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「優しすぎる」と捨てられた僕の隣には、もう君の居場所なんてない  作者: ledled


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第5話 代償の始まりと、輝きを失った彼女

深夜一時の薄暗いリビング。テレビの電源は消したままで、部屋には換気扇の低い唸り音だけが響いている。

私、美咲はソファに膝を抱えて座り、スマホの画面を虚ろな目で見つめていた。メッセージアプリ「MINE」のトーク画面には、私から送った緑色の吹き出しがいくつも並んでいる。


『今日は何時に帰る?』

『夕飯、ハンバーグ作ったんだけど食べる?』

『遅くなるなら連絡だけでもして』


一番上のメッセージを送ったのは夕方の六時。そして今に至るまで、一つとして『既読』の文字はついていない。

テーブルの上には、すっかり冷めきって表面に白い脂が浮いたハンバーグが、ラップもかけられずにぽつんと置かれている。


健太と暮らしていた頃は、こんなことは絶対に起こらなかった。彼はどんなに仕事が忙しくても、MINEの返信を欠かさなかったし、遅くなる時は必ず事前に電話をくれた。私が作った料理は、どんなに冷めていても「温め直せば美味しいよ」と残さず食べてくれた。

あの頃の私は、その健太の優しさを「予定調和で退屈だ」と切り捨てた。何も波風が立たない、私を甘やかすだけの毎日に息が詰まりそうだったから。


だから私は、強引で、予想のつかない行動で私を振り回してくれる翔太を選んだ。翔太と一緒にいれば、毎日がドラマチックで刺激に満ちていて、自分が特別な女になったような気がした。写真共有SNSの「アウスタ」に彼との華やかなデートの写真を載せるたびに、承認欲求が満たされていくのを感じていた。


だが、その「刺激」が、単なる「身勝手さ」の裏返しであることに気づくのに、そう時間はかからなかった。


玄関のドアが乱暴に開く音がして、私はビクッと肩を揺らした。

重い足音が廊下を近づいてくる。


「……翔太?」


リビングのドアが開き、酒の臭いと甘ったるい香水の匂いをプンプンさせた翔太が、千鳥足で入ってきた。シャツの第一ボタンは外れ、ネクタイは緩みきっている。


「おう、起きてたのか」

「起きてたのかって……ずっと待ってたんだよ? ご飯、作ってあるってMINEで送ったのに。全然既読にならないし」


私が立ち上がって文句を言うと、翔太は面倒くさそうに顔をしかめ、舌打ちをした。


「あー、ごめんごめん。取引先との付き合いでさ。スマホなんていちいち見てる暇ねえんだよ。んなもん、ラップして冷蔵庫に入れとけよ」

「付き合いって……今日、キャバクラかどこかに行ってたの?」


シャツから漂う、私のものではない安っぽい香水の匂い。それに、襟元に微かについているファンデーションの跡。

翔太は悪びれる様子もなく、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出してラッパ飲みした。


「うるせーな。仕事の付き合いだって言ってんだろ。お前、最近細かいことでいちいち口うるさいぞ。まるでオカンみたいだな」


オカン。その言葉が胸にグサリと刺さった。

健太には「私を束縛しないで」と言って別れたのに、今の私は、翔太の行動をいちいち監視し、束縛しようとしている。自分が一番嫌悪していたはずの、余裕のないヒステリックな女に成り下がっていた。


「別に、口うるさく言ってるわけじゃないよ。ただ、一緒に住んでるんだから、連絡くらいしてくれても……」

「だから、仕事だっての。俺はお前と違って稼がなきゃなんねえんだよ。健太みたいに、毎日定時で帰ってきて女の尻に敷かれてヘラヘラしてるような暇な男とは違うんだよ」


健太の名前を嘲笑うように出され、私は言葉を詰まらせた。

翔太は私を手に入れた途端、態度を急変させた。交際前はあんなに優しく、私の話を親身になって聞いてくれたのに、今では自分の都合ばかりを押し付けてくる。休日のデートも、彼が「疲れた」と言えばドタキャンされるし、アウスタに写真を載せようとすると「面倒くせえ」と嫌がるようになった。私が少しでも不満を言うと、途端に不機嫌になって声を荒げる。


彼は私を愛しているわけではなく、単に「健太から女を奪った」という優越感に浸りたかっただけなのだと、最近になってようやく気づき始めていた。


「もういいよ。先にお風呂入ってきて」


私がため息をつきながら冷めたハンバーグを片付けようとすると、翔太は乱暴にジャケットをソファに投げ捨て、洗面所へと向かった。

ドン、と乱暴にドアが閉まる音が響き、リビングに再び静寂が戻る。


流し台に手作りの料理を捨てながら、視界が滲んだ。

どうして、こんなことになってしまったのだろう。

私はただ、もっと自分らしく、自由に生きたかっただけなのに。


翌日、私は寝不足のまま職場へ向かった。

デザイン事務所での仕事は相変わらず激務で、最近は集中力が続かずミスを連発している。

健太と暮らしていた頃は、私が残業で遅くなると、彼が代わりに洗濯や掃除を済ませ、お風呂を沸かして待っていてくれた。「美咲は仕事が忙しいんだから、家事は俺がやるよ」と、嫌な顔一つせずに。休日は彼が作ってくれた遅めの朝食を食べながら、一週間の疲れを癒やしていた。

