終わりなき夏
「危ない、早く手を取りなさい」
水色のランドセルを背負った一人の少女。
小花柄の白いワンピースを身に纏い、綺麗な瞳を持つ彼女に私は助けられた。
この少女の名前は青羽由依。
屋上から落ちるところだった私を間一髪で手を掴んでくれた、命の恩人。
花瓶を割ったのが理由で先生から逃げていたらしい。
結局は先生にお互い助けられ、こっぴどく叱られた。
似ても似つかない少女と私の青春が始まろうとしている――。
「一葉、おはよう」
「おはよう、由依ちゃん」
小学四年生の夏。
蝉の鳴きしきる朝。今日もまた一日が始まろうとしている。
屋上から飛び降りようとしていた私は今日も生きている。
もうあんな真似はしない、と自分で思ったわけではなくて由依ちゃんに言わされた。それがこの子のいいところ。
「なにボサーってこっち見てんのよ。同じクラスなのに気付きもしなかった節穴」
「ごめんって、でも由依ちゃんだって」
両手を合わせながら謝るのもいつものことになった。
家がお金持ちなのだと噂される由依ちゃんはクラスでも孤高の存在であり、誰からも憧れられている。
そんな子なのに花瓶を割って怒られるんだな、と不意に思った。
「私が助けてあげたんだから感謝しなさいよね。分かってるの?」
「分かってるよ。ありがとう、私の騎士様」
馬鹿なこと言ってんじゃないわよ、としばかれた。
額を抑えて笑う。
ああ、本当に私のお姫様はかっこいい騎士様だ。
あの日から由依ちゃんと一緒に過ごすことが増えた。いや、ほぼずっと一緒だ。休み時間はもちろん帰りも。
そんな急展開にクラスの子たちは私をゴミを見るような視線を浴びせてくる。その度にお姫様が一喝を入れてくれる。
一喝した後に向けられる笑顔こそ、正真正銘の騎士様だ。
「そろそろ席に着いてねー、朝の会始めるよ」
真ん中の一番前の席、いわゆるアリーナ席の私と、窓際の一番後ろの席の由依ちゃんとではかなり距離がある。
だから今まで意識してこなかったとも言える。そんなところまで意識が向いていなかっただけかもしれないけど。
ともかく、知り合ってしまってから寂しいというか気になって仕方ない。仕草から板書からなにからなにまで。集中どころじゃない。
「青羽由依さん」
「はい元気です」
由依ちゃんの出席番号は早い。青羽のあ、だから一番だ。
そんな責任のある名前順じゃなくてよかった、といつも思う。私だったらもう学校に行けない。怖すぎて。
「神楽一葉さん」
「はい、元気です……」
名前を呼ばれる度に心臓が跳ね上がる。鳩時計の、十二時になった瞬間飛び出してくるような鳥さんのように。
別に元気じゃないし元気なときなんてないけど。嘘をついて嘘が真実かのようにみせている。
一分間スピーチなんて要らないよなと毎朝思うしもう既に帰りたい。一日が長過ぎる。
嫌いな教科しかないし何なら全部苦手だし。
由依ちゃんは誰もが認める努力家だからぐうの音も出ない。
ただお金持ち、なんじゃない。人一倍がんばって今のあの子がある。私を助けてくれたあの日の君が。
五分間の短い休み時間さえこの子は私の元までやってくる。何の用もなくても。
「もう算数やだ。わかんない」
「流石命を投げ出すだけのバカだけあってバカね。学校終わったら一緒にどう?宿題でも」
言い回しにはいつも怒りが湧いてくる。でもそれが由依ちゃんだしそこがアイデンティティだし。
それにいつも分からないところがあれば教えてくれる。正直言って先生よりも教え方が上手だし分かりやすい。こんな私でも分かるように説明してくれる。
「いつもありがと」
「お礼を言うのはこっちのほうよ。消しゴム貸してくれてありがとう。また怒られるところだったわ」
決して完璧なんかじゃないのが救いでもある。お礼を言うのは絶対に私のほうなのに。
一日もやっと終わり、下校の時間だ。
学校なんて爆発して消えてくれたらいいのに。そしたら行かないでよくなるのに。
何度思っても毎日は変わらずに続くし学校もいつも通りに存在する。嫌な話だ。
「ほら帰りましょう。一度家に帰ってからまた集合ね」
「うん」
お金持ちなだけあって由依ちゃんはいつもアホみたいに長い車で登校して下校していく。
帰るときはたまに私も乗せてもらうこともある。遠慮してもまるで誘拐かのように由依ちゃんに乗せられたりする。
