第3話 裏切りの連鎖と、差し伸べられた手
美咲がマンションを出て行ってから、一週間が過ぎた。
クローゼットの半分は空っぽになり、洗面所に並んでいた彼女の化粧品も、お揃いで買った歯ブラシも姿を消した。残されたのは、かつて二人で休日に家具屋を巡って選んだダイニングテーブルや、座る主を失ったソファだけだ。部屋の中には彼女の痕跡が色濃く残っているのに、空気だけがやけに冷たく、空虚に感じられた。
仕事から帰宅し、明かりもつけずにソファに崩れ落ちる。これが最近の俺のルーティンになっていた。食事を摂る気にもなれず、ただ暗闇の中でぼんやりと虚空を見つめる。時計の秒針が進む音だけが、無機質に部屋の中に響いていた。
ポケットからスマホを取り出し、無意識に写真共有SNS「アウスタ」のアプリを開いてしまう。別れてから見るべきではないと頭では分かっているのに、親指が勝手に美咲のアカウントを検索していた。
画面に表示された彼女のページを見て、俺は息を呑んだ。
ほんの数日前まで並んでいた、俺との旅行の写真や、俺が作った料理の写真、二人の記念日の投稿。それらがすべて、綺麗さっぱり削除されていたのだ。
代わりに最新の投稿として上がっていたのは、お洒落なバーで二つのカクテルグラスが並んでいる写真だった。キャプションには『やっと本当の自分を取り戻せた気がする。これからは新しい私で』とだけ書かれている。タグ付けはされていないが、グラスの奥に微かに写り込んでいるジャケットの袖は、あの日駅前のカフェで翔太が着ていたものと同じだった。
完全に、俺の存在は彼女の過去から消去されたのだ。
五年間という月日が、まるで最初からなかったかのように。
そんな静寂と絶望を破るように、スマホが震え、画面にメッセージアプリ「MINE」の着信画面が表示された。
そこに表示されていた名前に、俺は一瞬呼吸を止めた。
『翔太』
大学時代からの親友であり、俺から美咲を奪った男。
なぜ、今になって通話をかけてくるのか。怒りよりも先に、激しい動悸が胸を打つ。無視しようと通話拒否のボタンに指を伸ばしかけたが、逃げてはいけないという微かな意地が俺を思いとどまらせた。深く息を吸い込み、応答ボタンを押す。
「……もしもし」
「お、出た出た。よお、健太。元気してるか?」
スピーカーの向こうから聞こえてきたのは、いつもと何も変わらない、軽薄で明るい声だった。親友の婚約者を奪っておきながら、どうしてこんなに平然としていられるのか。その無神経さに、背筋が粟立つような寒気を感じた。
「翔太……お前、何の用だ」
「いやさ、美咲から聞いたよ。お前ら、別れたんだってな。婚約破棄とか、色々と大変だったな」
「……お前が言うな」
俺の低い声に、翔太はフッと鼻で笑った。その笑い声には、明らかな嘲笑と優越感が混じっていた。
「まあ怒るなよ。俺もさ、最初は相談に乗ってただけなんだぜ? 美咲がMINEで『健太の優しさが重い、息が詰まる』って泣きついてきたから、ただの愚痴聞きとして慰めてやってただけ。でもさ、あの子、意外と寂しがり屋でさ。俺がちょっと強引に引っ張ってやったら、あっという間にコロッと来ちゃってさ。アウスタの写真も、俺が言ったらすぐに全部消したぜ」
まるで新しい戦利品を見せびらかすような口調。俺が五年かけて大切にしてきたものを、泥足で踏みにじるような言葉の数々に、握りしめたスマホがきしむ音を立てた。
「美咲はモノじゃない。お前、自分が何をしたか分かってるのか」
「分かってるよ。でもさ、健太。お前にも責任はあるだろ?」
「なんだと?」
「お前さ、昔からそうだよな。波風立てるのが怖くて、いつもニコニコして他人に譲ってばかり。美咲のことも、ただ甘やかしてただけだろ? 女ってのはな、時にはガツンと言って引っ張ってくれる男を求めてるんだよ。お前のその『優しさ』ってやつは、ただの自己満足で、退屈なんだよ。美咲もそう言ってたぜ」
翔太の言葉は、美咲が喫茶店で言い放った言葉と完全にリンクしていた。二人で俺を笑い物にしていた光景が目に浮かび、胃の奥から吐き気が込み上げてくる。
「お前には、美咲はもったいなかったんだよ。これからは俺が代わりに刺激的な毎日を味わせてやるから、せいぜい安心してくれや。あ、結婚式場のキャンセル料、足りなかったら貸してやるよ? じゃあな、また飲もうぜ」
一方的にそう言い捨てて、通話は切れた。
ツーツーという無機質な電子音が、暗い部屋に響き渡る。
俺はスマホを床に投げつけた。鈍い音を立てて転がったそれは、カーペットの上で沈黙した。
「……クソッ」
両手で顔を覆い、膝の間に顔をうずめる。
