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「優しすぎる」と捨てられた僕の隣には、もう君の居場所なんてない  作者: ledled


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第1話 黄昏のカフェと、冷え始めた指先

オフィスの大きな窓から見下ろす街並みは、すでにオレンジ色から深い群青色へと染まり始めていた。デスクの上のデジタル時計は午後八時を示している。広告代理店「アド・フロンティア」での仕事は決して楽なものではない。連日のようにクライアントからの修正が入り、より良いデザインとキャッチコピーを生み出すために頭を悩ませる日々が続いている。それでも、キーボードを叩く俺の指先がどこか軽いのは、帰るべき場所があり、待っていてくれる人がいるからだ。


「佐藤さん、その企画書のデータ修正、明日の朝イチで大丈夫ですよ。今日はもう上がったらどうですか?」


背後から控えめな声で声をかけられ、俺、佐藤健太は振り返った。そこに立っていたのは、後輩であり同じチームで働く同僚の彩香だった。彼女は手にしたマグカップからコーヒーの湯気を立たせながら、少し心配そうな目を俺に向けている。


「ああ、ありがとう。でも、キリのいいところまで終わらせておきたくて。彩香ちゃんこそ、遅くまでお疲れ様。残りのデータ整理、手伝おうか?」

「いえいえ、私の方はもうすぐ終わりますから。それにしても、佐藤さんって本当に真面目ですよね。結婚式の準備で忙しいはずなのに、仕事も一切手を抜かないなんて」


彩香の言葉に、俺は少し照れくさくなって頭を掻いた。彼女の言う通り、俺は現在、五年付き合っている恋人の美咲と結婚の準備を進めている。来年の春には式を挙げる予定で、休日のたびに式場の見学やドレスの試着に付き合っていた。忙しいのは事実だが、苦だと思ったことは一度もない。美咲の喜ぶ顔を見られるなら、いくらでも頑張れる。俺にとって美咲との結婚は、人生の確固たるゴールであり、揺るぎない幸せの象徴だった。


「準備っていっても、俺はほとんど美咲の希望に合わせているだけだからね。一生に一度のことだし、彼女が一番輝ける最高の式にしたいんだ。だから、仕事も頑張って少しでも余裕を持たせておきたいしね」

「……佐藤さんって、本当に優しいんですね」


彩香はふと目を伏せ、マグカップの縁を指でなぞりながら小さく呟いた。その声のトーンがどこか寂しげに聞こえたのは気のせいだろうか。だが、俺が何かを言う前に、彼女はパッと顔を上げ、いつもの明るい笑顔に戻った。


「じゃあ、私は席に戻りますね。あまり無理しないでくださいよ」

「うん、ありがとう」


彩香が自分のデスクに戻っていくのを見送りながら、俺は再びモニターに向き直った。優しい、か。昔からよく言われる言葉だ。争い事が苦手で、他人の意見を尊重しすぎるきらいがある。だが、愛する女性に対して優しくするのは当然のことだろう。美咲のすべてを肯定し、彼女の望みを叶え、全力で守り抜くこと。それが俺の役割だと信じて疑わなかった。


パソコンをシャットダウンし、オフィスを出たのは午後九時を回った頃だった。冬の気配が混じり始めた夜風が、コートの襟元をすり抜けて肌を刺す。駅へ向かう道すがら、スマホを取り出してメッセージアプリの「MINE」を開き、美咲にメッセージを送る。


『今から帰るよ。何か買って帰るものある?』


画面に打ち込み、送信ボタンを押す。既読はすぐにはつかなかった。最近、美咲はMINEの返信が極端に遅くなっている。

美咲と一緒に暮らし始めてもう二年になる。最初は毎日のように一緒のベッドで眠り、朝は他愛のない会話とキスから始まるような甘い生活だった。休日は二人でキッチンに立ち、新しいレシピに挑戦しては笑い合っていた。だが、五年という月日は、良くも悪くも二人の関係を「日常」へと変えていた。