「ほんとに長いね、車」
「リムジンって言うのよ。普通に邪魔だと思うんだけど」
軽自動車とかのほうがいいのに、と肩をすぼめるお嬢様。
子どもなのに考えることが大人だ。私からすればこんなに黒光りしている車のほうがかっこよく見えるというのに。
「由依お嬢様、またこの人を乗せて行くんですか」
「なに嫌なの?私の親友をこの人なんて呼ぶのやめてもらえるかしら。クビにされたいならいいけど」
ひと睨みされる由依ちゃんの使用人、佐伯琥珀。
どうも私のことが気に食わないらしい。
理由は知らないけど、考えるまでもない。やっぱり私なんて居なければみんな幸せだったんだ。
「佐伯のせいで一葉が死んだらどうするの。責任なんて言葉で片付かないんだから。変なことしたら本当に首切るからね」
すっかり大人しくなった使用人は車のドアを開け、私も乗せてくれた。
由依ちゃんはやっぱりすごい。怖い大人にも屈しないなんて、私には無理だ。
実際無理だったからあんな真似をしたんだ。
「習い事とか大丈夫なの?忙しいからって、みんな言ってるけど」
「あれは遊びたくないから、ただの口実よ。実際そんなにしてないの」
プールにピアノはもちろん、フルートも習っていたらしい。花瓶を割りまくっているみたいにやめまくっているんだと笑って教えられた。
「今は家庭教師くらいね。音楽が好きなわけでもないし泳ぐとかありえないし」
音楽に興味を持てなければ泳ぐなんてもってのほか、沈むだけじゃないかと文句を永遠に聞かされる。
小学校の校区内で車ともなれば足早に私の家に着き、ランドセルを置いてすぐに由依ちゃんの家に着いた。
門が勝手に開き、バカでかい家が視界に収まらない。
いつ見てもでかい。
「私の家に来るのも何回目になるのかな。宿題もいいけれど」
耳元に吐息がかかる。それだけで背中が震え上がってしまった。
「もっと楽しいこと、しましょ」
笑みを見せられ、左手首を強引に掴まれる。
玄関の扉を使用人が開き、いつ見てもバカ広い玄関が現れる。
靴を脱ぎ、靴を揃え。スリッパに履き替える。
いつも家じゃスリッパなんて履かないからなかなか慣れない。気を抜いたらすっ転びそうで怖い。
「佐伯、お菓子とジュース持ってきてね」
「承知しました」
ほら、行こと言われて長い階段を登る。
一階から二階に上がるだけで息が上がりそうなくらいに長い階段。
これを往復していたら陸上選手にでもなれそうだ。
そんなことを考えていたら履きなれていないスリッパに足を取られ、足首を捻ってしまった。
あ、これは長い階段を真っ逆さま――。
「だから危ないって言ってるでしょう。落ちるの趣味なの?」
間一髪で手を取ってくれた由依ちゃん。罵倒するまでがセット。
危うく転げ落ちるところだった。やっぱり由依ちゃんはかっこいい。
もうちょっと口の悪さがマシになればな。
佐伯さんに湿布も持ってきてもらって、事なきを得た。
お嬢様に怪我をさせるつもりか、と目が言っていた。
本当にそうだ。一歩間違えれば大切な友達さえ怪我を、それ以上のものを負わせてしまうところだった。
「ごめんね由依ちゃん。あなたまで怪我をさせるところだった」
「これでも武道は色々やってるのよ。お父様がやらせてくるだけなんだけど。だから大丈夫」
手際よく湿布を貼ってもらい、佐伯さんの許しもなんとか得た。
あの人は怖い。なにがとは言わないが、存在が怖い。
なんでこんなに湿布を貼るのに慣れているのか訊いてみると、お父様が武道を教えてくれた後腰を痛めるから、と答えられた。
まだ由依ちゃんのご両親に会ったことはない。いつか会えるのかな。
会えたらちゃんとありがとうって言わないと。
花瓶を割るのはともかく。いい子なんだと言ってあげなきゃ。
「お父さんとお母さんっていつ帰って来るの?」
「そうね。その話は宿題をしてからにしましょう」
どことなく気まずい空気が流れる。
まずいことを言ってしまったか、自分。どうしよう。怒ってるかな。友達やめられたらどうしよう。
計算ドリルも頭に入ってこない。最初から分かってないから入ってくるはずもない。
「手止まってるけど。六問目ならこれをこうやって解けばできるわ」
「あ、ありがとう」
分かりやすいようにドリルに直接やり方を書いてくれる由依ちゃん。
