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「優しすぎる」と捨てられた僕の隣には、もう君の居場所なんてない  作者: ledled


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第2話 残酷な宣告と「物足りない」正義

あの駅前のカフェでの光景を目撃してから、三日が経っていた。

その間の記憶は、まるでピントの合わない古い映画のようにぼやけている。食事の味は一切感じられず、夜はベッドに入っても一睡もできないまま朝を迎える日々。洗面所の鏡に映る自分の顔は、わずか数日でひどくやつれ、目の下には濃い隈が張り付いていた。


美咲とは同じ家で暮らしているはずなのに、あの日以来、まともに顔を合わせていない。彼女は意図的に帰宅時間を遅くし、朝も俺が起きる前に家を出ていくようになった。メッセージアプリのMINEでのやり取りも、「了解」「遅くなる」といった必要最低限の業務連絡のみ。俺が核心に触れるのを避けているのは明らかだった。

いや、避けているのは俺の方かもしれない。真実を知ってしまえば、もう二度と元の生活には戻れないと分かっていたからだ。写真共有SNSのアウスタを開けば、そこにはまだ笑顔で寄り添う過去の俺たちが残っている。それを消し去ってしまう勇気が、俺にはまだなかった。


しかし、このまま曖昧な状態を続けることは、俺の精神を限界まで削り取っていた。

オフィスでの仕事中も、ふとした瞬間にあの二人の笑顔が脳裏にフラッシュバックする。翔太が美咲の髪に触れたあの瞬間。美咲が浮かべた、俺には決して見せない女としての熱を帯びた表情。それらを思い出すたびに、胸の奥を鋭い刃物でえぐられるような痛みが走った。


「佐藤さん、大丈夫ですか? 顔色、すごく悪いですけど……」


心配そうに声をかけてくれたのは、隣のデスクの彩香だった。彼女は最近、俺の異変に気づいているようで、頻繁に気遣ってくれていた。手には温かいお茶の入った紙コップが握られている。


「あ、ああ。大丈夫。ちょっと寝不足なだけだから」


俺は無理に笑顔を作って答えたが、彩香の曇った表情は晴れなかった。彼女はそっと俺のデスクにお茶を置いた。


「何か悩み事があるなら、いつでも聞きますからね。一人で抱え込まないでください」


その温かい言葉が、今の俺にはひどく痛かった。誰かに話して楽になるような問題ではない。俺のプライドも、五年間の思い出も、すべてが泥にまみれていくような感覚。彩香に心配をかけまいと「ありがとう」とだけ返し、再びモニターに視線を戻した。だが、画面の文字は滑ってまったく頭に入ってこない。


その日の夜、俺は意を決して美咲にMINEでメッセージを送った。


『明日の土曜日、昼に少し時間が欲しい。大事な話があるから、駅前の喫茶店に来てほしい』


送信ボタンを押す指が震えていた。既読はすぐについたが、返信があったのは一時間後だった。


『わかった。13時でいい?』


たったそれだけの短い文面に、かつての愛情の欠片も見出すことはできなかった。


翌日の土曜日。指定した喫茶店は、俺たちが付き合い始めた頃によく通っていた、少しレトロで落ち着いた雰囲気の店だ。あえてここを選んだのは、美咲に少しでも昔のことを思い出してほしかったからかもしれない。俺の微かな、そして浅ましい未練だった。


約束の十分前に店に着いた俺は、窓際の席に座り、ブラックコーヒーを注文した。スピーカーからは静かなジャズが流れているが、ちっとも頭に入ってこない。スマホを取り出し、無意識にアウスタのアプリを開いてしまう。二年前の旅行の写真、去年のクリスマスに撮った写真。そこには「健太といるといつも安心する」という美咲のコメントが添えられていた。あの言葉は嘘だったのだろうか。テーブルの上に置いた両手は、自分でも制御できないほど小刻みに震えていた。


彼女が来たら、何から話せばいいのだろう。「あの男と会っていたのか」と単刀直入に聞くべきか。それとも「最近、何か悩んでる?」と遠回しに探るべきか。頭の中で何度もシミュレーションを繰り返すが、どれも正解には思えなかった。


カランコロンとドアベルが鳴り、入り口に美咲が姿を現した。

約束の時間から五分遅れ。彼女は店内を見渡し、俺を見つけるとゆっくりとこちらに歩いてきた。その姿を見て、俺は思わず息を呑んだ。


彼女が着ていたのは、体にフィットした黒のニットワンピースに、少しヒールの高いブーツ。メイクも普段より濃く、特に口紅の色が鮮やかだった。俺とデートする時は、いつも淡い色合いの清楚な服を選んでいた彼女とは、まるで別人のようだった。その変化が、彼女が誰の影響を受けているのかを如実に物語っていた。


「待たせてごめん」


美咲は俺の向かいの席に座ると、バッグからスマホを取り出してテーブルの上に置いた。MINEの通知が光っているのが見える。その動作一つにも、かつてのような親密さは感じられない。ウェイトレスが来てアイスティーを注文するまでの間、俺たちは一言も口を利かなかった。


