第三話ー伏光寺の惨禍(弐)
異能に呑まれる。それは感情が暴走したときに起こる。
今回は……あぁ。仲間が殺されて怒り、初めて人を殺めて動転し怯え、その心の隙を異能に突かれたか。
哀れだな、と嗣憲は小さくこぼす。
時間はかけられない、が、救ってやろう。
「白・賽・鏡。」
ぼわり、と利正の身の丈ほどの鏡が顕現する。異変が視界の隅にでも入ったのだろう、利正がこちらを振り返る。が、もう遅い。というより、むしろ振り返るは悪手。
「では行こうか。晄!」
瞬間、目が眩むほどの光が鏡から放たれる。否、そんな生易しいものではない。
その光は、当たった道場の床を焼き、そしてその先の利正をも炎に包む。
「ゥォオオオォッッォオオオ!」
熱かろう。苦しかろう。無理もない。白賽鏡が届けるこの光は、天界が後光。世を照らし、世界に昼をもたらす福音の射光。そんなものをまともに食らえば灼熱の地獄。普通ならまず間違いなく黒焦げ消し炭。
だが、異能力者ならば、武気で……あぁ、やはりか。
利正の、全身の裂けた個所から出る赫赫とした武気が、いよいよもって噴出し、体を覆い、かろうじて灼光からその身を守っている。が、それで精いっぱい。武気で以て全身を灼光から守ることに一杯で、身動き一つとれやしない。
「だが、念のために、もう一手。」
嗣憲は、利正に人差し指を向け、
「姿・見。」
「ンォッ⁉」
そりゃあびっくりもするか。
今の技、『姿・見』は相手の目の中の鏡に作用する技。眼球の中の鏡を支配し、相手自身の姿のみを映すようにする。もはや、利正は、右を向いても左を見ても、瞼を開いても閉じても、映すは炎に包まれ苦しむ筋骨隆々の偉丈夫。しかも、全身の肌があちこち裂け、そこから赫赫とした気が立ち込めているとくりゃあ、そりゃあ驚きもするだろう。
「フン、しばらく戸惑っていろ。すぐお前を倒し、救ってやる。」
「キ、ギザマァッ!」
見えているはずがないのに。見えるわけがないのに。利正がこちらを睨みつけてくる。全身からあらん限りの気を発し、筋骨を怒らせ、元々逆立つ髪をさらに突き上げ、こちらをまっすぐに見据えてくる。手負いの野獣ですら、これほどの圧はない。
その武気に、その圧に、嗣憲は、わずかに押された。
時間にすればほんの二、三瞬。だが、出遅れた。わずかに、ほんのわずかに、利正の間合いに足を踏み入れるのを躊躇った。
その隙を突かれた。
どん、と一つ床を踏みしめた利正は、その勢いのまま跳んだ。受けが間に合おうはずもなく、嗣憲は首を掴まれた。そのまま壁に叩きつけられる。
「がはっ!」
むろん、それで済もうはずがない。利正の指が、ぎりぎりと柔らかい首肌に食い込み血が滲む。
い……い、き、が……でき、な……い……、い、いや……そ、そ、れ、い……それ、以上、に……首の、骨が、も……もた、な……い……。
両の手で、万力で抗っているのに。まるで、抵抗できない。
「ナ…ナ……ナ、ゼ、ジャマ、ヲ……ス、ル……」
な、なにを……
「オ、ヲ、レ……コ、コイ、ツ……ノ、カラ、ダ、ツカッ……テ、ア、バ、レ、ル……」
こ、これ……こいつ……異能が、異能を司る霊験が……喋っている、の、か……‼
「な、なにもの……」
「ブレ、イ、ダ……ゾ……」
そう言うや、噴き出ていた武気が、利正の背中へと集まりだす。それらはやがて結集し、人形を成し始める。頭はといえば頂部に一本の長い角、各側部にも一本ずつ湾曲した角を備えている。口は裂けて鋭い剣歯を覗かせ、目は血走り、耳は尖る。腕は肉が盛り、四本の指は歪曲した鈍い鉤爪を備える。全身に無数の傷が走り、そこからはまた無数の細かい棘が生える。
ぶはり、とその異形は息を吐き、
「これぞ我。北羅帝である。」
北羅帝……天北を統べるという……暴君、か……
「久々に我が体を支配しても死ななそうな奴を見つけたというのに。邪魔をするでないわ。」
嗣憲の首を絞めつける指が、一層強くなる。
「この体で、北羅帝の威光を、神の御力を、再び地上に顕すのだよ。光栄に思うがいい。貴様はその第一の首級となれるのだ。」
く、くそ……が……
「かみ、だ、と……?」
……え?