最近の美咲は、どこか上の空であることが多い。話しかけてもスマホの画面から目を離さず、生返事が返ってくることが増えた。結婚の準備に対する熱量も、最初はあんなに高かったのに、最近は「健太のいいように決めていいよ」と丸投げされることが多くなっている。

写真投稿SNSの「アウスタ」にも、以前は俺とのデートの様子や手料理の写真を頻繁にアップしていたのに、最近は更新がパタリと止まっている。俺がタグ付けされることもなくなった。


マリッジブルーというやつかもしれない。環境が大きく変わる前触れに、不安を感じているのだろう。俺はそう解釈し、彼女の負担にならないよう、さらに優しく接することを心掛けていた。家事の分担も俺が多く引き受け、彼女が疲れている時はマッサージをしてあげたりもした。俺のこの優しさが、いつか彼女の不安を取り除いてくれると信じて。


マンションのドアを開けると、部屋の中は暗かった。靴箱の上には美咲のパンプスがない。まだ帰っていないようだ。リビングの明かりをつけ、ネクタイを緩めながらソファに腰を下ろす。テーブルの上には、先日二人でもらってきた式場のパンフレットが無造作に置かれていた。

パラパラとページをめくると、純白のウェディングドレスを着たモデルの写真が目に飛び込んでくる。美咲がこれを着たら、きっと誰よりも綺麗だろう。そんな想像をして、一人で口元を綻ばせる。


スマホが震え、画面に美咲の名前が表示される。


『ごめん、今日仕事が長引いちゃって。先に寝てていいよ』


短いメッセージ。可愛いスタンプの一つもない味気ない文面に、胸の奥が少しだけざわつく。最近、美咲の帰りが遅い。広告デザインの仕事をしている彼女は確かに繁忙期があるが、それにしても急激に増えた残業。俺は『無理しないでね。晩ご飯、冷蔵庫に入れておくから』とだけ返信し、立ち上がってキッチンに向かった。彼女がいつ帰ってきてもいいように、温めるだけで食べられるスープとサラダを用意しておく。


美咲が帰ってきたのは、日付が変わる頃だった。玄関のドアが開く音がして、俺はベッドから起き上がってリビングへ向かった。


「おかえり。遅かったね」

「あ……起きてたの。ごめん、起こしちゃった?」


美咲は少し驚いたような顔をして、慌てて靴を脱いだ。その時、ふわりと見慣れない香りが鼻を掠めた。甘くて、少しスパイシーな、男性用の香水のような香り。俺の使っているものとは違う。満員電車で他人の匂いが移ったのだろうか。それに、彼女の耳元には、見たことのない小ぶりなゴールドのピアスが光っていた。


「そのピアス、新しいの? 似合ってるね」


俺がそう言うと、美咲はビクッと肩を揺らし、無意識に耳元を手で隠すような仕草をした。


「え、あ、うん。今日、仕事の合間にちょっとお店に寄って。安かったから」

「そっか。仕事、大変だった? ご飯温めようか?」

「ううん、大丈夫。途中で適当に食べてきたから。私、先にお風呂入るね」


美咲は俺の目を避けるように早口で言い、そそくさと洗面所へ向かってしまった。残された俺は、リビングで一人立ち尽くしていた。冷たい沈黙が部屋を満たす。

疑いたくはない。愛しているからこそ、彼女の言葉を信じたい。だが、心の中に落ちた一滴の墨汁が、じわじわと静かに広がっていくのを止められなかった。


あの日、あの男の目をしっかり見ておくべきだったのかもしれない。

不意に、大学時代からの親友である翔太の顔が頭に浮かんだ。


翔太は昔から、俺とは正反対の人間だった。目鼻立ちがはっきりとした端正な顔立ちで、話がうまく、常にグループの中心にいるような男。要領が良く、欲しいものはどんな手段を使ってでも手に入れる。テストのノートを貸してやったり、合コンの人数合わせに呼ばれたり、俺はいつも彼の引き立て役のようなポジションだった。それでも、翔太は折に触れて俺を頼り、俺もまた、彼の奔放だがどこか憎めない性格を許容し、親友だと思い込んでいた。


