婚約破棄された元・億り人は、前世のトレーダースキルで婚約破棄した国ごと空売りいたします
帰れ、と言われた。
レグニカ公国の第二王子ユリウスは、謁見の間で私を見下ろしたまま、たった一言でそう言った。説明もなく、謝罪もなく。不要な調度品を使用人に下げさせるのと同じ口調だった。
「政略結婚とは聞いていたが──まさか第十王女とはな。ヴェルドラは我が国を舐めているのか」
隣に立つ側近たちが含み笑いを漏らす。私は膝に置いた手をじっと見た。白い手袋をした、細い指。前世の自分とは似ても似つかない。
前世──柊瑞希。二十代前半でFXで億を超えた。独自のアルゴリズムで売買BOTを組み、完全自動化を達成してからは、チャートすら開かなくなった。BOTが毎月数百万を稼ぎ、私は何もしなくてよかった。朝起きて、コーヒーを飲んで、動画やアニメを観て、寝る。それが三年続いた。
楽勝すぎた。
人生に勝ちすぎて、やることがなくなった。二十七歳。口座の残高は見飽きた。このまま老けていくのかと思った次の瞬間、気づいたら──この身体にいた。
「失礼いたします、殿下」
私は立ち上がり、丁寧に礼をした。ユリウスが怪訝そうに眉を上げる。泣くと思っていたのだろう。
泣くわけがない。前世で数千万の損切りをした夜に比べれば、婚約破棄など暴落のニュースほどの感情も湧かない。
「お気遣いなく。第十王女の婚約など、そもそも市場価値がございませんので」
ユリウスの顔が一瞬固まった。意味がわからなかったのだろう。構わない。この男にわかってもらう必要はもうない。
翌日、護衛もつけられず、荷物ひとつの馬車でレグニカ公国を出た。
行く先は──ヴェルドラ王国の最果て、辺境ザフト領。いとこのカイル・ザフトが治める、寂れた交易地帯だ。
第十王女を送り出した王宮に、戻る場所などあるはずがなかった。最初からいてもいなくても同じだった私だ。帰ったところで、次の政略結婚の駒にされるだけ。
ならば、自分の足で立つ。
前世でもそうしてきた。ゼロから始めて、自分の力で億を超えた。BOTという道具があったとはいえ、最初の一歩は自分の分析と判断だった。
──と、この時の私はまだ甘く考えていた。
***
辺境ザフト領は、思った以上に活気があった。
ヴェルドラ王国とレグニカ公国の国境に近いこの町は、両国の通貨──クラウンとマルクが入り乱れる交易の要衝だった。
いとこのカイルは、門前で馬車を出迎えた。三十歳の長身、無精髭、眠そうな目。服装も領主とは思えないほど質素だ。
「……リーゼロッテか。話は聞いた」
「ご迷惑をおかけします」
「別に。部屋が余ってる。好きにしろ。つーか、政治的な話は俺に振るなよ。めんどくさい」
この男は本当に政治に興味がない。領地経営も最低限しかしていないらしい。
その夜、カイルの屋敷で夕食を共にした。質素な食卓だった。干し肉のスープと黒パン。領主の食事とは思えないが、辺境ではこれが普通なのだろう。
カイルは無言でスープを啜っていたが、ふと顔を上げた。
「で、これからどうする。ずっとここにいるのは構わんが、暇だろう」
「……何か、働き口はありませんか。いつまでもお世話になるわけにはいきませんし」
カイルはスプーンを止めて、少し気まずそうな顔をした。この男がこういう表情をするのは珍しい。
「すまんが……正直、心当たりがない。王族の女を雇える店なんて辺境にはそうないし、俺にそういう伝手もない。申し訳ないが」
「いえ、謝らないでください。こちらこそ急に押しかけて」
「まあ、明日にでも町を見て回ったらどうだ。商店街なら何かあるかもしれん」
翌朝、カイルの言葉に従って町に出た。
昨夜は暗くてわからなかったが、昼間見る町は予想以上に賑やかだった。市場には小麦や鉄鉱石、皮革や香辛料が並び、商人たちの怒号が飛び交っている。
仕立て屋の前を通り、パン屋を覗き、酒場の女将に声をかけてみた。だが、どこも反応は微妙だった。この手で針仕事ができるとは思えないし、パン屋は人手が足りている。酒場は──論外だろう。
仕方なく通りを歩いていた、その時だった。
「一クラウン、三マルク八十!」
「銀は百グラム四クラウン二十!」
「大麦の秋先物、受け付けてるよ!」
石造りの古い建物の前で、男たちが大声でレートを叫んでいた。黒板に書かれた数字が、次々と書き換えられていく。通貨の売値と買値。商品の先物価格。金と銀の相場──