オレではない。北羅帝も、困惑しているから、こいつでもない。
じゃ、じゃあ……
むくり、と利正がゆっくりと体を持ち上げる。手の力が緩み、嗣憲の体が下に落ちる。
「と、利正、どの……?」
「神、だと?貴様が、神だと⁈」
ぴしり、と北羅帝の体にヒビが走る。
「ま、待て!なにがっ!何が、起こって!」
その体のヒビは、とどまるところがない。次々と広がり、爪を、指を、腕を、胸を、頭を、角を、砕いていく。
「貴様ごとき小物がっ!神をっ!名乗るんじゃねえよっ!」
髪いよいよ逆立ち、筋いよいよ隆起する。
「オレ一人屈服させられないゴミがっ!失せろっ!」
怒号一閃。一際大きな亀裂が走り、ついに北羅帝の体を砕き尽くす。その体は再び赫赫たる武気へと変わり、利正の全身に走る傷口から吸い込まれ、再びその傷口を塞いでいく。
傷口が塞がるにつれ、徐々に隆起していた筋肉が縮み、髪もさほどには逆立たなくなる。目も色を取り戻し、息も整う。武気鎮まり、圧収まる。
「終わった、か……」
嗣憲もようやく一つ、安堵の息を吐く。そしてその息の吐く音にかき消されるかのように、利正の口から言葉が一つ。
「貴様が真に神であるならば……ぶち殺してくれたのに……」
その言葉は、低く小さく、だが、どの言葉よりも怒気を孕んでいた。
むむむ。頭が痛い。
えっと、何があったんだっけ?
額に手を当て、考え込む。
確か……あぁ、そうだ。なんか赤覆面のやつが仲間を何人も殺していて、でそいつらと戦いになって……で?
思い出せん。
少々前のめりになっていたのだろう、右足がよろけ、踏みなおす。その足が血溜まりに踏み込み、ぱしゃりと水音を立てる。じんわりと足袋に血が染み、足を、体を、思考を冷やしていく。
………
……
…
あ。
そうだ。
人を、殺めたのか。
命惜しさに咄嗟に刀で赤覆面を刺し貫き、で、その後……
ぼんやりと色々なことが頭をよぎる。何人も何人も赤覆面を斬ったこと。殿下がなにやらしてたこと。その殿下に手を上げたこと。自分の体からなにやら異形が出てきたこと。それを抑え込んだこと。
実感もわかない。が、それが自分の、確かな記憶であることは明らかだった。
「おい。」
背中に声が投げられる。
「おい。おい。……お~い?聞いてるか?」
……この声は。
振り返る。すらりと立ち、前髪を垂らしたその若武者は、間違いなく殿下。白峰嗣憲様だ。
「なんだ、聞こえて…」
「申し訳ございませぬ!」
なんと詫びればいいかもわからなかった。そもそも許されるとも思えなかった。
ただひたすらに床に頭をこすりつけ、ひれ伏して詫びた。
「よいよい。よいから面を上げよ。」
……は?
