新しいお隣さん、そして魔法少年
翌朝…
ドタバタと大きな音が外廊下から聞こえ、結は目を覚ました。
スマホから時刻を確認すると10時近い。ずいぶんと眠ってしまった。
ムクリと起き上がって昨夜食べ散らかしたテーブルを見る。あの後も少し買い溜めたものを食べたのか記憶より多いゴミの中で、へそ天で眠っている黄色いハムスター…
夢じゃなかったんだな。結はため息をついた。
ついでに左の薬指を見やる。サファイアとも違う青いリボン型の石がついた指輪、やっぱり外れない。
婚約指輪にしても結婚指輪にしても玩具じみている。
万一結婚指輪や婚約指輪に勘違いされたとしたらいたたまれないし、玩具を左の薬指に付けて外を出歩くのも恥だ。
「右目だけでも大変だってーのに…」
結の右目は空色をしている。左目は日本人としてはごく普通の茶色の瞳だ。
結自身は覚えていないが小さい頃事故か何かで色が変わってしまったらしい。
自分で小遣いを稼げるようになってからはカラーコンタクトを買って隠していた。
それだけ好奇の目に晒されたということだ。
まあ考えても仕方がない。ハムスケを脅せばなんとかなるだろう。
結はのそのそとシャワーを浴びた。
部屋着に着替えゴミ出しを……
もう10時だ!?既にゴミは回収されたのでは!?
結は慌てて窓からごみ集積所を確認する。丁度収集車がゴミを回収しているところだった。
「あー!!待ってぇ!!」
ゴミ袋を掴み取ってサンダルをつっかけて階段を駆け下りる。
大声を聞いた収集車の業者は待ってくれていたようで、ゴミを受け取ってくれた。
お礼を言いながらペコペコと濡れたままの頭を下げて収集車を見送る。
「あれ?栗花落さんじゃない?」
聞き覚えがあるような無いような声を聞いて振り返る。
見覚えがあるような無いような男性が段ボール箱を抱えていた。
成る程…騒がしいのは引っ越しか。
いやしかし…爽やかに笑うこの人は誰だっただろうか
「…………。」
黙っていると、笑顔の口元がヒクリと引きつっていった。
「……もしかして、僕が誰だか分からない?」
「うん」
結は頷いた。見覚えがある気はするのだが、生憎と特別名と顔を覚える程関わりのある男性はいない。昨日残業を押し付けた上司だってスーツを着ていなければ見分けられる自信が無かった。
何故ならば前髪と眼鏡で顔を隠したブスには誰も話しかけないから。
相手の男はぷうとわかりやすく膨れ、重いのだろう、段ボールをその場に下ろして自分の前髪をかき上げた。
「……小鳥遊、同じ部署の小鳥遊 亮
」
「あ、カッコつけてオールバックしてる…」
「覚え方ァ!」
名前には覚えがあった。
難読名字が同じ部署にもう一人いるのか、と思ったことがある。しかし関わりがあるかと言われると……
「話した事ないもんで……」
「そりゃそうだけど、栗花落さんは結構有名だよ」
有名?ソレは不思議だ
「ブスだから?」
我ながら卑屈な笑みを浮かべていたと思う。誰かと仲良くなる努力を怠っている結も大概だが、耳に入る噂も容姿を、強いては容姿から性格も悪いだろうと言う噂ばかり。それでも仕事で評価を得ていれば賃金は得られるし軽い雑談をふるスタッフもいた。
それで良かった。
亮は狐につままれた様な顔をして、はっと我に返る。
「それは…!………えっ、知らないの?覚えてないのか?」
「なにが?」
首をかしげる結に亮は何か言いかけたが、引っ越しを手伝う友人にサボるなと喝を入れられ、段ボールを持ち直した。
「僕、207号室に引っ越してきたから。栗花落さんは?」
「隣だ…6」
「わかった。荷物整理が終わったら挨拶しに行く」
「お構いなく」
「いや色々構うこと出てきたから絶対行くからね!」
階上で友人に呼ばれるのに引っ張られながら亮は階段を上って行った。
荷物の往来の隙間を抜けて、結は部屋に戻った。
「ゴミ出ししても散らかってるねー君の部屋」
一息つく間もなく黄色いハムスター、ハムスケがふよふよと出迎えに来た。
息をつく暇もない。
「……あれ?カラコンつけないで外に出たんだね」
ハムスケは顔を覗き込む。結は反射的に右目を手で隠した。
見られた…?