足が止まった。
これだ。これは──前世で私が億を稼いだのと、まったく同じものだ。
両替商ギルド。通貨の売買。先物取引。コンピュータの画面が黒板に変わっただけで、やっていることは同じ。為替だ。
私は吸い込まれるように、ギルドの中に入った。
中央の大きな黒板に、各通貨と商品のレートが書き出されている。取引は対面。情報伝達は早馬と伝書鳩。
前世のFX市場とは、何もかもが違った。
だがそれでも、私の目には見えた。クラウンとマルクの為替が、ある法則で動いているように見えた。レグニカの軍が動けばマルクが買われ、ヴェルドラの収穫期にはクラウンが上がる。需要と供給、国力と信用。通貨の本質は、どの世界でも同じだ。
「──いける」
そう思った。
手持ちの資金は少ない。カイルにもらった生活費と、レグニカから持ち出した僅かな持参金。合わせて五百クラウン。大きな取引はできないが、小さく張って回転させれば増やせるはずだ。
前世の感覚──チャートパターン、ボラティリティの波、反発のタイミング。身体が覚えているはず。BOTに任せる前は、自分でやっていたのだから。
最初のトレード。レグニカ南部で小競り合いが起きたという噂を聞いた。軍事的緊張はマルク安要因だ。マルクを売ってクラウンを買う。
結果──損失。
小競り合いはただの国境警備の訓練だった。噂は噂でしかなく、裏を取る手段が私にはなかった。前世ならニュースサイトを開けば確認できた情報が、ここでは手に入らない。
「……情報が、足りない」
当然だ。前世のBOTは、リアルタイムの経済指標、ニュースフィード、過去十年分のチャートデータを元に動いていた。それを「感覚」で代替できるわけがない。
二回目のトレード。大麦の先物に張った。秋の収穫が不作になると踏んだが、逆に豊作だった。
三回目。金を買ったが、ヴェルドラとレグニカの和平交渉の噂で急落した。
四回目。銀を売ったが、新しい銀鉱脈の発見報告が誤報で、翌日には元値に戻った。
二週間で、五百クラウンは百二十クラウンになっていた。
「馬鹿か、私は……」
宿の部屋で、私は頭を抱えた。前世では見たこともない連敗。BOTなら絶対にやらないトレード。感覚だけで動いて、データに裏付けのない判断を繰り返して、素人と同じ負け方をしている。
前世の私が今の私を見たら、笑うだろう。いや、怒るだろう。「何のためにBOTを作ったと思ってるの」と。
──そうだ。私はBOTを作った人間だ。つまり、自分自身のトレード能力を信じていなかったのだ。人間の感情が判断を歪めることを知っていたから、機械に任せた。感情を排除し、データだけで動く仕組みを作った。
なのに今、その「感情まみれの人間」として相場に立っている。勝てるわけがない。
問題は明確だった。
データがない。情報収集の仕組みがない。この世界にBOTは作れない。ならば──人間の「BOT」を作るしかない。
だが、そんな協力者がいるはずもなく。
残り百二十クラウンから生活費を引けば、あと数回分の取引ができるかどうか。
私は机の上に並べた──指輪、耳飾り、首飾り。レグニカの王宮にいた頃に与えられた、政略結婚の花嫁道具。安物ではない。王宮仕立ての一級品だ。
これを売ってもう一度。
だが売ったら、もう後がない。文字通り、身ぐるみ剥がされた状態になる。
「……最後のチャレンジ、か」
前世の私なら、こんな無謀な賭けはしない。BOTのアルゴリズムが許可しない取引だ。リスクリワード比が悪すぎる。
──でも、BOTはもうない。
私は翌朝、アクセサリを持って辺境の宝飾商を訪ねた。
***
「ほう──これは見事な細工だ。レグニカ王宮の工房製か」
宝飾商の店主は、ルーペ越しに指輪を覗き込みながら感嘆した。若い男だった。亜麻色の髪を後ろで束ね、商人にしては鋭い目をしている。
「買い取り価格は……全部合わせて八百クラウンといったところだな。ただし、買い叩いているわけじゃない。辺境での相場がそうなんだ。王都なら倍はつく」
「八百で構いません。全て売ります」
男──マルコ・ベルーチは、私の顔をまじまじと見た。
「即決か。よほど金が要るらしいな。──あんた、両替商ギルドで連敗してる人だろう」
「有名ですか」
「辺境は狭い。王族の血を引く女が一人で為替をやってるなんて、格好の噂話だ」
恥を忍んで聞いた。私の何が間違っているのか、この男にはわかるのか。