「……それで、大事な話って何?」


ウェイトレスが去ると同時に、美咲が冷ややかな声で切り出した。俺の目を見ようとはしない。視線は窓の外に向けられたままだ。


俺は膝の上で拳を強く握りしめ、乾燥した唇を舌で湿らせた。


「美咲……最近、帰りが遅いよね」

「仕事が忙しいって言ってるでしょ」


間髪入れずに返ってきた言葉には、明らかな苛立ちが混じっていた。


「仕事、だけじゃないよね。アウスタも全然更新してないし、MINEの返事もそっけない。それに……」


俺の声は、自分でも驚くほど低く、震えていた。美咲がようやくこちらを向いた。その目には警戒の色が浮かんでいる。


「この前の金曜日。駅前のカフェにいたよね」


その瞬間、美咲の表情が微かに凍りついた。


「俺、偶然見かけたんだ。君が……翔太と一緒にいるところを」


沈黙が降りた。

店内のBGMと、他の客たちの楽しげな談笑だけが、俺たちを取り囲んでいる。美咲は目を伏せ、テーブルの上に置かれたアイスティーのグラスの表面についた水滴を、指先で無意識になぞり始めた。

弁解してほしかった。「あれは偶然会っただけだ」「仕事の相談に乗ってもらっていただけだ」と。どんなに見え透いた嘘でもいいから、俺との関係を守ろうとしてほしかった。しかし、美咲の口から出たのは、俺のわずかな希望を木端微塵に砕く言葉だった。


「……そっか。見られてたんだ」


ため息交じりに放たれたその声には、焦りも罪悪感もなかった。むしろ、隠し事をする手間が省けたとでも言わんばかりの、どこかスッキリとした響きさえあった。


「見られてたんだって……それだけかよ。どういうことなんだ、美咲。俺たち、来年結婚するんだぞ? 式場の見学にも行って、指輪だって……」

「だから、何?」


俺の言葉を遮るように、美咲は冷たく言い放った。その冷徹な視線が俺を射抜く。


「結婚の準備をしてるからって、私の気持ちがずっと健太にあるなんて、どうして言い切れるの?」

「な……」


言葉を失う俺の前で、美咲はふっと自嘲気味に笑った。


「健太には、ずっと言えなかった。もうずっと前から、私たち終わってたんだよ」


頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。終わっていた? いつからだ。俺はずっと幸せだった。彼女も同じだと思っていた。俺の与える愛情で、彼女は満たされていると信じて疑わなかったのに。アウスタで幸せそうに笑っていたあの笑顔は、すべて偽りだったというのか。


「翔太とは、いつから……」


絞り出すように問うと、美咲は少しだけ視線を逸らし、淡々と答えた。


「半年くらい前かな。健太が残業で遅かった日、たまたま翔太くんからMINEで連絡があって。悩みがあるなら聞くよって言われて、飲みに行ったのがきっかけ」


親友からの誘い。そして、婚約者の裏切り。俺が仕事で彼女との将来のために必死で働いている裏で、二人は逢瀬を重ねていたのだ。


「翔太くんと一緒にいると、楽しいの。健太みたいに予定調和じゃない。どこに連れて行かれるかわからないドキドキがあって、私を女として見てくれてるって実感できる」

「俺だって、お前を大事にしてきたじゃないか! 何か不満があったのか? 俺の何が悪かったんだよ!」


たまらず声を荒げた俺に、周囲の客がチラリと視線を向ける。だが、そんなことはどうでもよかった。俺はただ、彼女の口から納得のいく理由が欲しかったのだ。


美咲は俺の怒りを受け流すように、静かに、しかしはっきりとした口調で言った。


「そういうところが、嫌なの」

「……え?」

「健太は確かに優しいよ。私のワガママも聞いてくれるし、家事も手伝ってくれる。喧嘩にならないように、いつも私が正しいって言ってくれる。アウスタに載せる写真だって、私が綺麗に写ってるのを選んで、文句一つ言わずに付き合ってくれた」


美咲の言葉は、まるで俺の美徳を数え上げているかのようだった。しかし、その声には一切の愛情がこもっていない。


「でもね、それって本当に私のためなの? 健太はただ、波風を立てたくないだけじゃない。自分の意見をぶつけて傷つくのが怖いから、私に全部合わせているだけ。そんなの、本当の優しさじゃないわ」


突きつけられた刃のような言葉が、俺の胸に深く突き刺さる。


「違う……俺はただ、美咲に笑っていてほしくて……」

「その『優しさ』が、私にとっては重かったの!」


美咲の声が少しだけ大きくなった。彼女の目には、正当化という名の薄暗い光が宿っていた。


「なんでも『美咲の好きにしていいよ』って。それは私を尊重してるんじゃなくて、決断から逃げてるだけ。私は健太のお母さんでもお姫様でもない。人間同士としてぶつかり合いたかったのに、健太はいつもふんわりとした綿あめみたいに私を包み込むだけ。守られているっていうより、鳥籠に閉じ込められているみたいで息が詰まりそうだった」