美咲を初めて翔太に紹介したのは、二年前のことだ。三人で食事に行った時、翔太はいつもの人懐っこい笑顔で美咲に話しかけ、あっという間に場を盛り上げた。


「健太みたいな真面目すぎる奴のどこがいいの?」


なんて冗談交じりに笑いながら、美咲のグラスに自然な動作でワインを注ぐ。美咲も楽しそうに笑っていた。その時、一瞬だけ翔太の目が美咲の首元から胸元へと滑り落ちたのを、俺は見て見ぬ振りをした。ただの考えすぎだ、と自分に言い聞かせて。


結婚が決まったことを報告した時も、翔太の反応は妙だった。電話口で「そっか、ついにか。おめでとう」と言ったきり、数秒の沈黙があった。そして、「まあ、お前が優しすぎるから、美咲ちゃんが退屈しないか心配だけどな」と、冗談とも本気ともつかないトーンで付け加えたのだ。

あの時の言葉が、今になって粘り気を持って心にまとわりついてくる。


週末の金曜日。俺は珍しく定時で仕事を終えることができた。

今日は美咲も「早く帰れると思う」と言っていたので、久しぶりに二人でゆっくり夕食でも作ろうと考えていた。駅前のデパ地下で美咲の好きなイチゴのタルトを買い、足取り軽く改札へ向かう。空は美しい黄昏時で、街は週末の解放感に包まれ、人々が笑顔で行き交っていた。


スマホを取り出すと、美咲からMINEに一件のメッセージが入っていた。


『ごめん! 急にクライアントから修正が入っちゃって、今日も残業になりそう。本当にごめんね、ケーキ買ってくれてるかもしれないけど、明日一緒に食べよう!』


立ち止まり、その文面を見つめる。またか。ため息がこぼれた。仕方ない、仕事なのだから。俺は自分を納得させるために、心の中で何度もそう反芻した。


『分かったよ、無理しないでね。気をつけて帰ってきて』


そう返信し、スマホをポケットにしまう。

そのまま帰路につこうとした時、ふと駅前の大きな交差点の向こう側に目をやった。そこには、お洒落なテラス席がある人気のカフェがある。夕暮れのオレンジ色の光が差し込むそのテラス席で、一際目を引くカップルが座っていた。


視力が良い俺の目は、無意識にその二人の姿を捉え――そして、呼吸が止まった。


見間違えるはずがない。少しウェーブのかかった明るい栗色の髪、昨日着ていたのと同じベージュのトレンチコート。先ほど「残業している」とMINEで送ってきたはずの、俺の婚約者、美咲だった。

そして、彼女の向かいに座り、身を乗り出すようにして笑顔で話しかけている男。洗練されたジャケットを着こなし、余裕のある笑みを浮かべるその横顔は、まぎれもなく親友の翔太だった。


周囲の喧騒が、急に遠ざかっていく。まるで水の中に突き落とされたように、耳の奥で自分の心音だけが鼓膜を叩く。ドクン、ドクンという鈍い音が、現実を容赦なく突きつけてくる。


俺は動けなかった。手にしたケーキの箱が、やけに重く感じられる。

二人は何を話しているのだろう。偶然会って、お茶をしているだけかもしれない。そうだ、きっとそうだ。美咲はたまたま外回りに出ていて、翔太と出くわしたんだ。俺は必死に自分に都合の良いストーリーを組み立てようとした。