しかし一言も触れてこなかった。学生の頃は見つかれば厨二かよ魔眼かよと笑われていたのに。
……まあ、そこは大人なら口に出さずにいられるか。
「……居留守使うつもりだったけど、口止めしないといけなくなったな…」
「えっ!?誰かのお命頂戴するのかい!?」
「そこまでするか!」
いや、結ならやりかねないと思って…とハムスケは笑う。
握りつぶしてやろうか…と脅しをかける。ビクッと体を震わせたハムスケは部屋の隅に体を隠してしまった。
結はやれやれと部屋に戻り、カラーコンタクトを入れて、昨夜の食べ散らしを片付ける。
ハムスケは結が寝た後もだいぶ食べていたようだ。食べ残しがほとんど無い。
宇宙か、あの腹は?
「ハムスケ、指輪のデザインどうにかならないの?」
「…気に入らないかい?」
ハムスケは部屋の隅から顔を出す。
結は片付けを続けながら
「左の薬指に指輪の意味位知ってるでしょ。職場で何言われるか…このリボンが付いてなければ絆創膏で隠せるんだけど」
「うーん…つまり指を変えるか、魔法石の形を変えるかしたいってことだね」
「魔法少女止めさせてくれるなら話は早いんだけどね」
「そしたら襲われるよ」
うっ…と結は言葉を詰まらせる。結は誕生日を迎えて精霊のいい餌になってしまったらしい。忘れていた訳では無いが……。
「まず指を変えるのは無理だね。聖なる処女である結と精霊王との契約を意味してるから、それこそ結婚指輪と同じ盟約を交わしてるわけだし」
「精霊王は処女厨ですか」
「な、何を言うんだい!偉大な精霊王さまと力を合わせて美しい魔法になる人間こそ、まだ異性との交わりがない綺麗な魂なんだよ!」
「意味がわからん。じゃあ隠しやすいようにデザイン変えるのは?」
ハムスケはんー…と悩んで、尻尾で指輪を突付いた。
今度は何が出てくるでもなく、指輪が淡く光りだした。
「光った…」
「見えるのかい?」
「え?」
二人の間に微妙な空気が流れる。しかしハムスケはその空気を壊すかのようにニコッと笑った。
「指輪に認識阻害の魔法をかけたから絆創膏もいらないよ」
「私には光って見えるけど」
「……あるってわかってる人の目まで誤魔化せる程僕の魔法は強くないんだ。……あ、でも魔法使ったらお腹空いちゃったなー」
わざとらしくハムスケは腹部を擦る。
……恩を売っている。
「じゃあホットケーキでも…」
「ううん、そっちじゃなくて」
あっ、と結は察した。黒化精霊の方だ。
「ちょっ……!隣の人が後で挨拶に来るんだよ、それにこんなに朝っぱらから黒化精霊って動くの!?」
「……。人間社会も大変だね。じゃあとりあえずホットケーキで我慢する」
ぷーと頬を膨らませて机の上に座った。
まあ、納得してくれたのならそれでいい。結は長い髪を前髪ごと纏めてポニーテールにくくってホットケーキを作り始めた。
「あー、食べた食べた」
ハムスケは満足そうにお腹をポンポンと叩いている。ズボラ技のフライパン丸ごと一枚のホットケーキを2枚食べたんだ。流石に満足してもらわねば困る。結は苦笑していた。
するとピンポーンとインターホンが鳴る。映像で確認すると、先程の小鳥遊 亮がドア前に立っていた。軽く前髪をかきあげてセットしてある。
「本当に来た…」
小さな驚きを見せた結は、玄関のドアを開けた。一応小綺麗な格好には着替えてある。前髪も避けてピン留めしてある。
その姿を見た瞬間、亮はピタッと動きを止め、じっと結を見つめた。
こころなしか頬や耳が上気しているように見える。
「……何か?」
「…………え!?栗花落さん…?」
「うん。他になにか?」