七十五個のりんごを八個の箱に分けて入れる。一箱には何個入るか。なんて分からないのにどんどん解いていく姿を見続けていると自信がなくなってくる。
普通はこの問題も解けるんだ。普通なら考えたらすぐ分かるんだ。
「文章題って難しいし気に病むことないのよ。私だって苦手だし」
慰められながら宿題を進める。
やっとの思いで計算ドリルを突破し、丸付けをして百字帳に映る。
無心で漢字を写していけばいいのは楽なのかよく分からないけど算数よりはいい。面倒くさいけど。
「やっと終わったあ」
「頑張ったじゃない。やればできる子ね」
同い年なのに子ども扱いされる。
でも悪い気はしない、うれしい。でも。
「由依ちゃんも頑張ったでしょ。だって教えながらやってさ」
「そうね。じゃあ褒めなさい」
恐る恐る頭を撫でてみると溶けるように懐いてくれた。
初めてと言ってもいい友達はどこまでも強くて、そしてねこのように甘えてくれる。
いつまでも友達で居てくれることもないだろうけど、それでも今という瞬間の思い出があれば人生の財産だ。
宿題を終わらせたご褒美にとオレンジジュースと高そうなクッキーを頬張る。
クッキーがお皿に載っていること自体が物珍しい。
いつも飲むジュースよりも美味しいしクッキーはほろほろだ。レベルが違う。
「なんであの日フェンスの向こうなんかに立ってたの?」
唐突の質問に空気が凍る。
心臓が飛び跳ねる。脈はどんどん早くなって持久走の後のような疲れさえ出てくる。
何度も濁してきた質問。
何かと理由をつけて会話を遮断してきたのに。
「なんでそんなの聞きたいの」
「そりゃあ私があなたを助けたからよ」
再び無言が続く。
由依ちゃんの部屋は広い。
天井を仰げば小さめのシャンデリアが煌々と輝いている。
カーテンも分厚くて高そうだし、ベッドは水色のフリルのついたまるでケーキみたいな、大きくて今にも飛び込んでしまいたくなるものだし。
今使っている机も脚が曲がっているし。猫脚とかいうやつだったっけ。
言い訳を考えたり他のことで気を紛らわしているとまた言葉が飛んでくる。
「分かってる?私があなたを助けたの。聞く権利は私が一番あるわ。同い年だしこうやってなかよくしてる。言ったっていいじゃない」
「え、ちょっ、待っ」
机を踏み越えて私の方へとなだれ込む少女。なぜか押し倒されているこの状況。なにが起きているのかよく分からない。
なんでこの子はこんなに知りたがるんだろう。私を救ってくれたこの少女は。
「ピアノ、やめたって言ってたよね」
「それがどうしたって言うの」
不思議な顔をしながら首をこてんと傾ける由依ちゃん。
押し倒されたままだからよく見える。長い睫毛に透き通るような肌。細くてやわらかい髪。
言わなければ一生このままかもしれない。あの誰だっけ、えっと、佐伯さんに見つかったら私がしばかれる。
「私、あなたのこと知ってた。ずっと前から」
綺麗な瞳が驚きにゆれる。見開いたその目に吸い込まれてしまいそうなほどに綺麗な。
「私もピアノをしてるの。発表会であなたの演奏を聴いて……。分かる?私、あなたのピアノが好きだったの。誰が弾くのよりも」
そうだ。由依ちゃんのことはずっと知っていた。
あの発表会で演奏に聴き惚れて、どこかで見覚えがあると思えば同じ学校、それに同い年の青羽由依だということに気付いた。
何度か同じ発表会に出た。そして彼女が賞をかっさらっていった。
あるときからぱったりと彼女の名前を聞かなくなった。
ピアノをやめたことを知ったのは教室でだった。
クラスの子たちと話していた彼女が、笑いながら言っていた。「音楽なんて分からないわ」と。
「分からないって、なに?楽しくなかったの?あれほど心に残る演奏をしておきながら。楽しんでないと、好きじゃないとあんな綺麗な旋律は奏でられない」
押し倒されたまま、言葉をこぼす。
まとまることもない思い。国語の点数が低いのもこういうことだ。
「死のうとした理由ってそれなの?」
曇っていく表情に今にも溢れ出しそうな涙をこらえる瞳。
美少女というのはどこまでも美しいらしい。
「死のうとしたのは。見ての通り勉強もこんなんだし。ピアノもピアノで、うまくできない。周りはみんなできてるのに。みんな普通にやってるのに。そう思ってたら、いい方法があるじゃんって」