悔しかった。怒鳴りつけてやりたかった。だが、翔太の言葉に何も言い返せなかった自分が、何よりも情けなくて惨めだった。
俺の優しさは、ただの弱さだったのか。自己満足だったのか。
自己嫌悪と孤独感が、真っ黒なタールのように俺の全身を覆い尽くしていく。もう、立ち上がる気力すら残っていなかった。
翌日。オフィスに出社したものの、俺の頭の中は濃い霧がかかったようにぼんやりとしていた。
パソコンのモニターに向かっていても、企画書の文字が滑って全く頭に入ってこない。キーボードを叩く指は重く、何度もタイプミスを繰り返した。
「佐藤、この見積書、桁が一つ違ってるぞ。どうしたんだ、こんな初歩的なミス」
「あ……すみません、すぐ直します」
「こっちのクライアントへの提出データも、先月のものになってる。頼むぞ、今日はやけにぼーっとしてるじゃないか」
「申し訳ありません……」
午前中だけで、普段なら絶対にしないようなミスを連発してしまった。上司からは怪訝な顔をされ、周囲の同僚たちもチラチラとこちらを窺っている。針の筵に座っているような気分だったが、それでも仕事に集中することができなかった。頭の片隅で、翔太の嘲笑う声と、美咲のアウスタの投稿が交互にフラッシュバックしてくるのだ。
昼休みになり、皆がランチに出かけていく中、俺は一人デスクに突っ伏していた。食欲など全くない。ただ、目を閉じてこの現実から逃げ出したかった。
「佐藤さん」
不意に頭上から声をかけられ、ビクッと肩を震わせて顔を上げる。
そこには、同僚の彩香が立っていた。彼女の手には、温かいお茶が入った紙コップが二つ握られている。
「彩香ちゃん……」
「お疲れ様です。これ、よかったら」
彩香は俺のデスクにお茶をコトンと置くと、隣の空いている椅子を引き寄せて座った。彼女の大きな瞳が、俺の顔を真っ直ぐに覗き込んでくる。
「最近、変ですよ。顔色もすごく悪いし、午前中のミスも……佐藤さんらしくないです。……何かあったんですか?」
その真っ直ぐな問いかけに、俺は思わず視線を逸らした。
親友に婚約者を奪われ、優しさを理由に捨てられたなんて、誰にも言えるはずがない。あまりにも惨めで、情けない話だ。
「いや……何でもないよ。ちょっと、プライベートでバタバタしてて、寝不足なだけだから」
苦し紛れの嘘をついて笑ってみせたが、彩香の表情は硬いままだった。
「嘘ですね」
「えっ」
「私、佐藤さんのことずっと見てきましたから。仕事でどんなに忙しくても、佐藤さんはあんなミスをする人じゃありません。それに、その顔……まるで、世界の終わりみたいな、すごく悲しい顔してます」
彩香の言葉に、俺は言葉を詰まらせた。彼女の観察眼の鋭さに驚くと同時に、そこまで自分のことを気にかけてくれていたことに、胸の奥が少しだけチクリと痛んだ。
「……本当に、大丈夫だから。心配かけてごめん」
「ダメです。このままじゃ、佐藤さん壊れちゃいます。今日はもう、定時で上がりましょう。残りの作業、私手伝いますから」
「でも、明日のプレゼン資料が……」
「私が一緒にやります。だから、今日は私の言う通りにしてください」
彩香の口調は静かだったが、そこには有無を言わさない強さがあった。普段は控えめな彼女が、ここまで強引に出てくることに驚き、俺はただ頷くことしかできなかった。
夕方、彩香の宣言通り、俺たちは猛スピードで仕事を片付け、定時でオフィスを出た。
連れて行かれたのは、会社から少し離れた路地裏にある、こぢんまりとした小料理屋だった。カウンター席と小さなテーブル席がいくつかあるだけの、落ち着いた雰囲気の店だ。
「ここ、私の行きつけなんです。お料理、すごく美味しいんですよ」
彩香はそう言って微笑むと、手際よく料理と日本酒を注文してくれた。
出されたお通しの筑前煮を一口食べると、出汁の優しい味が冷え切った胃の奥に染み渡っていくようだった。久しぶりに、まともな食事をした気がした。
最初は、仕事の話や他愛のない世間話をしていた。彩香は俺が話しやすいように、巧みに話題を振り、時折冗談を交えて笑わせてくれた。そのおかげで、俺の張り詰めていた緊張の糸も、少しずつ解れていった。
「……でね、その時の部長の顔が本当に面白くて」
「ははっ、それは確かに傑作だね」
俺が自然に笑ったのを見て、彩香はふっと目を細め、手元の猪口を見つめた。
「……佐藤さん、少しは元気出ましたか?」
その穏やかな声色に、俺の顔からスッと笑顔が消えた。
