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第17話:アメリアの囁き

 シルフィード号が村へと向かう道中、馬車の中は重い沈黙に包まれていた。黒い鷲の男との通信で明らかになった事実は、あまりにも重大だった。世界規模の陰謀、各地の遺産への脅威、そして自分たちが巨大な組織の敵と見なされているという現実。


 ルーカスは窓の外を眺めながら、様々な思いを巡らせていた。しかし、彼の心に引っかかっていたのは、陰謀のことだけではなかった。


 あの夜、アメリアが盗賊に囁いた言葉。それを聞いた瞬間、盗賊は恐怖で震え上がり、全てを白状した。一体、どんな言葉がそれほどの恐怖を与えることができるのだろうか。


 ルーカスは意を決して口を開いた。


「アメリア」


 彼女は手にしていた報告書から顔を上げた。紫水晶の瞳が、静かにルーカスを見つめる。


「はい、ルーカス様」


「あの夜のことですが……盗賊に囁いた言葉が、どうしても気になるのです」


 アメリアの表情が、僅かに硬くなった。彼女は視線を落とし、膝の上で手を組んだ。


「企業機密だと申し上げたはずです」


「分かっています。でも……」


 ルーカスは躊躇いながらも続けた。


「もし、あなたに何か隠さなければならない過去があるのなら、僕たちに話してください。僕たちは仲間です。秘密を抱えたまま、共に戦うことはできません」


 ジルも料理の手を止めて、アメリアの方を見た。彼の金色の瞳には、普段の陽気さではなく、真剣な関心があった。


 *** 


 アメリアは長い沈黙を保った。馬車の揺れと、車輪が踏みしめる土の音だけが響いている。


 やがて、彼女は深いため息をついた。


「……分かりました」


 アメリアの声は、いつもより小さく、そして僅かに震えていた。


「お話しします。私の過去について。そして、あの夜に囁いた言葉について」


 ルーカスとジルは、息を詰めて彼女の言葉を待った。


 アメリアは窓の外を見つめながら、ゆっくりと話し始めた。


「私が盗賊に囁いた言葉は……『ナイトシェードは二度警告しない』でした」


 ジルが息を呑んだ。ルーカスは眉をひそめる。


「ナイトシェード?」


「はい」


 アメリアの声は、まるで遠い記憶を辿るように静かだった。


「それは、かつて私が所属していた一族の名前です。大陸裏社会で、その名を知らぬ者はいない……伝説の暗殺者一族」


 馬車の中の空気が、一瞬で張り詰めた。


 ルーカスは驚愕した。ナイトシェード。それは、彼が書物で読んだことのある名前だった。子供を躾けるための恐ろしい物語にさえ登場する、影の世界の住人たちの名前だった。


「暗殺者……一族?」


「そうです」


 アメリアは静かに頷いた。


「裏切り者や敵対者を、影の中から音もなく消し去る者たち。それが、ナイトシェードの正体です」


 *** 


 アメリアは続けた。


「私は、その一族の中でも特に将来を嘱望された……天才暗殺者でした」


 彼女の言葉には、自嘲的な響きがあった。


「幼い頃から、人を殺すための技術だけを叩き込まれて育ちました。剣術、体術、毒物の知識、隠密行動。全ては、命令された相手を確実に始末するための技能でした」


 ルーカスは言葉を失った。目の前にいる、いつも完璧なメイドとして振る舞う美しい女性が、かつては……


「ナイトシェードの掟は絶対でした。一度標的と定められた者は、必ず死ぬ。どんな権力者であろうと、どんな聖人であろうと、例外はありませんでした」


 アメリアの瞳に、深い陰りが宿った。


「そして、『ナイトシェードは二度警告しない』という言葉は、我々が標的に告げる最後の通告でした。この言葉を聞いた者は、確実に死が待っていることを知っていたのです」


 ジルが震え声で尋ねた。


「じゃあ、あの盗賊が恐怖で震えたのは……」


「はい」


 アメリアは頷いた。


「彼は、ナイトシェードの恐ろしさを知っていたのでしょう。裏社会に生きる者なら、その名前を聞いただけで震え上がるのも無理はありません」


 *** 


 ルーカスは混乱していた。目の前にいるのは、自分を慕い、忠実に仕えてくれる大切な仲間だった。その彼女が、かつては人を殺すことを生業としていたという事実を、どう受け止めればよいのか分からなかった。


「でも……なぜあなたがその組織を?」


 ルーカスの問いに、アメリアの表情が苦痛に歪んだ。


「ある任務で……私は罪のない人々を、その手にかけることになりました」


 彼女の声は震えていた。


「それは、政敵を排除したい貴族からの依頼でした。しかし、実際には……その貴族こそが悪人で、私が殺した人々は、彼の悪事を暴こうとしていた正義の人たちだったのです」


 アメリアは顔を両手で覆った。


「私は、正義を成そうとする人々を殺し、悪人を守ったのです。しかも、組織はそれを承知で私に任務を与えていました。金さえもらえれば、善悪など関係ない……それがナイトシェードの本質だったのです」