いい方法があると思った。死ねば解決するんだ、と思うとワクワクが止まらなかった。
幸せになれると思った。楽になれると本気で思えた。死というものが希望に変わった。今まではどこか怖いものだったのに。
たまたま開いていた屋上の鍵。
あまりにも空が近くて、今にも飛んでしまえそうだった。
フェンスを意地でよじ登ってしばらく風に当たっていた。そのときだった。
――やめなよ。そう声をかけられた。
恐る恐る振り返ってみると小花柄の白いワンピースを着た女の子が立っていた。ずっと憧れていた青羽由依が。
水色のランドセルをおろしてゆっくりと近付いてきた。長い髪を束ねていたゴムを外して風になびかせながら。
話すのも苦手で勉強も運動も苦手なモブとなんでもできてしまうようなお嬢様とだなんて、天と地の差よりも酷い差がある。
だから私は気付いていながらもこっそり見ていた。ピアノをやめてしまったこの子のことを。
フェンスの後ろから聞こえてきた声には聞き覚えしかなかった。
その声を聞いた途端、たじろいで危うく落ちるところだった。
脳裏で再生されるあの日の旋律。目の前にはその旋律を持つ少女。
「死のうとしたのに、またあなたのピアノを聞きたくなって。死ぬの、やめようって思った。だからあなたのせいじゃないの、ごめんなさい」
堪えきれなくなった涙を寝転んだまま流す。目尻に流れるもの、頬を伝っていくもの。
思えば表現の仕方なんて人それぞれだ。この止まらない涙のように。
「分かった、分かったから。泣かないでよ一葉。一緒に連弾でもしましょう」
頬にこぼれ落ちたひとつの雫。由依ちゃんの宝石のような涙。
今までで一番軽やかに返事をした。「うん!」
由依ちゃんに連れられてグランドピアノがある大きな部屋にやってきた。
家の中でこんな、こんなすごい空間があるなんて。語彙力は白鳥になって飛んでいってしまった。
「すごいね、こんなでっかい部屋があるなんて」
「防音だから夜でも弾けるのよ。メンテナンスはしてくれてるのね、誰かさんのおかげで」
誰かさん?あの使用人、佐伯さんだろうか。
「あらあら、由依。誰かさんって酷いんじゃないのかしら。お母さんに向かって、誰かさんって」
冷たい声が心臓をそのままギュッと握りつぶすような恐ろしさを感じる。
お母さん、というとこの声の人が由依ちゃんの……?
「そんな顔しないの。お友達も引いてるわよ」
「うっさい。今から連弾すんの、邪魔すんな」
色々と状況が飲み込めない。
この細くて、それでも強さも兼ね備えた美しさを持つ人が由依ちゃんのお母さんで。
なんかすごく口が悪くなっているのはなんで?私が知っている目つきでも言葉遣いでもない。
お母さん相手だからなのかな。私も機嫌が悪いとそうなるタチだけど、いや一緒にしちゃ悪いな。
「いつも由依と仲良くしてくれてありがとう。最近この子、あなたの話ばかりするのよ」
「だからうるさい。邪魔しないで」
子どもみたいにぎゃーすか叫ぶ由依ちゃん。いつも大人っぽい返しをするから忘れかけてしまうけど私の騎士様だって、お姫様だってまだ私と同じ子どもなんだ。
私の話をしてくれているというのも意外ではある。うれしいけどなにを話してくれているんだろう。
流石に屋上の件は話していないよね。もし話していたら殴られたって不思議じゃない。
かわいい自分の子どもが、他の馬鹿な人間のせいで死にかけたなんて許せるはずがない。
話していてもいなくても。今はとりあえずこの状況が微笑ましい。
「おい一葉、笑うな。だから嫌なんだよ」
ふてくされる姿も初めて見た。
普段あまり表情を変えない子だから、色々と新鮮で。愛しくて、愛らしい。
怖い人なのかと身構えていたが、お母様もそんなに鬼みたいに怖いとかではなさそうで安心した。
ツノでも生えていたらどうしようかと思った。
あと由依ちゃんを傷つけるような人なら嫌だった。
反抗的な態度を取っているのも、甘えているんだろう。やっぱりかわいいんだな、この子は。
「由依がピアノを弾きに来るなんていつ振りかしら」
私が最後に彼女のピアノを聞いたのも随分と前の話。子どもの記憶からすればそれがいつのことだったかもよく思い出せない。
「一葉は教室のオルガンとか聞いたことあるでしょ。雨の日とか弾かせられるから」
「教室のとこのグランドピアノじゃ話が違うよ。弾こう、由依ちゃん。私と一緒に」