マルコは指輪を布で包みながら、さらりと言った。
「あんたの読みは悪くない。方向はだいたい合ってる。ただ、タイミングが全部ズレてる。情報が遅すぎるんだ。この辺境で情報の速さで勝とうなんて、馬で鳩に追いつこうとするようなもんだ」
「……わかってます」
「わかってるなら、なぜ続ける?」
「他に手段がないからです」
マルコは少し黙った。それから、帳簿を一冊引き出して私の前に置いた。
「──俺は両替商ギルドに出入りしている。情報を集めるのが仕事みたいなもんだ。各国の収穫予測、鉱山の産出量、軍の動員情報、商隊の移動ルート。全部記録してある」
「……なぜ、それを私に?」
「面白そうだからだ。方向は合ってるのにタイミングだけがズレてる奴なんて、初めて見た。普通は方向も外す。──あんたに足りないのは、情報だけだ。違うか?」
心臓が跳ねた。
そうだ。前世の私が最初にやったこと。BOTを作る前に、何百時間もかけてやったこと。それはチャートを読むことではなく──正確な情報を集めることだった。
「取引の利益の一割をお渡しします。損失が出た場合は、私が全て負担する」
「いい条件だ。乗った」
マルコが差し出した手を、私は握った。
***
そこからの一ヶ月は、前世のBOT制作期を思い出した。
マルコの帳簿を受け取った初日、私は丸一日かけてデータを読み込んだ。過去二年分の穀物価格、通貨レート、金銀の取引量。パターンが見えた。数字の羅列の中に、規則性が浮かび上がる。
この感覚だ。前世で初めてチャートを見た時と同じ。データの海の中に、流れが見える。
最初のトレードは慎重にいった。
マルコの情報で、レグニカ公国が東部国境の砦を増強しているという報告を得た。軍の動きは鉄の需要増に直結する。だが市場はまだ反応していない。情報が辺境に届くまでのタイムラグ──それを利用する。
鉄鉱石の先物を買った。
五日後、辺境の市場にレグニカの軍拡の噂が届き、鉄の価格が跳ね上がった。
利益──二百三十クラウン。
「……当たった」
「当たったんじゃない。読んだんだ。あんた、やっぱり只者じゃないな」
マルコが目を細めた。私は久しぶりに、口元が緩むのを感じた。
だが、これだけでは足りない。
「マルコ。あなたの知り合いで、数字が読めて、指示通りに動ける人間はいる?」
「……なぜ?」
「雇いたいの。最低五人。できれば十人」
マルコは怪訝な顔をした。だが私の目が本気だと見て取ったのか、三日で七人の候補を連れてきた。両替商の見習い、商家の次男坊、ギルドの元帳簿係。数字に強く、指示を正確にこなせる人間たち。
私は彼らを集めて、こう言った。
「これから私が出す指示に、一切の判断を加えず従ってもらいます。買えと言ったら買う。売れと言ったら売る。それだけです」
困惑する彼らに、具体的なルールを紙に書いて渡した。
──小麦が一クラウン十二を割ったら、三十クラウン分を買い。一クラウン十八に達したら全量売り。
──マルクが三クラウン六十を下回ったら、持ち高の半分を決済。
──鉄鉱石が前日比で一割上昇したら、追加買い禁止。利益確定。
ルール表を見たマルコが、目を丸くした。
「……これは、何だ?」
「自動売買の仕組みよ。私の代わりに市場を見張って、決められた条件が来たら決められた行動をする。感情を挟まない。考えない。ルール通りに動くだけ」
「人間にそれをやらせるのか?」
「前世では機械にやらせてた。ここでは人間しかいないから、人間でやるの」
人間BOT──前世のアルゴリズムを、人力で再現する。
私は市場ごとに担当を割り振った。通貨ペアに二人。穀物先物に二人。貴金属に一人。軍需物資に一人。そしてマルコが全員の情報を束ねる元締め。彼らは毎朝、両替商ギルドが開く前に私のもとに集まり、その日のルール表を受け取る。
ルール表は、私が前夜にマルコの情報を元に作成する。各市場の動向、政治の流れ、季節の変化──全てを織り込んだ条件分岐。前世ではプログラムで書いていたロジックを、この世界では紙と文字で書いた。
最初は彼らも戸惑った。「なぜこの値で買うのか」と聞く者もいた。
「理由は聞かなくていい。数字だけ見て」
感情を排除すること。これがBOTの本質だ。なぜ上がるかを理解する必要はない。条件が満たされたかどうか、それだけを見る。