だが、次の瞬間、その儚い希望は木端微塵に砕け散った。

翔太が手を伸ばし、美咲の頬にかかった髪を優しく耳にかけたのだ。普通の友人同士なら絶対に見せない、甘く、親密な仕草。美咲はそれを避けるどころか、愛おしそうに目を細め、翔太の手に自分の手を重ねた。俺に見せることのなくなった、女としての熱を帯びた、とろけるような笑顔。アウスタで俺とのツーショットを載せていた頃の、あの無邪気な笑顔とは全く違う、艶やかな表情だった。


その笑顔を見た瞬間、俺の中で何かが音を立てて崩れ落ちた。

足元から冷たい泥水が這い上がってくるような感覚。胃の奥がせり上がり、吐き気がこみ上げる。


「あ……」


喉から絞り出すような声が漏れたが、言葉にはならなかった。彼らの元へ歩み寄り、胸ぐらを掴んで問い詰める権利が俺にはあるはずだ。俺は美咲の婚約者で、来年には家族になるのだから。だが、足は一歩も前へ進まなかった。二人の間に流れる完成された空気が、俺という存在を強烈に拒絶していた。あそこに、俺の入り込む隙間なんて一ミリもなかった。


気づけば、俺は背を向けて走り出していた。

人混みを掻き分け、誰かと肩がぶつかっても謝る余裕すらない。ただ、あの光景から一秒でも早く逃げ出したかった。見なかったことにしたかった。俺の優しさが、俺の信じていた世界が、あんなにも無惨に踏みにじられている現実を、受け入れることができなかった。


息を切らしてマンションの階段を駆け上がり、震える手で鍵を開けて部屋に転がり込む。暗闇の中、ドアに背中を預けたまま、ずるずると床にへたり込んだ。

手から滑り落ちたケーキの箱が床にぶつかり、鈍い音を立てた。中身はきっと、見るも無惨に崩れてしまっただろう。まるで、俺たちの関係のように。


震える指でスマホを取り出し、画面を開く。

そこには、三十分前に美咲から送られてきた『急にクライアントから修正が入っちゃって』というMINEのメッセージが、冷たい光を放ったまま残っていた。


嘘だ。全部、嘘だったんだ。

残業も、新しいピアスも、昨日香ったあの香水も。すべては、翔太と会うためのものだったのだ。


「なんで……」


誰もいない部屋に、掠れた声が響く。

俺は彼女のすべてを肯定してきた。彼女が望むことなら何でも叶えようとした。怒ったことも、束縛したこともない。彼女の自由を尊重し、穏やかで平和な家庭を築くことだけを夢見てきた。それが、俺なりの「優しさ」だった。


だが、その優しさは、彼女を俺のもとに留めておく鎖にはならなかった。それどころか、彼女は俺の親友の手を取り、俺を嘲笑うかのように嘘を重ねている。

休日に一緒に選んだダイニングテーブルも、お揃いのマグカップも、今となってはただの虚しい作り物にしか見えない。俺たちが積み上げてきた五年間は、あんな男のたった数ヶ月の甘い言葉にあっさりと敗れ去ってしまったのだろうか。


窓の外はすっかり暗くなり、部屋の中には街灯の青白い光だけが差し込んでいる。冷え切ったフローリングの感触が、そのまま俺の心の中に広がっていくようだった。


どこで間違えたのだろう。

いつから、彼女の心は俺から離れてしまったのだろう。

考えても答えは出ない。ただ、確かなのは、俺が命懸けで守ろうとしていた幸せは、すでに根本から腐り落ちていたという残酷な事実だけだった。


床に落ちたケーキの箱を見つめながら、俺は冷え始めた指先をきつく握りしめ、声にならない嗚咽を漏らした。それは、あまりにも突然で、あまりにも残酷な、終わりの始まりだった。

途方もない絶望が、夜の闇とともに俺を飲み込んでいった。

この時の俺はまだ知らない。この裏切りが、美咲から投げつけられるさらに身勝手な言葉の、ほんの序章に過ぎないということを。

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