今までの彼女の姿は擬態だったのか。敬わないと殺してきそうなお嬢様はどこにでもいる小学生に変わった。もう一度擬態しようともしない。
本当の姿を一瞬でも垣間見ることができた私ってレアな人間なのではないのか。
なんて思案しているうちに椅子に腰を掛け、鍵盤に向き合っていた。
よく考えなくても連弾なんてしたことがない。なにを弾くのかも、どうすればいいのかも分からない。
「白鳥の湖。弾けるでしょう?」
「……間違えたらごめん」
楽譜を前に、鍵盤を見つめ。
悲恋の話だと聞く曲。
揺らぐ思いは一体なんだろう。なんで胸が波を打つように苦しくさえあるんだろう。
叶わないもの。
あの日もし、恋をしてしまっていたなら。
初めて抱き、初めてそれを認識した。なにか、こう。表現するのも難しい。
由依ちゃんのカウントダウンを挟み、初めての連弾。
呼吸をも合わせて――。
数分ともに弾き続けた。
そばで由依ちゃんのお母さん、いつの間にか現れた使用人の佐伯さんが静かに聴いてくれた。
私はというと、久しぶりに聞く青羽由依の音色に興奮を覚えながら必死に弾いた。本当は彼女のソロを聴いていたかったくらいだ。
「はあっ、おわった」
「おつかれ、一葉。たのしかったー」
椅子に座ったまま顔を合わせ、笑い合う。
今までで一番ピアノを弾いていて楽しいと思った。幸せだと思えた。
こんなにも幸せなものがあるだなんて。
遅れて拍手が響く。
「由依のピアノ、前より伸びがよかったわ。心に響き渡っていくような。一葉ちゃんのおかげね」
由依ちゃんを褒めるのは当然だが、私までそんな素敵な言葉をもらえるとは。
これも生きているからなんだ、この子に助けられたからなんだ。
影を薄くしていた佐伯さんも口を開く。
「お嬢様はもちろんずっと上手にお弾きになられていましたが。由実様がおっしゃるように、とても感動しました」
今まで向けられていた冷たい視線というか刺さるようなものとは一転して、優しい視線を向けてくれた。
緊張しすぎていたせいで一気に体の力だゆるむ。
ため息混じりの息を吐くと、私の一番のお友達は席から立った。
連弾は楽しかった。でも、この子がまた弾いてくれるとは限らない。
この思い出で終わりにしてしまうかもしれない。
そう思いながら眺める広い部屋。
どこか張り詰めたものが空気に漂い始めたとき、由依ちゃんの表情は変わった。
「ママ。私、もう一回ピアノやりたい。一葉と一緒にやりたい」
聞こえてくる言葉に耳を疑った。
私の耳がおかしいのか。それとも頭がおかしいのか。
真剣な眼差しに嘘も陰りもない。本心に見えた。
「反対するとでも思う?由依。あなたがそう決めたならそうしなさい。一葉ちゃんにも伝えるのよ」
緊張でこわばっていた頬を緩ませ、無邪気な笑顔をもって私の方へと戻ってきた。
また彼女のピアノを聴けるならそれに越したことはない。とてもうれしい。私の命を繋ぎ止めてくれたのはこの子でありこの子のピアノだ。
「一葉、一緒にピアノやろう。一緒に住もう。」
「え?」
前者はイエスと言える。言わないと本当にピアノをやめられてしまう。
後者は一体なんだ。一緒に住むってなに。家族じゃないし友達だし。大人になったら好きな人と住む、というのは小説の中で読んだことがあるけど。
「連弾、楽しかった。連弾って心を通わせる行為なのよ。ねえ、どうかしら」
言葉が詰まる。
思考も止まる。なにを言っているんだ、一体。私になにを求めている。
花瓶を割って先生に追いかけられていた少女と死のうとしていた私が、一体何の関係になれると。
「飛躍しすぎよ、由依。好きなのは分かったから。ね」
「だって一葉と一緒にいたいもん。いたいの!」
なだめる由依ちゃんのお母さんとしがみついてなにかを叫ぶ少女。
それを呆然と眺める佐伯さんと私。
ついていけていない人が二人も居るのに見向きもしてくれない。
「あ、あの。由依ちゃんが言ってることって」
「私にも分かりません。お嬢様が言っていることも全く」
勇気を出して話しかけてみたけど思った通りの答えが返ってきた。
どうすればこの状況から抜け出せるだろう。もうそろそろ帰りたいし。
「ね、ねえ由依ちゃん。私もう帰らないと」
「だから嫌なの、だから一緒に住もうって」
騎士様なのかお姫様なのか。……小悪魔?