亮はがしっと結の両肩に手をおく。
どうやら何か興奮しているようだ。
「美容院いこう!」
「病院?」
「び、よ、う、い、ん!後服も買いに行こう!」
何故?結は混乱する。キョトンとしていると、ハッと我に返った亮はパッと手を離して頭を下げた。
「ごめん!」
「お、おう……」
肩に残った温もりを擦る。
おずおずとしながらも亮はあらわになった結の顔を盗み見る。
「……あいつ目が腐ってんな…」
「は?」
「いや、何でもない。んでさ、栗花落さんの噂の話だけど……」
その話始めるの…と結はため息をつく。
「……こんなとこじゃアレだから、近くに喫茶店有るよ」
「あんのか!じゃあ行こう」
部屋から鞄を取って、近くの喫茶店ルナーバックスに向かった。
亮は奢りたそうにしていたが、固辞してお互い好きなコーヒーと軽食を買って店の隅の2人席に向かい合わせで座った。
「ちょっと不便かと思ったけどこの辺にもルナバがあるんだな」
「車持ってれば便利だよ。駅からアパートまでは住宅街だけど、バスの距離ならカウンズもあるし、ワオンもあるし」
「……サンキュ。」
「は?」
何故お礼?とキョトンとする。
すると子供のような笑顔で亮は言った。
「土地勘無いから助かる」
「場所まで教えたわけじゃないのに…」
「それでも。栗花落さんは優しいんだな」
むず痒い気持ちになってヘアピンを外す。亮は「あ!?」と残念そうな声をあげた。
「……ともかくして、私の噂がなんだって?」
「……前髪切るだけでも噂消せると思うけど…」
「ブス見せてどうすんの」
亮はふーとため息をついてコーヒーを啜る。
「……その、栗花落さんの容姿がどうたらって噂なんだけど…出所本当に覚えてない?」
「事実から来てるんじゃないの?」
「違っ…!君は目茶苦茶可愛いから!」
興奮気味に机を叩く亮を、結はキョトンとして前髪越しに見つめる。
店内の注目を少なからず集めてしまった亮は、軽く咳払いをして離し始めた。
「…1年ぐらい前に栗花落さんに言い寄った男がいたよね?」
「………?あ、自分のイケメンさに絶対の自信もってた人に一時期よく話しかけられたけどアレ?」
あ、これは言い寄られた自覚がないな。と亮は思った。
「うん、まあ、その人だと思う。栗花落さんこっぴどく振ったでしょ?」
「振るも何も…鬱陶しいって言っただけ」
「……まあ確かに鬱陶しい奴ではあるけど…」
そっかぁ…そこまで言われたかーと亮は頭を抱えた。結はコーヒーと共に買ったサンドイッチを頬張っている
「『一回寝てみたら思ったより……あー…ブスでマグロだった』……それが噂の出所だよ」
結は首をかしげる。まず寝てない。だからマグロかも…知識が乏しいから床上手には動けないのは間違いないが……。
「月曜出勤したら殴りにいかなきゃ」
「ああ、気持ちはよく分かるけど抑えて、抑えて。……変なのはその後アイツ一切女運が無くなったんだよね」
「いや、個人的なことを言いふらす時点で大分周りは引くと思うけど」
「それを知らない外の出会いも無くなったらしい」
ああ、それなら殴りにいかなくても溜飲は下がるか。
結はホイップクリームの乗ったコーヒーをストローで混ぜてズズズと吸う。
「……で、栗花落さんの噂の真相っていうか、それを知らない命知らずは栗花落さんの容姿の噂を信じてるけど、あいつの末路を知ってる人からは栗花落さんは縁切り神社だと思われてる方が正しい…んだよね」
「ブフッ!」
コーヒーにボコッと空気が入る。盛大にむせこんだのは昨日の魔法がまさに「縁切り」だったからだ。これはなにかの偶然か?必然か?