息が詰まる。その表現に、俺は反論の言葉を見つけられなかった。

俺は彼女のすべてを肯定することが愛だと信じていた。意見が対立しそうになれば俺が引き下がり、彼女が不機嫌になれば俺が謝った。それは彼女を深く愛していたからだ。だが、彼女にとってその優しさは、俺の意志の欠如であり、退屈の象徴に過ぎなかったのだ。


「翔太くんは違う。彼は自分の意見をはっきり言うし、私を振り回す。でも、それが心地いいの。生きているって感じがする。健太と一緒にいる時の、あの生ぬるいお湯にずっと浸かっているような毎日は、もうたくさん」


美咲は一気にそう言い切ると、残っていたアイスティーを一口飲んだ。彼女の顔には、もう何の迷いもない。自分の裏切りを「健太が物足りないからだ」という理由で完全に正当化し、罪悪感から逃れようとしているのは明白だった。

だが、その言葉の刃は、俺の急所を的確に捉えていた。


「……だから、翔太に乗り換えるのか。俺を捨てて。MINEの返事を遅くして、少しずつフェードアウトしようとしてたのか」

「捨てるって言い方はずるいよ。私たち、ただ合わなかっただけ。結婚する前に気づけてよかったじゃない」


美咲は平然と言ってのけた。五年間という月日、共に描いた未来、それらすべてを「合わなかった」という一言で片付けようとしている。

俺の中で、何かが音を立てて崩れ落ちていくのを感じた。怒り、悲しみ、虚無感。それらがごちゃ混ぜになり、やがて冷たい絶望へと変わっていく。


俺は無意識のうちに、テーブルの上で美咲の手に触れようと手を伸ばしていた。


「待ってくれ、美咲。俺、変わるから。君がそういう俺を嫌だったなら、これからはもっと自分の意見を言うし、君とちゃんとぶつかる。だから……」


バシッ。

乾いた音が鳴った。美咲が俺の手を冷酷に振り払ったのだ。


「やめて。そういう未練がましいところも、本当にうんざりなの」


美咲はそう言うと、バッグを手に取り、ゆっくりと立ち上がった。


「婚約は破棄して。式場には私からキャンセルの連絡を入れておくから。……ごめんね、今まで。健太にはもっと、その『優しさ』を受け入れてくれる都合のいい人が合ってると思うよ」


最後まで自分の非を認めることなく、美咲は上から目線で俺に別れを告げた。彼女にとって、俺はもう「可哀想な元カレ」でしかないのだろう。アウスタのアカウントから俺の存在を消す作業も、きっとすぐにやるに違いない。


「あ、それと。翔太くんには手を出さないでね。彼、健太のことすごく心配してたから。MINEで『あいつ大丈夫かな』って言ってたし」


信じられない言葉だった。親友の婚約者を奪っておきながら心配しているだと? 翔太のあの薄ら笑いが脳裏に浮かび、吐き気がした。だが、反論する気力すら、今の俺には残されていなかった。


美咲は伝票を手に取ることなく、ヒールの音を響かせて喫茶店を出て行った。ドアベルが陽気に鳴り、再び店内にジャズの音色が戻ってくる。


窓の外を歩き去る美咲の背中を、俺はただぼんやりと見送っていた。

彼女の足取りは軽く、俺という重荷から解放された喜びに満ちているように見えた。振り返ることは一度もなかった。


テーブルに残された、ほとんど手付かずのアイスティーの氷がカランと音を立てて溶けた。俺の目の前にあるブラックコーヒーは、とうの昔に冷え切っている。


『健太は優しすぎて、物足りないの』


彼女の言葉が、呪いのように頭の中で何度もリフレインする。

優しさが罪になるというのなら、俺は今まで何のために生きてきたのだろう。誰かを傷つけないように、自分を押し殺してまで尽くしてきた結果が、この無惨な結末だというのか。


周りの客たちの談笑が、急に俺を嘲笑っているように聞こえ始めた。

馬鹿な男。親友に女を寝取られ、その女からは「退屈だ」と捨てられる。滑稽で、惨めで、救いようのない道化師。


俺は両手で顔を覆い、深く息を吐き出した。涙は出なかった。代わりに、胸の奥にぽっかりと開いた真っ黒な穴から、冷たい風が吹き込んでくるのを感じていた。

信じていた愛情も、絶対的な味方だと思っていた親友も、そして何より、自分自身のアイデンティティであった「優しさ」さえも完全に否定された。


今の俺には、何一つ残っていなかった。ただ、世界の色が急激に色褪せ、灰色の砂を噛むような虚無感だけが、俺の全身を支配していた。

明日から、どうやって息をして生きていけばいいのか。それすらも分からないまま、俺は冷え切ったコーヒーの前に座り続けていた。残酷な宣告を受けたこの場所で、時間が完全に止まってしまったかのように。


スマホの画面が明るくなり、MINEの通知が表示された。しかし、それに手を伸ばす気力はもう、俺の中には一滴も残っていなかった。

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