一週間目。穀物担当の二人が、ルール通りに小麦先物を買い、ルール通りに売った。利益──四百十クラウン。
二週目。通貨担当が、マルクの急落を捉えて自動的にクラウンを買い増した。ルール表の記載どおりに。利益──六百七十クラウン。
三週目には、七人全員がルールに慣れ、私がギルドにいなくても取引が回り始めた。
前世と同じだ。BOTを組んで、バックテストして、実弾投入して、放置。寝ている間も利益が積み上がる仕組み。違うのは、サーバーの代わりに人間が動いていること。
一ヶ月後、私の資産は五千クラウンを超えていた。
利益が出れば、人を増やせる。人が増えれば、もっと多くの市場を同時に監視できる。
二ヶ月目。担当者を十五人まで増員。穀物・通貨だけでなく、銀の現物取引、皮革の季節変動、さらには隣国の商隊の運行情報まで監視範囲を広げた。
三ヶ月後、私の資産は十万クラウンを超えていた。
半年後、五十万クラウン。人間BOTは三十人体制になっていた。
一年後──二百万クラウン。辺境ザフト領の年間税収の十倍だ。
マルコがある日、不思議そうに言った。
「最近、あんた自身はほとんど取引してないよな」
「ええ。仕組みが回ってるから」
「……前の世界でもこうだったのか?」
「まったく同じよ。自分で稼ぐんじゃなくて、稼ぐ仕組みを作る。それがトレーダーの最終形態」
マルコは少し黙ってから、笑った。
「あんた、恐ろしい女だな」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
「リーゼロッテ」
カイルが珍しく私の部屋を訪ねてきたのは、資産が百万クラウンを超えた頃だった。
「お前、何をやっている。見知らぬ人間がうちの領地をうろうろしてるんだが」
「従業員です」
「従業……なんだそれは」
「投資を体系化しただけです。すみません、もう少しだけ続けます」
「……好きにしろとは言ったが、まさかここまでやるとは思わなかった」
カイルは呆れた顔で帰っていった。政治に興味のないこの男は、私が何をしようとしているか聞かなかった。聞いたところで止められないと、わかっていたのかもしれない。
そして、仕上げに入る。
通貨マルクの空売りだ。
レグニカ公国は軍拡を続けている。だが、その財源は貿易黒字に依存していた。穀物輸出が主力のレグニカにとって、小麦価格の暴落は致命的だ。
私は人間BOTたちに新しいルール表を配った。今までの「稼ぐ」ためのルールではない。「壊す」ためのルールだ。
マルクが一定値を超えたら売り浴びせる。小麦の買い占めと同時にレグニカ向けの輸出を止める。金の流れを操作して、レグニカへの信用貸しを絞らせる。
三十人のBOTが、一斉に動いた。
一人一人は市場の歯車でしかない。だがルール表を通じて、三十人が一つのアルゴリズムとして機能する。前世のBOTは秒単位で数百回の売買をこなした。この人間BOTは一日数回だが、この世界ではそれで十分だった。
マルコが低い声で言った。
「……あんた、通貨攻撃をやるのか。一国の経済を個人で揺さぶるつもりか」
「個人じゃないわ。私のBOTが三十人いる」
「前世では、中央銀行に逆らうなって格言があったの。でもこの世界には中央銀行がない。歯止めがない。──だから、やれる」
レグニカ公国の経済は、半年で深刻な打撃を受けた。
***
私が資金の使い道を傭兵の雇用に変えたのは、通貨攻撃が成功した直後だった。
軍隊を金で買う。前世では考えもしなかったことだが、この世界では金さえあれば剣も槍も、それを振るう人間も、全て市場で調達できる。
辺境の傭兵ギルド、隣国の退役兵、流れの騎士団。金払いがいいと知れ渡れば、人は集まる。武器は鉄鉱石の取引ルートからそのまま調達した。弓も攻城兵器も、全て先物で押さえていた鉄から作らせた。
レグニカ公国の常備軍は三万。
私が半年で編成した軍勢は──十万。
三倍以上だ。
「……お前、好きにしろとは言ったが」
カイルがまたやって来た。今度は少し顔が引きつっていた。当然だ。彼の領地に十万近い軍勢が駐留しているのだから。
「すみません、カイル。もう少しだけ場所を借ります」
「もう少しって……これ以上何をするつもりだ」
「返品です」
「……返品?」
「はい。婚約破棄のお返しを、きちんとしないと失礼でしょう?」
カイルは額に手を当て、深いため息をついた。
***
レグニカ公国の国境に、十万の軍勢が展開した。