店内の喧騒が遠ざかり、二人の間に静かな時間が流れる。彩香は俺の目を見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「言いたくないなら、無理にとは言いません。でも、一人で抱え込んでいる佐藤さんを見るのは、私……辛いです。私でよかったら、話を聞かせてくれませんか?」
彼女の瞳の奥には、純粋な心配と、深い思いやりが宿っていた。
その温かな眼差しに触れた瞬間、俺の中で張り詰めていた最後のダムが、音を立てて決壊した。
気づけば、俺はすべてを話していた。
美咲との間に起きたこと。翔太との裏切り。喫茶店での残酷な宣告。アウスタから消された俺の存在。そして、昨夜の翔太からのMINEを通じた無神経な電話。
自分がどれほど惨めな思いをしたか、自分の信じていた「優しさ」がどれほど無価値なものとして切り捨てられたか。言葉にすればするほど、自分の傷口をえぐるような痛みを伴ったが、それでも一度溢れ出した言葉は止まらなかった。
「……俺は、ただ彼女に笑っていてほしかっただけなんだ。彼女のすべてを肯定して、守りたかった。でも、それはただの自己満足で、俺は決断から逃げていただけだったのかもしれない。波風を立てるのが怖くて、彼女を退屈させてしまった。俺の『優しさ』なんて、誰の役にも立たない、ただの弱さだったんだよ」
最後にそう吐き出すと、俺は深く項垂れ、両手で顔を覆った。
惨めだった。職場の後輩である彩香に、こんな情けない姿を見せている自分が許せなかった。きっと彼女も、俺のことを「情けない男だ」と呆れているに違いない。
だが、彩香から返ってきたのは、嘲笑でも呆れ声でもなかった。
テーブルの上で、俺の握りしめた拳に、そっと温かい手が重ねられた。
驚いて顔を上げると、彩香が真剣な表情で俺を見つめていた。その大きな瞳には、うっすらと涙が浮かんでいるように見えた。
「佐藤さん。それは、違います」
彩香の声は、静かだが、確かな熱を帯びていた。
「佐藤さんの優しさは、決して弱さなんかじゃありません。逃げでもありません。相手を思いやり、尊重し、傷つけないように配慮できる。それは、本当に強い人にしかできないことです」
「でも、美咲はそれを退屈だと言った。翔太も……」
「そんな人たちの言葉なんて、聞く必要ありません!」
彩香が珍しく声を荒げたことに、俺は目を見張った。
「佐藤さんのその優しさを『退屈』だとか『物足りない』なんて言う人たちは、刺激とわがままを履き違えているだけです。自分の罪悪感を誤魔化すために、佐藤さんを悪者にしているだけじゃないですか。そんな身勝手な人たちに、佐藤さんの本当の価値なんて、わかるはずがありません」
彩香の言葉は、俺の心の最も深い、暗い底にまで届くように響いた。
誰も言ってくれなかった。俺が間違っていなかったと、俺の優しさは無駄ではなかったと、誰かに言ってほしかった。
「私は、知っています。佐藤さんが、仕事でミスをした後輩を絶対に責めず、一緒に解決策を考えてくれること。クライアントの理不尽な要求にも、決して感情的にならず、誠実に向き合っていること。誰も見ていないところで、オフィスのゴミ箱を片付けてくれていること」
彩香は重ねた手に少しだけ力を込め、俺の目を真っ直ぐに見つめ抜いた。
「私は、佐藤さんのその誠実さに、その本当の優しさに、何度も何度も救われてきたんです。だから、自分を責めないでください。佐藤さんは、何も間違っていません」
その瞬間、俺の視界が急にぼやけた。
目頭が熱くなり、奥歯を強く噛み締める。必死に堪えようとしたが、次から次へと涙が溢れ出し、頬を伝って落ちていった。
三十歳を過ぎた男が、人前で声を上げて泣くなんてみっともない。そう頭では分かっているのに、感情の奔流を止めることができなかった。
否定され、踏みにじられ、粉々になっていた俺の心を、彩香の言葉が一つ一つ拾い集め、温かい光で包み込んでくれた。俺のすべてを肯定し、ありのままを受け入れてくれた。
「……ありがとう、彩香ちゃん。……本当に、ありがとう」
嗚咽交じりにそう絞り出すと、彩香は優しい微笑みを浮かべ、俺の手を両手でしっかりと包み込んだ。
「泣きたい時は、思い切り泣いていいんですよ。私が、ずっとそばにいますから」
その温もりが、冷え切っていた俺の指先から、ゆっくりと体中に広がっていくのを感じた。
裏切りの連鎖の果てに見つけた、深く暗い絶望の底。
そこに差し伸べられた彩香の手は、信じられないほど温かく、そして力強かった。
俺はこの時、彼女の手を絶対に離してはいけないと、心の底から思った。失った過去を嘆くのではなく、この温かな光とともに、もう一度歩き出すために。
微かな、しかし確かな救いの光が、俺の冷たい世界に差し込み始めていた。