 ルーカスは、彼女の苦悩を感じ取った。完璧なメイドとしての仮面の下に隠されていた、深い傷と後悔があったのだ。


「それで、組織を抜けることにしたのですね」


「はい」


 アメリアは顔を上げた。その瞳には、涙が浮かんでいた。


「でも、ナイトシェードの掟を破ることは、死を意味します。組織を裏切った者は、必ず追われ、そして殺されるのです」


 *** 


 アメリアは窓の外を見つめながら続けた。


「私は追われる身となりました。かつての同胞たちが、次々と刺客として送り込まれてきました」


 彼女の声には、その頃の恐怖と絶望が滲んでいた。


「どこへ逃げても、影のように追ってくる。眠ることも、安らぐことも許されない日々でした。もはや、これまでかと思った時……」


 アメリアの表情が、僅かに和らいだ。


「ジークフリート公に救われたのです」


 ルーカスは息を詰めて聞いていた。


「父が?」


「はい」


 アメリアは微笑んだ。それは、彼女が初めて見せた、心からの笑顔だった。


「公爵様は、追手に囲まれて絶体絶命だった私を助けてくださいました。そして、こうおっしゃったのです」


 彼女は父の言葉を、一言一句正確に再現した。


「『過去は変えられない。だが、未来は変えることができる。お前が本当に償いたいと思うなら、これからは人を守るために、その力を使え』と」


 ルーカスの胸に、父への深い敬愛の念が湧き上がった。


「それで、我が家に仕えることになったのですね」


「そうです」


 アメリアは頷いた。


「公爵様への恩義、そして自らの罪を償うために、私は公爵様の息子であるあなたを、命を懸けて守ることを誓ったのです」


 *** 


 長い告白を終えて、馬車の中に静寂が戻った。


 ルーカスは、アメリアの過去を知ったことで、彼女への理解が深まったと感じていた。同時に、彼女がどれほど深い傷と罪悪感を抱えて生きているかも理解した。


「アメリア」


 ルーカスは静かに声をかけた。


「僕は、あなたの過去を知ったからといって、あなたを恐れたり、避けたりするつもりはありません」


 アメリアは驚いたような表情を見せた。


「でも……私は人殺しです。多くの無実の人々の血で、この手は汚れています」


「確かに、あなたは過ちを犯しました」


 ルーカスは認めた。


「でも、それを後悔し、償おうとしている。そして、今は人を守るために戦っている。過去のあなたではなく、今のあなたが僕の仲間です」


 アメリアの瞳に、再び涙が浮かんだ。しかし、今度はそれまでとは違う種類の涙だった。


「ルーカス様……」


 ジルも口を開いた。


「俺も同感だ、アメリアちゃん。過去がどうであれ、今のあんたは俺たちの大切な仲間だ。それは変わらねえよ」


 アメリアは二人の言葉に、心からの感謝を感じていた。


「ありがとうございます……本当に、ありがとうございます」


 彼女の声は震えていたが、それは恐怖や後悔ではなく、初めて感じる温かい受容への感動だった。


 *** 


 しかし、ルーカスの心には、新たな懸念も生まれていた。


「アメリア、一つ心配なことがあります」


「何でしょうか?」


「ナイトシェードは、今でもあなたを追っているのですか?」


 アメリアの表情が曇った。


「……分かりません。ここ数年は追手の気配を感じていませんでしたが、完全に諦めたとは考えにくいです」


 ジルが眉をひそめた。


「つまり、俺たちは『黒い鷲の旦那』だけでなく、ナイトシェードからも狙われる可能性があるってことか?」


「そうなります」


 アメリアは申し訳なさそうに答えた。


「私がいることで、皆様を危険に晒してしまうかもしれません」


 しかし、ルーカスは首を振った。


「それは違います。危険は確かに増すかもしれませんが、あなたがいることで僕たちが得る力の方が大きい」


 彼はアメリアを真っ直ぐ見つめた。


「あなたの戦闘能力、洞察力、そして何より、仲間を守ろうとする強い意志。それらは、どんな危険よりも価値があります」


 アメリアは感動に震えていた。これまで、自分の存在を肯定してくれる人はいなかった。父のような厳しさではなく、ルーカスの温かい信頼は、彼女の心に新しい光をもたらしていた。


 「私は……私は、ルーカス様のためなら、再びナイトシェードと戦うことも厭いません」


 アメリアの声には、揺るぎない決意があった。


 過去の影から逃げ続けていた女性が、今初めて、守るべきものを見つけたのだ。


 馬車は村へと向かい続けていた。三人の絆は、秘密の共有によってさらに深まった。しかし、遠く離れた場所では、黒い鷲の男が不敵に微笑んでいた。


 「ナイトシェードの裏切り者も一緒か。面白くなってきたな」

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