友達の域ではないような気がする。
私が友達とか今まで居なかったことも相まってよく分からないけど、なにか。
好きになったのは由依ちゃんのピアノで。
だからって彼女が嫌いなわけじゃない。好きだ、とても。優しくて、勉強も教えてくれて。グループを作るときも輪に入れてくれる。
とてもいい子だけど。でも。
「何回も言わせないで」
悪役のお嬢様みたいな声で呟いた少女。
気付けば唇に由依ちゃんの口が重なっていた。
……なんで?なんでこうなってる、これってあれだよね?もっと大きくなったらするようなものじゃ。
海外ではこれが挨拶だとも言うよね、そういうことなのかな、そういうことだよね。
そういえば前にも口を重ねられたっけ。きっとそういうことだ、友人としての挨拶なんだ。
唇になにかが当たる。口を少し開けた途端にするりと入り込んできたのは由依ちゃんの舌。
理由のわからない状況に頭をぐるぐるさせていると息の仕方もわからなくなってきた。頭が熱い。
やっと離されたと思えば静かな空気が身を包んだ。
そういえば由依ちゃんのお母さんも佐伯さんもこの場に居たんだった。
あまりにも濃すぎる時間でなにがなんだか、それに初めてだったのに。女の子と、まさか。
「由依、あなたの悪いところ結構出てたわ。駄目よ、ほんと。全く誰に似たのかしら」
「ああ……お嬢様が……」
軽く叱ってみせる人となぜか顔を覆って落ち込んでいる人。
当の本人はと言えば一緒に住んでくれるよねと言わんばかりの視線を浴びせてくる。
どうやってこの状況から逃れよう。早く帰りたいのに帰れない。
「門限あるので私、失礼します」
「やだ、泊まっていって」
明日も学校だし、いくらなんでも親しい友人の頼みと言ったって無理なものは無理だ。
本当にどうしちゃったんだ。
宿題してたときはこんなのじゃなかったはずなのに。
宿題をしていたときの由依ちゃんをお姉さんと仮定するなら、今の由依ちゃんはわがままな妹だ。
だいぶ違うんだけど。同一人物?多重人格?何なんだ一体。
「急には泊まれないわよ、由依。うちはいいけど一葉ちゃんにも家庭っていうものがあるんだから」
「じゃあ結婚しよ?そしたら一緒の家庭だよ」
どんどん飛躍していく話。
もうとっくの昔に私と佐伯さんは置いていかれている。
「あ、あの。お嬢様。神楽さんはお疲れなのです。私が責任を持って家にお送りいたしますから、何卒」
なんか鋭い視線を浴びせてきた人に擁護されてる。
守ってくれるとは思ってもみなかったよ。
由依ちゃんの視線を浴びながら、佐伯さんと青羽家を出た。
夏の日の長さを感じるほど、外はまだ明るい。
まだ遊んでいる子もちらほらと居る。
「申し訳ないです、神楽さん。お嬢様は暴走しがちで」
バカでかい車の扉を開け、エスコートされる。
従うままに乗り込み、大丈夫だと恐る恐る答える。
この人のことはちゃんと知らないし、怖い人だとしか思ったことがない。
でも実際は由依ちゃんを正しい道に導いてくれる人なんだろう。
「連弾は本当に素晴らしかったんです。あんなに楽しそうで、そして真剣なお嬢様は見たことがありませんでした」
「由依ちゃんは前からすごい子です。私を繋ぎ止めてくれたくらいで」
そうですね、と一つ間を入れられる。
ただの執事というわけでもなく、こき使われているということでもないような人。
由依ちゃんのことが大好きなことも分かる。愛しているんだろう。
「いつも上流階級みたいな威厳を振りまいていらっしゃいますが。実際家ではああいう感じで、まだまだ子どもなんです。しばらく経てば羞恥心で悶えていることでしょう」
そんな軽く羞恥心で済ませていいのか。
見たことのない姿を見られた今日はよかったのか悪いのか分からない。
明日どんな顔をして学校に行けばいいんだろう。
一瞬にして家に着き、降ろしてもらった。
「ありがとうございました、佐伯さん」
「こちらこそです。おやすみなさい」
颯爽と戻っていく姿を見送り、家に帰った。
明日は心配だけど、しっかりしなくちゃ。
だってあの子は、私のとびっきりの友達なんだから。
「おはよう、由依ちゃん」
「あ、一葉。その、昨日はごめんなさい。無理矢理その。あんなことして。母にもあいつにもお説教されたわ」
いつも通り、平然を装ってあいさつをしてみると謝られてしまった。
いつもの口調の彼女。昨日の姿は幻だったのかと思ってしまうくらいにいつも通り……でもない。