冬の朝もやの中、馬上の私は国境の石碑を見下ろしていた。隣にはマルコが馬を並べている。
「報告。レグニカ側は国境守備隊が五千ほど。だが半数は持ち場を離れてる。給金未払いの影響だな」
「予想通りね」
「それと──第二王子ユリウスが、自ら国境に向かっているとの情報だ」
思わず、口元が緩んだ。
「来るのね」
「来るしかないだろう。使者を送って断られたら体面が保てない。自分で来るしかない状況に追い込まれてる」
マルコの分析は正確だった。一時間後、国境の向こうに白旗を掲げた一団が現れた。
その先頭に、見覚えのある顔があった。三年前、謁見の間で私を見下ろして「帰れ」と言った男。金の髪に整った顔立ち。だが、あの時の傲慢な表情はどこにもなかった。頬はこけ、目の下に隈がある。眠れていないのだろう。
「リーゼロッテ姫殿下──!」
ユリウスの声が風に乗って届いた。姫殿下、と呼ばれたのは初めてだった。あの日の謁見の間では、名前すら呼ばれなかった。
私は馬を進め、国境の石碑を挟んでユリウスと向き合った。彼は馬上、私も馬上。だが三年前とは全てが違う。あの時は彼が見下ろし、私が見上げていた。今は──十万の軍勢を背にした私と、崩壊しかけた国を背にした彼だ。
「お久しぶりです、殿下」
「……この軍を退いてくれ。条件は何でも──」
「条件の前に、一つご提案があるの」
私はマルコに目配せした。マルコが馬を寄せ、革の書類入れからひとつの契約書を取り出す。
「小麦を売って差し上げます。十万袋。レグニカの民が冬を越すには十分な量よ」
ユリウスの目が見開かれた。希望の光が一瞬だけ宿る。レグニカは穀物不足で民が飢え始めている。十万袋の小麦があれば、国は持ちこたえる。
「──本当か」
「ええ。ただし代金は先払い。一袋あたり六十マルク。合計六百万マルク」
ユリウスの表情が凍りついた。
六百万マルク。通貨攻撃でマルクが暴落する前なら、レグニカの国庫で払える金額だった。だが今のマルクの価値では──
「クラウン換算だと、五十万クラウンといったところかしら。あら、今のレグニカの国庫残高とちょうど同じくらいね」
「……なぜ、国庫の残高を知っている」
「投資家ですから」
ユリウスの顔から完全に血の気が引いた。国庫残高を握られている。それは、レグニカの経済が既に私の手の中にあるということだ。
「全額を穀物に出せば、兵の給金も、城壁の補修も、全てが止まる。通貨の信用はさらに落ちる。マルクはもっと下がるわ。そうなれば、来年の冬はもう小麦を買うお金すら残っていない」
「…………」
「もちろん、お支払いいただけないなら、小麦は売れません。その場合──」
私は背後の十万の軍勢に視線を流した。
「この子たちの食料は十分にありますけど、そちらの兵士さんたちは、お腹が空いたまま戦えるかしら」
沈黙が落ちた。
ユリウスの手が、手綱の上で震えていた。答えはわかっているはずだ。食料がない軍は戦えない。マルクは紙切れ同然。傭兵は給金が出なければ散る。前世の言葉で言えば──レグニカは、とっくにロスカットされている。
「殿下」
私は声のトーンを落とした。
「私が本当に欲しいのは、あなたの国じゃない。戦争もしたくない。民を巻き添えにするつもりもない」
「……では、何が望みだ」
「降伏してください。正式に。──民に、これ以上迷惑をかけないで」
ユリウスが唇を噛んだ。彼の後ろに控える騎士たちの顔にも、屈辱と安堵が入り混じっている。
「降伏したら……民に、小麦は」
「もちろん。適正価格でお売りします。戦時価格ではなく、平時の価格で。そのほうが長期的な取引関係にも良いですし」
マルコが隣で小さく呟いた。
「……あんた、戦争じゃなくて商談してるぞ」
「当たり前よ。私はトレーダーだもの」
ユリウスは長い間、黙っていた。
やがて、ゆっくりと──馬を降りた。剣帯を外し、石碑の上に置いた。降伏の作法だ。
「……レグニカ公国第二王子ユリウス・フォン・レグニカは、ヴェルドラ王家リーゼロッテ姫殿下に、降伏を申し入れる」
その声は掠れていた。
風が吹いた。辺境の冷たい風が、私の髪を攫い、石碑の上の剣を霜で白く染めた。
三年前、この男は私に「帰れ」と言った。不要な調度品を下げさせるように。
私は小さく息を吐いた。
「……トレードしてたら、国が買えちゃったわね」
マルコが呆れたように笑った。
(了)