結の様子を心配して紙ナプキンを亮は手渡す。
手でありがとうとサインをしてナプキンを受け取った結は口元に当ててむせこむ。
「大丈夫?」
亮はテーブル越しに身を乗り出して彼女の背中を擦る。
咳き込んでいるなりに結は頷いた。
一通り咳き込んで呼吸が落ち着いた結は、眼鏡を外して目元に浮かんだ涙を拭う。
コンタクトは外れてはいないようだ。
はーと深呼吸をして、ムセで上気した頬をコーヒーカップで冷やす
前髪の隙間から酸欠でとろんとした瞳と目があった亮は、また顔を赤くさせた。
「………ッ、」
「お見苦しいものを失礼しました」
「……いや、こっちがゴメン」
「?」
何故?と眼鏡をかけ直して声を掛ける。
「……何でもない」
「そう?……じゃ、私買い物に行くから…」
そう言って席を立つ。どこ行くの?と亮は尋ねた。
「服買いに。…コレイベント用なんだよね、仕事で着る服が切……駄目になっちゃって…」
「服…僕も行っていい?」
「着いてきたって…!しまやまだよ?」
「お、いいじゃんしまやま!服選ぶの手伝わせてよ」
これは引かない奴だ、結は諦めて同行を了承した。
「やっぱり人の服選ぶの楽しいなー!」
服屋のあるショッピングモールを歩くホクホク顔の亮は両手に紙袋を持っている。
対照的に結は空身だ。
「そんな持ってくれなくてもいいのに…」
「だって買わせすぎちゃったから」
大衆向けの服屋に行ったのだが、結がいつも買うような地味なTシャツやトレーナーに手を出そうとすると、亮はそれを止めて少しばかり可愛らしく装飾がついていたり、一枚で重ね着風に見えるデザインの服をどこからか探し出して強く勧めたのだった。
特にこだわりが無い結は、着方が面倒ではないのなら、と買い物かごに入れていった。すると結果、1週間強のローテーションが組める服を買うことになった。
「……小鳥遊さん、結構お節介だね」
「確かに持ってきすぎたと思うけど迷惑だった!?」
あ、いや……。と結は首をふる。
「普通他人の服までこんなに選べないって意味……助かったよ?選ぶの面倒だし」
「じゃあ季節変わりそうになったらまた行こうか?僕も栗花落さんの服選ぶの結構楽しかったし」
「ははっ…悪くないかもね」
お世辞とは分かっていて、悪くなかった買い物風景を思い出して笑う。
笑顔を受けて亮は褒められた犬の様にニッコリと笑う。
「あとは前髪整えるだけでもっと可愛いと思うけど」
「お世辞ありがとう、でも前髪はちょっと…」
今はカラーコンタクトで誤魔化してはいるが、どうにも素顔をさらすのは過去の経験から勇気がいる。
もともと顔の造形にも自信は無い。確かに礼儀で髪を上げることはするが、前髪は自分を守る盾でもあった。
その様子をみて、亮はまわりをキョロキョロと見渡して、結の耳元に顔を寄せた。
「……もしかして、目の色が原因?」
「ッ!?」
やはり見られていた。血の気が引く感覚がする。
しかし結が何か言う前に、亮はぱちんとウィンクをして結の頭をポンポンと撫でた。
「誰にも言わないから安心して。人と違って嫌な思いをするのは僕も経験あるから。……ごめんな。栗花落さんを近くで見てみたらその……可愛くて、暴走した。」
打って変わって指先まで血が通う感覚。この人なら誰にも言わない。確信を持てた。
「……あ、ありが、」
「結!黒化精霊の気配がっムギュ」
カバンの中から黄色いハムスターが顔を出して叫ぶと同時に脊髄反射で鞄に押し込んだ。
「……今、変な声が」
「ご、ゴメン!スマホのアプリの通知!ちょっとトイレ行きたくなっちゃったから、待たせるの悪いし荷物頂戴!解散!」
「トイレ位待っ…」
「いやホント!長くなりそうなの察して!」
あっ…と亮は大人しく荷物を引き渡す。
「じゃ!ありがとね!」
言いながらとりあえず近場の女子トイレへ走っていく。個室に入り、アプリの通知改めハムスケを掴み出した。
「君は一般人に知られていい存在なのかなぁ??いつ鞄に入り込んだの!?」
「ご、ゴゴゴゴメンナサイ!でも黒化精霊の気配は本当なんだよ!?」
「近いの?」
「近い」
なんだって夕方で人がそこそこいるところに…そう思っていると、キンッと何か妙な感覚が背筋を伝った。