そのおかげで、私は仕事に集中し、充実した日々を送ることができていたのだ。


だが、今は違う。翔太は家事を一切手伝わない。

「俺の方が家賃多く払ってんだから、家事はお前がやるのが当然だろ」

そう言い放ち、脱いだ服は床に脱ぎっぱなし、食べた食器もシンクに溜め込んだまま。私は仕事で疲れ果てて帰宅した後、翔太が散らかした部屋の片付けと、明日のご飯の準備に追われる。睡眠時間は削られ、肌荒れもひどくなった。最近はアウスタに自撮りを載せる気力すらない。


「美咲さん、このデザイン案ですけど、クライアントからまた修正が入りました。もっとターゲット層に刺さるような、インパクトのあるものにしてほしいって」


後輩のスタッフから書類を渡され、私は頭を抱えた。


「わかった。今日中に修正して出し直すね」


パソコンの画面に向かうが、良いアイデアが全く浮かばない。頭の中は翔太とのことや、日々の生活の疲れでいっぱいで、クリエイティブな思考が完全に停止してしまっていた。


ふと、デスクの端に置かれたスマホが目に入った。

無意識のうちに、私はアウスタのアプリを開き、ある名前を検索していた。

『佐藤健太』

別れてから一度も見ていなかった、彼のアカウント。私が一方的に自分のアカウントから彼の写真をすべて消し去った後、彼がどうしているのかなど気にも留めていなかった。

検索結果に表示された彼のアイコンをタップし、タイムラインの一番上にある最新の投稿を見て、私は息を呑んだ。


『新しい大型プロジェクトがなんとか無事にローンチ。最高のチームメンバーに恵まれて、本当に感謝しかない。打ち上げのイタリアンも最高だった!』


そこには、お洒落なレストランで、ワイングラスを持って笑顔で写る健太の姿があった。

彼を取り囲んでいるのは、職場の同僚たち。そして、健太のすぐ隣には、小柄で可愛らしい女性が、彼に寄り添うようにして満面の笑みを浮かべていた。


健太の顔は、私と付き合っていた頃の、あのどこか自信なさげで、私の顔色を常に窺うような表情とは全く違っていた。

自信に満ち溢れ、男らしく、それでいて彼本来の誠実で優しいオーラが滲み出ている。本当に、心の底から充実しているのが画面越しにも伝わってきた。


「……嘘」


思わず声が漏れた。

私と別れて、どん底に落ちて泣いていると思っていた。私の存在なしでは生きていけないような、可哀想な男だと見下していた。

なのに、彼は私を失ったことで、むしろ本来の輝きを取り戻していたのだ。

そして、あの隣にいる女性。彼女が今の健太の恋人なのだろうか。彼女の健太を見る目は、心からの尊敬と愛情に満ちているように見えた。


胸の奥が、ギリギリと嫌な音を立てて軋んだ。

健太のその笑顔は、かつては私だけに向けられていたものだった。彼のその絶対的な優しさは、私だけの特権だったはずだ。

それを自ら手放し、ゴミ箱に捨てたのは私自身だ。


『健太は優しすぎて、物足りないの』


あの時、私が言い放った残酷な言葉が、ブーメランのように私の胸に深く突き刺さった。

物足りなかったのではない。私が彼の優しさに甘えきり、その価値を理解しようとしなかっただけだ。彼の優しさは、決して「弱さ」なんかではなかった。相手を思いやり、包み込むという、彼だけの「強さ」だったのだ。あの女性は、その価値をちゃんと理解している。


失って初めて、私は自分がどれほど愚かで、どれほど大きなものを手放してしまったのかを痛感した。


その日の夜、私は仕事の修正をなんとか終えて、ふらふらになりながらマンションに帰った。

部屋の明かりはついていた。翔太が珍しく早く帰っているらしい。

少しだけホッとしてリビングのドアを開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。


「あー、マジで? それウケるんだけど。今度また飲み行こうぜ」


ソファに寝転がり、スマホで誰かと楽しげに通話している翔太。女の声が漏れ聞こえてくる。

そして、テーブルの上には、コンビニの弁当の空き箱と、ビールの空き缶が散乱し、床には脱ぎ捨てられた靴下が転がっていた。


私と目が合っても、翔太は通話を切ろうとしなかった。


「あ、悪い。同居人が帰ってきたから切るわ。じゃあな、またMINEする」


通話を切ると、翔太は面倒くさそうに起き上がった。


「おっそ。お前、毎日何時に帰ってきてんの? 飯もねえし、部屋も汚えし、マジで使えねえな」


私の中で、張り詰めていた何かがプツンと切れる音がした。


「……使えないって、何?」


私の低い声に、翔太は怪訝な顔をした。


「あ? 事実だろ。飯も作らねえ、掃除もしねえ。そのくせ俺がちょっと飲みに行ったらMINEでグチグチうるせえ。お前、最近マジで顔死んでるし、一緒にいても全然楽しくねえんだわ。アウスタでイキってた頃の元気はどうしたんだよ」


