1.それならVtuberになってみない?
松宮さくら。
大学受験に失敗し、現在ニート中。
4月から引きこもりを始めて、現在引きこもり歴4か月。
季節はもう夏、8月になっていた。
引きこもり歴4か月目に突入した8月のある日、とうとう父がこう言った。
「さくら、大学受験に失敗して悔しいのはわかる」
夜ご飯のときだった。
「いい加減に働くか、大学受験するか決めなさい」
「…わかっている」
さくらは絞り出して言った。
そんなことはわかっている。
同じ高校だった同級生は、大学に行って楽しそうにキャンパスライフを謳歌している。
自分だけ取り残された気分だ。
勉強ばかりしてきたから、友達もいないし、人付き合いも苦手。
特技も特にない。
「大学受験は…もう嫌」
ランクを落とせば行ける大学はほかにもある。
だけど、何かしたくて大学を目指していたわけではない。
進学校で、まわりがみんな大学受験していたから、そうしただけ。
目的や希望があるわけではない。
「それじゃあ、さくら、働くの?」
母が言った。
その言葉には、「さくらが働けるのか?」という疑惑と不安がにじんでいた。
「うん、働く」
さくらはそう言った。
両親は不安そうに見つめあっている。
「それじゃあ、ごちそうさま」
気まずい雰囲気のまま、ご飯を食べ終わると、さくらは部屋に戻った。
部屋のノートパソコンで、自分でもできそうな仕事を調べてみた。
さくらが考えた条件は、
・家の中で働けること
・給料は低くていい
・あまり人と関わらなくていい仕事。
『在宅 仕事』で調べると、思いのほかたくさんの仕事が出てきたけれど、どれも『経験者』の文字がある。
その中でも、経験なくてもできそうな仕事。
「動画編集」「ブログ運営」
さくらが見つけたのはこの2つだった。
翌日、さくらは4か月ぶりに外に出て、図書館で本を借りた。
図書館に出かけると言っただけで、今夜は寿司とケーキよ、と親は飛び跳ねて喜んだ。
娘の脱引きこもりが相当うれしかったらしい。
図書館では、動画編集、SNSマーケティング、バズる方法などなど、在宅の仕事に役立ちそうな本を手あたり次第に借りてみた。
「本、借りすぎちゃったかな」
図書館で借りた本でバックはパンパンになっていた。
筋肉のない細い腕で荷物をもって帰るのも、一苦労だ。
「…ちょっと休憩」
図書館と家の間にある、小さな公園。
正方形の公園の周りには雑木林があって、隅にはブランコや滑り台の遊具がある。
8月の猛暑日だ。公園には誰もいなかった。
さくらは、公園のベンチに座って、動画編集の本をぱらりとめくってみた。
「…?」
何か違和感。人の気配がする。
ふと視線を下すと、さくらが座ったベンチの下に、人がいた。
影になっていて、顔はよく見えない。
仰向けになって、手に何か機械を持っている。
「ひいっ!!!!」
さくらはベンチから飛び跳ねた。
「な、ななななな! なにしてるんですか?」
さくらは、公園を見渡し、今まで出したことない声で叫んだ。
「変質者!!変質者がいます!!!」
しかし、周りには誰もいない。
「しっ…!騒がないで」
背後から口を押えられた。女性の声だった。
もごもごと暴れてみたが、引きこもりのさくらは、非力だった。
「大丈夫、私は怪しいものではないわ。仕事なの。だから騒がないで」
もごもごと暴れながら、さくらはこう想像した。
この女性の仕事は、きっと盗撮だ。
ベンチの下に隠れて、若い女性の下着を盗撮して、裏の世界で販売している。
悪い人に違いない!
犯罪者だ!
そう考えながらも、さくらの体力は限界だった。
4か月ぶりに外に出て、口元を押えられ、体は拘束されている。
だんだんと意識は遠のいていった…。
「大丈夫?」
目を覚ましたら、目の前に女性の顔があった。
頭の下には、柔らかい太ももの感触。
さくらは、公園のベンチで膝枕をされていた。
「軽い熱中症だと思うわ。はい、これ飲んで」
「あ、ありがとうございます」
さくらは渡されたスポーツドリンクを飲みながら、女性を観察した。
軽くウェーブがかかった長髪の女性で、年齢は…わからない。
体形は、少しむちっとしていて、そういえば、後ろから抑えられているとき、少しいい香りがした。
「ごめんね。もう大丈夫?」
「はい…ご心配おかけしました」
と、言って、はたと思い出した。
優しそうな顔をして、確かにきれいな女性かもしれないけど、この人は犯罪者だ。盗撮犯だ。
「だっ!騙されませんよ!あなた、何をしてたんですか」
さくらは、女性をぎょろりとにらんだ。
「あ、ごめんごめん。まだ誤解が解けていなかったね」
女性は黒い四角い箱を取り出した。
この中に、カメラが入っているのだろうか?