静かだ。
「これは…世界から隔離するとか言う…」
「そうだよ、結界が張られたんだ。結、変身して!」
こんな明るいうちからあんな格好に…と躊躇していると、そう遠くないところから悲鳴が聞こえた。
「あーもう!!【解放せよ】!」
半ばヤケクソに叫ぶ。顕現された杖を取ると、瞬く間に髪はストロベリーブロンドに染まり、ひらりとしたスカート、コルセットにより豊かな胸は強調され、腰にリボンがたなびく。
変身の結果など確認したくない。
結はトイレのドアを開け放ち、悲鳴の方向に向かって走った。
ショッピングモールの中央に辿り着くと、でっぷりとした胴体をやせ細った手足が引きずる黒化精霊と対面した。
「ーー紡ぐ」
手っ取り早く済ませようと前日に使った呪文を詠唱する。
しかし…
「ッ、!?」
魔法陣が黒化精霊に触れた途端魔法が弾け飛んでしまった。
やはりうまい話は無いか。
動きはそれほど速くなさそうだ。結は大きめの魔法弾を打ち出す。着弾するとジュッと焼けるような、前日と同じ効果がやや広範囲に現れた。
魔力の単純打ち出しがやはり簡単だ。しかし…
「よっわ!」
ドッチボールを当てた程度のダメージしかない。当たった所は確実にダメージを受けているのだが…
だったら結の性格上殴り合った方が単純明快でやりやすいのだが…
杖先に魔法の刃を生み出して斬りかろうと杖を振りかぶった。
すると、グワッと黒化精霊は涎の滴る大口を開ける。
「やばっ!」
本能的に杖が口の中に入ったらマズいと判断した結は、大口に見合うだけの大きさの魔法弾を撃ち込んだ。
爆風で吹き飛んだ結はたたらを踏む。
煙がモクモクと辺りを覆った。
やったとは思ってない。どこから出てくる…!?
もともと黒化精霊がいたあたりを見据えていると、背後から大口が襲ってきた。
間に合えっ!跳んで結は回避する。
元いた場所からジュワッと不快な音がした。
「【風よ】!」
その場の思いつきで風を起こして煙幕を吹き飛ばす。結が元いた石畳はドロリと溶けていた。
その光景をみて背筋が寒くなる。
おそらく接近戦だとあの石畳の様に溶かされる。遠距離はまだ慣れてはいない。
縁切りをするにはもっと弱らせないと駄目らしい。
ギロリと、黒化精霊と目が合う。
「チマチマやるしか…ないか!」
でっぷりとした図体が細い手足に引きずられダガダカと走り寄る。速い…!
結は距離を取るように走り出した。
高さで距離を取ると口を伸ばして噛みつこうとする。その口に魔力弾を撃ち込む、ノックバックとしては有効らしい、口はのけぞって、その隙に胴体に魔力弾を撃ち込むがいまいち威力が低い。いや、威力を込める時間がない。
「ああもう!チュートリアルなしで実践とかクソゲーだな!」
「別に河原とかで練習してもいいんだよ?」
「こんな服で出歩いたら変態だわボケ!」
そばを飛ぶハムスケに悪態をつきながら思考を巡らせる。
暫く攻撃を凌いでいると、とっとっとっとと、結の胸ほどの背丈の少年がすれ違った。
艷やかな黒い髪に、黒いマントを羽織ったその子は、スマホを構えて…どう見ても黒化精霊の写真を撮ろうとしている。
「は…!?」
結は反射的に走り出し、少年を引き寄せようと襟首を掴む。
後ろに倒れかかった少年の持つスマホのフォーカスが黒化精霊から外れたか外れないかあたりで、機械的な女の声がスマホから響いた。
『【マジック・レイ】インストール完了』
するとスマホのカメラが世界を書き換えるかのように、魔力の光線が発射された。それが黒化精霊の身体を削り取るが、直撃とはいかず、側面を削り取るのに留まった。黒化精霊にはそこそこのダメージを与えたらしく、苦しげな咆哮が上がった。
「えっ…?」
状況が理解できない結は、呆然とそれを眺めていた。倒れかかってきた少年をしっかりと抱いて。
「もう、お姉さん。邪魔しないでよー」
結の胸に埋まった少年は、プハッと顔を出して膨れる。黒髪に紅い瞳、襟のあるシャツにネクタイのように紅いスカーフを締め、黒の短パン、黒のハイソックス、そして黒の丈の短いマント。
およそ現代日本人の子供の格好ではない。言うなれば、子供の吸血鬼の様だが…。今この子は魔法を使った?