私が顔が死んでいるのは、あなたが私を家政婦扱いして、毎晩遊び歩いているからじゃない。


「私だって仕事してるんだよ! なのに、家事は全部私に押し付けて……翔太は自分のことしか考えてないじゃない!」

「はあ? お前が勝手に健太を捨てて俺のところに来たくせに、被害者ぶってんじゃねえよ」


翔太は立ち上がり、私を見下ろすように冷酷な目を向けた。


「俺はな、お前が健太の女だからちょっと手を出してみただけなんだよ。あの真面目ぶった健太から大切なものを奪うっていうスリルが楽しかっただけで、お前自身にそこまで価値があるなんて思ってねえから」

「な……に、それ……」

「お前みたいに、自分の我儘で婚約者裏切るような女、本気で愛する男なんていねえよ。せいぜい俺のベッドで泣き言でも言ってりゃよかったのに、最近はマジで重いんだよ」


翔太の言葉は、氷のように冷たく、私の心を容赦なく切り裂いた。

最初から、彼は私を愛してなどいなかった。健太へのコンプレックスと、彼から奪うという歪んだ優越感のためだけに、私を利用したのだ。


「もういいわ。お前とは終わり。俺、来週ここ出ていくから。あとは一人で家賃払うなり、田舎帰るなり好きにしろよ」


翔太はそう吐き捨てると、クローゼットから適当に服を引っ張り出し、ボストンバッグに詰め込み始めた。


「待って! 翔太、待ってよ! 私、どうすればいいの!」


私は慌てて彼の腕を掴んだが、彼は虫けらでも払うかのように、私の手を乱暴に振り払った。


「触んな。……あ、そうだ。そんなに寂しいなら、健太のところにでも戻れば? ま、あの人がお前みたいな裏切り女を許してくれるとは思えねえけどな。俺が全部話してやったし」


ドアがバタンと閉まり、鍵がかけられる音が響いた。


静まり返った部屋の中、私はその場にへたり込んだ。

翔太に見捨てられ、私は完全に一人ぼっちになってしまった。

部屋には、彼が散らかしたゴミと、脱ぎ捨てられた服だけが残されている。


「あ、ああ……」


声にならない嗚咽が漏れた。

馬鹿だ。私は本当に、どうしようもない馬鹿だ。

刺激を求めて、自分を特別扱いしてくれる男の嘘に騙され、本当に私を愛し、守ってくれていた人を自分の手で壊してしまった。


健太のあの穏やかな笑顔。

私の作る下手な料理を「美味しい」と食べてくれた顔。

私が仕事で落ち込んでいる時、黙って背中を撫でてくれた温かい手。

休日に一緒に家具屋を巡って、「美咲の好きなデザインでいいよ」と笑ってくれたあの声。


『来年、結婚しよう』

あの時、彼がくれたプラチナの指輪。私はそれを、どうして手放してしまったのだろう。


「健太……健太……ごめんなさい……」


床に突っ伏し、私は声を上げて泣き崩れた。

後悔と焦燥感が、真っ黒な波となって私を飲み込んでいく。

どうにかして、彼を取り戻さなければ。私が間違っていたと、もう一度やり直したいと、彼に伝えなければ。

あの時のように、私が泣いて謝れば、あの優しい健太ならきっと許してくれるはずだ。

「美咲の好きにしていいよ」と、また私を優しく抱きしめてくれるはずだ。


私は震える手でスマホを拾い上げ、健太の連絡先を探した。

MINEを開き、ずっと下の方に埋もれていた彼のトーク画面を表示する。


『健太、ごめんなさい。私が間違ってた。もう一度だけ、会って話がしたいです』


そう入力して、すがるような思いで送信ボタンを押した。


だが、画面に表示されたのは、残酷な現実だった。

メッセージの横には、いつまで経っても『既読』の文字はつかない。

試しにアウスタを開き、彼のアカウントを見ようとしたが、さっきまで見れていたはずの彼のページは『ユーザーが見つかりません』という無機質なエラーメッセージを表示するだけだった。


彼は、私の連絡先を完全にブロックしていたのだ。

MINEも、アウスタも、すべて。


「そんな……嘘でしょ……?」


健太が私を拒絶するなんて。あんなに私を好きだと言ってくれていたのに。私のすべてを許してくれるはずだったのに。

スマホを握りしめたまま、私は絶望の淵に突き落とされた。

彼の中にはもう、私の居場所なんて一ミリも残っていない。私の存在は、彼の人生から完全に消去されたのだ。その事実が、鋭いナイフのように私の胸を何度も突き刺した。


外では、冷たい雨が降り始めていた。

私の手からすべてが零れ落ち、残されたのは取り返しのつかない後悔と、果てしない孤独だけだった。

輝きを失った私は、散らかった暗い部屋の中でただ一人、二度と戻らないあの優しい温もりを求めて、朝まで泣き続けることしかできなかった。

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