口数は少ないしテンションも低い。
周りに集まってくるクラスメイトたちにも他のクラスの子たちにもガン無視だ。
今日は静かなお姫様。そんな日もあっていいか。
自分を見つめ直す時間くらい必要だよね。
「ほらー、席について」
チャイムが鳴り、点呼が始まっても由依ちゃんは返事をしない。
聞こえているのかも分からない。どこかを見たままぴくりともしない。
みんな後ろを見ている。いくつもの視線を浴びても上の空だ。
「青羽さん?」
「え、あ。はい。元気じゃないです」
あっさりと答えて何事もなかったかのようにまた一点を見つめている。
不思議そうに顔を見合わせる子たち。
きっと私のせいだ。
私が受け止めてあげなかったから。
「はいはい、静かに。みんなも元気じゃないときだってあるでしょう。無理はしないようにね、青羽さん」
返事もしない彼女を不思議がっていた子たちも朝の会が終わる頃にはそれが当たり前かのように振る舞い始めた。
この世に絶対なんて存在しない。
朝から一日も話さずに終えた学校。
授業中に当てられても答えないしノートをとっているのかすら怪しかった。
一体どうしたというのか。本当に調子が悪いんじゃないか。
教室から足早に出て校門を抜けると佐伯さんが居た。
無視しようと思ったのにランドセルを掴まれた。いや怖い。
「ちょっとお待ちください。お嬢様はどうしたんです」
「由依ちゃんならまだ教室に。ずっと上の空で、授業中も」
深い溜息を吐かれ、仁王立ちになられた。
謎の圧迫感に気圧されていると、背筋に冷気が走るような感覚を覚えた。
なんだろう、こんなに暑いのに。
夏の眩しい空を見上げてみると由依ちゃんのピアノの音色が聞こえた気がした。
由依ちゃん。
佐伯さんの呼び止める声も気にせず屋上まで走る。
本当は屋上なんて上がったら駄目だけど。
今はそんなの気にしている暇なんてない。
階段を無心で駆け上がる。
息が切れても、足が絡まりそうになっても気にしない。
だってあの子が私を助けてくれたんだ。
屋上のドアを開く。
本来鍵がかかっているはずの場所。なぜかあの日も今日もかかっていない。
管理がなってないな、なんてことはどうでもいい。
巡らせる視界に映った一人の少女。
フェンスを越えようとよじ登っている。その下には水色のランドセルが綺麗に置かれていた。
よじ登ろうと必死なのはあれなんだけど。ワンピースが風になびいているのはちょっと。
お姫様を守るのは私しか居ない。必死に声を絞り出す。
「やめなよ」
あの日の言葉を借りる。
驚いた顔をして振り向く私のお姫様。
よく考えなくてもお姫様をこんな状況に追い込んだ私って極悪人じゃないの。捕まる?
「危ないから降りて」
悶々と考えながら言葉を借り続ける。
ある本に書かれてあった。言葉というものは良くも悪くも人を繋ぎ止めるのだと。
「どの口が言っているのよ」
笑った彼女の頬から流れ落ちる雫。
なんで置いて帰ろうとしたんだろう。
面倒事に巻き込まれたくなかったわけじゃない。私がこの子を巻き込んだ張本人なんだから。
「なんでここに来たの?屋上は入っちゃいけないんじゃなかったの」
この人も私の言葉を引用してくる。
案外覚えているものなんだな。お互いに。
そう思うとなんだかうれしくなった。一人じゃないんだって思える。
「空を見上げたらピアノの音が聞こえた気がして。だから」
「そう。絶対そういう運命よね、私たち。私もね、花瓶を割ってここに来たけれど。聞いたことがある音色が聞こえた気がして。どこか寂しい旋律につられて」
フェンスから降りた彼女を抱きしめる。
生きているのを実感する。生きていたいと思える。生きてほしいと願える。生きているからこそ、成長できる。
「ごめんなさい、由依ちゃん。私、あなたのことなにも知らないで」
「違うの。私が横暴だった。まだ結婚もできないのに」
なんだろう、どこか話がズレているような気がする。
まあいいか、よくはないかもだけど。この子が生きているならそれでいい。
それに運命というのはあながち間違いではないんだろう。
互いが奏でるものを互いに覚えていて、それに惹かれて助け合えて今がある。
夏の日差しはジリジリと肌を焼き、セミの鳴きしきる声を聞き。
手を繋いで屋上から去る。
このまま寝転んで談笑でもできたらよかったんだけど。そんなことをしたら人の丸焼きになってしまいそうだからやめた。