「でもお姉さん柔らかくていい匂いだから許してあげる」
少年はぴょんっと結の首にしがみついて、唖然としている結の唇をペロリと舐めた。
「んっ…!?」
「……流石精霊王の花嫁、魔力も甘ーい」
「えっ、え…!?」
何をされたか、何を言われたか分らず、ただ魔力を吸われたのは間違いなく軽い脱力感に腰を抜かした。
少年はくるりと黒化精霊に向き直って、スマホだと思えた物を構える。
「Navi、【アクアスパイク】」
『【アクアスパイク】インストール完了』
スマホならカメラがある位置からゴポゴポと水分が集まり、槍となって黒化精霊を撃ち抜いた。そして精霊の体内で水が弾ける。
すると…黒化精霊の身体が弾け飛んだ。
「すご…」
結はそれを眺めて感嘆の声を漏らす。
そうだ、魔法とはこういうものだった。
「魔力の質が違う…」
少年はボソッと呟いた。
くるっと少年は振り返って、結へと歩み寄る。無邪気にニコッと笑って両腕を開いて差し出した。抱っこしてとも言うかのように。
「お姉さーん。褒めてー」
「えっ?あ、うん…」
結が立ち上がると凄いスピードで間に黄色い小動物が割り込んできた。
「誰だい君は!!」
番犬のようにハムスケは唸る。
すると、どこからか白い猫のような、尻尾が2つに分かれた動物が現れた。
「私の魔法少年よ」
涼やかに白い猫は答える。ハムスケは唸る。
「相変わらず子ども好きだね」
「相変わらず年増好きねえ」
バチバチと火花を散らしている横で人間同士も邂逅する。
「お姉さーん」
少年は人懐っこく抱き付いて結の胸に顔を埋める。子供にどうして良いか分らずとりあえず頭を撫でていると、不意に二人の唇同士が近づいた。
「やっ…!?」
すんでのところで結が少年の口を手で塞いでガードする。
少年は不服そうな顔で結を見つめた。
「…マセガキ。駄目」
「そうだよ結、そいつ魔力を吸い取る魔法が…いや、お父さんが許しません!清くいて!」
「誰が父親じゃ!」
ハムスケを怒鳴りつけたところで渋々と少年は離れる。
「結と仲良くなったらキスしていい?」
「は…!?こ、子供がしていいわけないでしょ!?私が捕まっちゃう!」
動揺を隠せず顔を真っ赤にした結の顔を、少年は意地の悪い顔で覗き込む。
「俺が大人になったらいいんだ」
「そうは言ってない…!」
白猫に促されて少年は結から離れた。
去り際に無邪気な顔で振り返る。
「俺のことはクロとでも呼んでよ結。俺結のこと好きになっちゃった」
クロはとんっと飛翔して去っていく。結界が壊れた気配がした。
「全く…今はシロって名前なんだってあの精霊。……そうだ、今回は結があの魔法で倒したわけじゃないから襲われた人を病院に…結?」
顔を真っ赤にして動揺する結。
魔法少女状態の特殊効果か、判ってしまった。あの少年、クロは嘘をついていない事が……。