そして盗撮をしていたんだ…。
「これはバイノーラルマイクっていうんだけど」
女性は箱の中から、耳の形をした変な機械を取り出した。
「これが…マイク?」
マイクといえば、カラオケで使うものを想像する。
耳の形のマイクを、さくらは見たことがなかった。
まじまじと見ると、耳の穴の中に、マイクらしいものがある…気がする。
「ASMRって知ってる?」
さくらは、ふるふると頭を振った。
「自然音とか環境音とか、人がリラックスする脳波を出す音のことをASMRっていうんだけど。私は、その音を撮影していたの。木々のそよぐ音とかちょっとリラックスするでしょ」
たしかに、そうかもしれない。
住宅街の近くにある公園だから、人も少なく静かで、リラックスできる。
「人が少ない時しか撮影ができなくってさ。かといって、夜だと違う音になっちゃうし。…どう?信じてもらえた?」
嘘は言ってなさそうだ。
「だけど、どうしてベンチの下いたんですか?」
これでは下着を盗撮しようとしていたと勘違いされてもおかしくない。
「まあ、それは、ほら。この公園って日影がないでしょ。唯一の日影がベンチの下だから…」
さくらは公園を見渡した。
たしかに、この公園には影が少ない。雑木林は唯一の陰になっているが、フェンスがあって中には入れないようになっている。
「わかりました…。」
さくらは、一応信じることにした。
「ふ~。よかった~。ワンチャン、Vtuber、公園のベンチの下で盗撮、逮捕、ってヤフーニュースに載るところだったよ。危ない危ない。」
女性は、ふう、と胸をなでおろした。
さくらの3倍近くある胸が、大きく上下に揺れた。
「でも、なんでそんなことをしていたんですか」
「そんなことって」
「環境音を撮って、それが何か役に立つんですか?!」
「まあ…それが仕事、だから?」
女性は困ったように首を傾げた。
公園のベンチの下で寝そべって、変な耳の形のマイクで環境音を撮影する。
これが仕事?
「いったいどんな仕事なんですか」
「うーーん。いざ聞かれると、難しいなぁ」
女性は腕を組んで首を傾げた。
組んだ腕の上に、大きな胸が乗って重たそうだ。
「てか、もしかして」
女性は、ぐい、と顔を近づけた。
出会ったときから思っていたが、妙に距離感が近い。
胸が体に当たるくらい、近づけて、こう言った。
「そういうの、興味あったりするの!?」
「はあ?何でですか!?」
「実はちょっと見ちゃったんだー!」
女性は、さくらのバックをちらりと見た。
バックの中から、動画編集の本がはみ出ていた。
「もしかしてさ!動画編集とかできたりするの?」
「いえ…これから勉強しようかな、と思っただけで」
「なるほど。これから始めるわけね」
女性は、腕を組んで、にやにやしなしている。
もしかして、からかわれている?
さくらは、むっとなって反論した。
「別に興味があるわけではないです! 私、恥ずかしながら大学受験に失敗して、引きこもりのニートだったんです。だけど、家族から働け、と言われて。動画編集のお仕事なら、できるかなあと思って調べていただけです! 別に興味があるわけではありません!」
さくらは、顔を真っ赤にして、早口で言った。
「なぁるほどね」
女性は相変わらず、にやにやとしている。
なにか企んでいるようだ。
「ねぇ!」
女性は身を乗り出して、ぐい、と顔を近づけた。
「それならVtberになってみない?」
ーそれならVtuberになってみない?
Vtuber。
さくらはその言葉の意味も知らなかった。
しかし、その言葉が、これからのさくらの人生を大きく変えることになるのだった。
<おまけ>
挿絵のマイクは、私が実際にASMRで使用しているマイクです。
3dioのマイクで10万円以上します…!
物語上のインパクトのために、3dioにしたけど、実際の外撮影の時は、3dioではなくTASCAMがいいかもね。