教室に戻ろうとしたらすでに鍵がかかっていて入れなかった。小学校というのはどうも不便だ。一瞬で施錠されてしまう。
そういえば佐伯さんはどうしているだろう。このクソ暑い中、放ったらかしにされて。
「ねえ、佐伯さん外に居っぱなしかも」
「まさか。車で涼んでるでしょ」
それもそうか、と思いながら校門まで出る。
「ねえ。あれって」
「佐伯だわ。アホでしょこんな暑いのに」
あまりの冷たい声に身震いする。一気に寒くなったような、気のせいかな。
茹だってしまっているのか、いくら佐伯さんに声をかけてもぼーっとしたままだ。
「シャキッとしなさい、佐伯!」
「はい!申し訳ありませんお嬢様!」
なにこの上下関係。これ見てよかったやつ?大丈夫なやつ?教育上よろしくないような。ここ学校だし。
炎天下も気にせず由依ちゃんのお説教が始まった。これに関しては佐伯さんが可哀想で仕方ない。
なにかできることあるかな。なにか、うーん。
「もうすぐ夏休みだね、由依ちゃん。夏休みってなにかするの?」
「そうね。特にこれといってないけれど。宿題はどうにかしないとなあって」
切り替えの早い子だと思えば視線が段々と佐伯さんに移っていく。
まさか。やらせる気かお主。それはチートだし。いくらなんでも私だってやってもらいたい。
夏休み。
そうなるとせっかく仲良くなった由依ちゃんともしばらく会えなくなるのか。
一ヶ月もあれば仲良くなったこともなかったことになってしまいそう。
「お祭りも花火も、海も。誰かと行くことってまだなくて。一緒に行きましょうね、一葉。お泊りもしましょうよ」
そう言ってくれるなんて思ってもみなかった。
忙しいから、って言われるかと。海外に行くから、とか言われそうだし。一緒に行ってくれるの、居てくれるの?
返答をするのにためらう。なんて言ったらいいんだろう。
「ほんとにいいの?私と、夏休みまで会ってくれるの」
「やっぱりなにも分かってないじゃない。言ったでしょ、一緒に住みたいくらいなのよ。私は」
また怒られてしまった。
分からないというか。分からないんだけど。なんでこんな私となのか分からないし。
由依ちゃんは私よりも勉強もできて、ピアノもできる。みんなに優しくて。人気者で。
かくいう私はどこにでも居る平凡というか目立ちもしない。存在してもしなくても同じ。なんならいじめのターゲットくらいだし。
どう考えても釣り合わない。
「あの、お嬢様方。暑いのでいい加減車に乗っていただいても」
暑さにやられて今にも倒れそうな佐伯さん。可哀想としか言いようもない。
話は車でもどこでもできる。灼熱地獄より冷房の効いた車のほうが断然いい。
「キャンプ行きたい」
突然声を発するからびっくりした。
キャンプか。クラスの子たちが話しているのを聞いたことはある。我が家で話題になったことはない。
神楽家はみんなインドア派だし。行きたいと言ったところで無理と返されるだけ。
でも由依ちゃんとなら。
「私も……行きたいな」
なぜか体を飛び上がらせて驚かれた。目をまんまるにして、正気かこいつとでも思っていそうな」
「ねえ佐伯。行きましょう」
「私だけの判断では無理ですよ。お仕えしている身ですから」
つまらないと駄々をこね始める少女と車を走らせて聞きもしない使用人。
私が相手をしろということか。どうしろと言うんだ。
キャンプ、といえば。なにがあるだろう。
「由依ちゃんの家でもキャンプできそうだよね」
「えー、つまらないこと言わないでよ」
お庭もめっちゃでかいのに。できそうだけどな。
竹林もあるなんて私からしたらすごすぎてぐうの音も出ない。すげー、とため息をこぼすことしか。
でもそうだよな、お嬢様からしたらこれが日常で当たり前なんだし。私が知っている次元に住んでいないんだ。
「ま、でも。それもそうね。庭の奥の方とか普段行かないし」
「それなら掛け合ってみますよ」
「つまらないわね」
やっぱりつまらないらしい。多分佐伯さんが掛け合うと言ったから反抗したくなるんだろう。
反抗できる相手がいるというのはいいことだ。この子が心を開いている人も少ないみたいだし。そんなことを言ったら平手打ちを食らいそうだな。
まだまだ続いていく夏。
終わりの見えない夏に思いを馳せながら、生きている実感を彼女と分かち合っていく。




