔を見せていた。木々の間から漏れる月光が幻想的な影を作り出し、どこからか小動物の鳴き声が聞こえてくる。そして、所々で不思議な光を放つ苔や茸が、暗闇に浮かび上がっていた。
「美しい……」
ルーカスは思わず呟いた。書物で読んだことはあったが、実際に光る苔を見るのは初めてだった。青白い光が脈打つように明滅し、まるで森が呼吸しているかのようだ。
好奇心に駆られて、ルーカスは光る苔の群生地へと足を向けた。もっと近くで見てみたい。できれば、サンプルを採取して詳しく調べてみたい。
「ルーカス様」
突然、背後から声がかかった。振り返ると、アメリアが音もなく近づいてきていた。
「何か御用でしょうか?」
「いや、あの光る苔を見に……」
「夜の森は、昼とは違う顔を持ちます」
アメリアの声には、有無を言わせぬ響きがあった。
「光るものは、時に牙を隠すもの。特に、見知らぬ森では警戒が必要です」
「しかし、少し見るだけだ。危険はないだろう」
ルーカスは苛立ちを覚えた。確かに彼女の言うことは正しいかもしれないが、何事にも過剰に慎重すぎるのではないだろうか。
「ルーカス様」
アメリアは一歩前に出た。月光が、彼女の顔に鋭い陰影を刻んでいる。
「あの苔に近づいた者は、二度と戻ってこないという言い伝えがあります。光に魅せられた旅人を、森の深奥に誘い込む罠だと」
「それは迷信だろう。科学的に考えれば……」
「迷信も、時として命を救います」
アメリアの瞳が、一瞬だけ鋭く光った。その瞬間、ルーカスは彼女の瞳の奥に、深い闇のようなものを見た気がした。それは、多くの死を見てきた者だけが持つ、冷たく重い影だった。
「少しの油断が命取りになります。書物にはそう書いてありませんでしたか?」
その言葉は、静かだが氷のように冷たかった。
***
ルーカスは言葉を失った。
確かに、書物の中でも「未知の環境では慎重であれ」と何度も読んだことがある。しかし、アメリアの言い方には、まるで自分を子供扱いしているような響きがあった。
「君は……心配しすぎではないか?」
「心配しすぎて困ることはありません。心配が足りなくて死ぬことはありますが」
アメリアの表情は、相変わらず無表情だった。しかし、その言葉には実体験に基づいた重みがあった。
「僕は別に、無謀なことをしようとしているわけではない。ただ、自分の目で確かめてみたいだけだ」
「その『ただ』が、最も危険なのです」
アメリアは振り返らずに言った。
「好奇心は学者にとって美徳ですが、生存本能を上回ってはなりません。死んでしまえば、どれほどの知識も無意味です」
ルーカスは、彼女の冷徹さに反発を覚えた。確かに安全は大切だが、それによって全ての可能性を閉ざしてしまうのは間違っているのではないだろうか。
「分かった、今夜は諦めよう。しかし……」
「しかし?」
「君はいつも、そんなふうに全てを危険だと決めつけるのか?それでは、何の発見も成長もできないではないか」
アメリアは長い間黙っていた。そして、やがて静かに答えた。
「私の仕事は、ルーカス様の発見や成長を促すことではありません。お命をお守りすることです」
その言葉は、完璧に正しかった。しかし、だからこそルーカスには受け入れがたかった。
***
焚き火のそばに戻ると、ジルが温かいスープを用意して待っていた。
「どうしたんです?何か険悪な雰囲気ですけど」
「いや、別に……」
ルーカスは曖昧に答えた。アメリアも何も言わず、いつものように警戒の任務に戻っている。
スープを飲みながら、ルーカスは考えていた。
確かにアメリアは有能だ。その警戒心と戦闘技術は本物だろう。しかし、彼女と一緒にいると、まるで檻の中に閉じ込められているような窮屈さを感じる。
父は「彼女の剣がお前の命を救う時が必ず来る」と言った。それは事実かもしれない。しかし、その代償として、自分の自由や好奇心を全て諦めなければならないのだろうか。
焚き火の向こうで、アメリアが静かに立っている姿が見える。月光に照らされた彼女の横顔は美しいが、どこか人形のように生気を欠いていた。
彼女は一体、何を考えているのだろうか。どんな過去を持ち、なぜこれほどまでに警戒心が強いのだろうか。そして、あの瞳の奥にあった闇の正体は……
「まあ、慣れですよ」
ジルが小声で言った。
「あの人は、多分自分なりに若様のことを考えてるんでしょうけど、表現の仕方がちょっと不器用なんじゃないですかね」
「不器用……か」
確かに、そうかもしれない。しかし、それにしては彼女の警戒心は常軌を逸している。まるで、いつ敵が襲ってきてもおかしくないと思っているかのような。
夜が更けても、アメリアは警戒を怠らなかった。ルーカスとジルが眠った後も、彼女だけは火の番をしながら、森の闇を見つめ続けていた。
その姿は、守護者としては頼もしい。しかし、人間としては、どこか痛々しくも見えた。
彼女は、一体何と戦っているのだろうか。




