クレーター
今回のお題は「クレーター」「におい」「まばたく」です。
ぽっかりとクレーターが開いている。その虚空の穴からは亀裂が走り、鏡の中の顔を侵食して、女の表情を隠している。
「姉ちゃん? 今帰ってきたのか?」
まだ声変りを終えたばかりの少年の声が、幼さの残る口調で彼女を呼ぶ。
「……さとる」
女はゆっくりと瞬くと、ひび割れた自分の顔から目をそらし、少年の方に振り返る。
「ただいま。あんたはこれから学校でしょう?」
「そうだけ、ど……ッ!」
ハッと、少年は割れた鏡に気付き、顔をしわくちゃに歪める。
「どうしたの。それ」
女はするりと体をずらして、鏡を背中に隠す。
「なんでもないわよ。気にしないで」
優しく諭すように微笑んで言う女。けれど少年は怒りを露わにする。
「嘘だ。またあいつなんだろ?」
「違うわよ。たまたま物が当たっただけよ」
「どうせあいつが投げたやつだろ」
「それは……」
言い淀む彼女。だが意を決した表情で、少年を見つめる。
「大丈夫。次はちゃんとやめるように言うから。だからあんたは気にしないで学校に行ってきなさい」
「本当?」
「本当よ」
「絶対?」
「絶対。じゃあ指切りしようか?」
女が少年に小指を差し出す。と、少年は頬を染めて顔を背ける。
「……分かったってば」
ほっと胸を撫で下ろした女は、ひらりと手を振る。
「部活頑張って」
「行ってきます」
そう言って少年は、颯爽と小さなアパートの部屋を出ていく。女はその姿を見守ると、割れた鏡を見ながら化粧を落とし、派手な色彩のドレスを脱いだ。
夕暮れ時。
少年は泥だらけの、けれど満面の笑みでアパートの扉を開けた。
「姉ちゃんただいま! 俺ね、今日レギュラーに選ばれ「きゃあ……!」
嬉々とした少年の声を、女の悲鳴が遮る。少年は顔を青ざめ、土足のまま部屋に駆け込んだ。
「やめろ!」
少年は大柄な男の前に踊り出て、女を庇う。が、胸倉を男に掴まれ、投げ飛ばされる。
「うるせえ! これはこいつと俺の問題だ! ガキはすっこんでろ!」
酒臭い吐息が少年を罵る。と。
「やめて! さとるには手を出さないで! あんたが気に入らないのはあたしでしょう⁈」
そう言って彼女は、屈強な男の足元に縋り付く。すると待ってましたとばかりに男は下卑た笑いを浮かべ、拳を振り上げる。
鈍い音が何度も部屋に木霊し、女の顔が赤黒くなっていく。
床に倒れ込んだ少年は、耳朶を揺さぶるその音に為す術がなかった。しかしふと、ある物が目に入った。
少年は、無我夢中でそれを掴み、拳を振るい続けている男に、突き刺した。
「うが!」
男の醜い声が少年の耳をつんざく。少年は、手に握ったハサミに生ぬるい液体が滴ったのを感じた。男が膝を突いて、床に倒れる。
「そんな……嘘よ」
女は二人を見つめ、呆然とする。
「あ……」
カラン、と乾いた音を立ててハサミが転がり、少年の唇が戦慄く。床に転がった男は何も言わない。
「ご、ごめん、姉ちゃん……!」
少年は真っ赤に濡れた右手を女に伸ばす。
「さ、触らないでッ!」
しかし、返ってきたのは、怯えた声だけだった。
「あ、あたしは関係ないからね……。あんたが勝手にやっただけなんだから……」
女はブツブツと呟きながら、スマートフォンを取り出して、震える手で一一〇の三文字を押す。それを見た瞬間、少年の目から涙が溢れる。
「誰のためにやったと……!」
「ッ⁈ きゃあッ!」
女の断末魔が迸り、動かなくなった体が二つになった。
「……はは。あははははは!」
少年の虚しい笑い声が響き渡る。
「もう……どうでもいいや」
ひどく老け込んだ一声を最後に、三つ目の冷たい体が転がった。
後に残ったのは、血しぶきに染まったクレーターだけだった。