よほどぽかんとした頭をしていたのだろう。殿下はオレの顔を見るやげらげらと笑いながら、
「いいのだ、異能に呑まれれば理性は失われる。しようがない。お前が真摯に謝罪していることはよくわかるし、此度のあれはなかったことにしてやるよ。」
「あ、ありがとうございます!」
「それより、さっさとこんなところから脱出するぞ。」
「はっ。」
確かに。もはや寺んなかはどこもかしこも敵だらけだろうし。長居は無用だろうな。というか……。
利正はぐるりと辺りを見渡す。道場は壁も天井も床も、そこかしこが炎に包まれている。
……あぁ、そういえば。あんまよく覚えてないけど、確か殿下がこれやったんだっけ。まったく大胆というか……
「なんだその目は。」
「い、いえ。」
「……まぁいい。それよりどっちに逃げればよい。」
……一番早いのは、山門から石階段を駆け下りて、門前町へと逃げ延びることだ。さすればそこで馬でも借りて、悠々逃げおおせるだろう。が、さすがにそっちは固めてあるだろう。斬り結んで突破を図るのは、さすがに少々危険が過ぎる。
と、なれば。
「山に入りましょう。そのまま山向こうの村落へと落ち延びれば確実かと。」
それに山は道を知らずば、蔦に阻まれ命を落とす。無茶な追討はしないしできない。
「よし。道はわかるな。案内せい。」
やんごとなき身分の殿下が山入りを即断するとは……。
その驚きが伝わったのであろうか、殿下は口角をわずかに緩め言った。
「確かに私は貴族ではあるが、同時に将、しかも敗軍のそれだ。この程度、苦難にも入らんよ。さぁ、行くぞ。」
「おやおや、どちらに行かれるんです、で・ん・か?」
見れば道場の入り口に、いつの間にやら男が一人、赤覆面どもを従えて立っていた。頬骨が張り、目頭には小さな刀傷がある、ガタイの良い大男であった。
「すでに四度も逃げられてるんだ。いい加減おとなしくその首差し出されよ。」
「それはご苦労なこった。いい加減辞めたらどうだ?」
「毎度毎度、その場にいる者を鏖にして、後で確認したら殿下一人取り逃しているなんてのはもうこりごりなんだ。こんな木っ端ども、何人殺そうと手柄にはならんのだから。」
言いながら首領はどかっと床に転がる稚児の骸を蹴り飛ばす。
「殺れ。あの首、必ず持ってこい。」
赤覆面が二十人ばかり、その怒号を合図に駆け出す。
「殺れるな、利正。」
その答えには答えず、利正はずいと進みだす。床に転がる刀を拾い、上段から斬りかかる敵の刀を摺り上げて崩し、そのまま鍔元で敵の顔面をたたき割る。鈍い音が響き、どうと斃れる。
殺った。
異能に呑まれた時の余韻で感情が昂っていたのか、それ以外の感慨は湧かなかった。
さらにずいと進み、抜き打ちに一人斬った。さらに三度踏み込み、その度に敵が斃れた。一度は首を刺し貫き、二度目は胸を穿ち、三度目は斬り上げた。囲まれても防いで斬り、躱して殴り、捌いて突く。
なるほど、と利正が討ち漏らした敵を一刀の下に斬り伏せながら嗣憲は感心する。
崩れないとは、流れないとはこうも集団戦に強いのか。崩れないからこそ攻防の間に隙が無く、四方に死角がない。そしてそれが妙技体術と相まって万夫不当の戦いぶりを発揮してやがる。
「おい。もう貴様だけだぞ。どうする。」
「ははっ。舐めるなよ。たかが二対一になった程度で。たかが木っ端赤闇を蹴散らした程度で。俺に勝てると思うなよ。」
首領は両手に懐斧を握り、蟷螂のような構えを取る。
あの構えは……董堂一殺流かっ!
「気を付けろ。あいつは相当の手練れだ。……っておい!」
利正は聞いてなかったのか、あえて聞き流したのか、自然体でずんずん歩んでいく。刃を天に向けて剣を凝す。
「すかしてんじゃねぇ!」
踊りかかった。が、利正はそこにはいない。首領の背後にいた。
……斬り、抜けたのか。
首領が二つに割れる。血がざっと、利正が進んだ道を示すかのように赤い道を塗って降る。
「見事。」
『皇統紀』曰く、「煌帝、若年の来歴は不明なり。巷間言われしことはその多くが小説なり。ただ、伏光寺の惨禍の折に白天宮と見えしことのみは確かなり。後年、家臣と雑談せし折に側近が一人、世の噂として主上の遣いとして地に降りられたと言われていることを奏上すると、少々色を成し、間違いではないが誤りだと吐き捨てて座を蹴られたと伝われり。恐らくは恵まれた幼少では無きものと思われり。」
蔦……多年草の植物。無数のツタを、周囲の木々や岩石に巻き付けて成長する。ツタには微小の棘が無数についており、その棘に刺されると神経毒に侵される。微量ならば眩暈や立ち眩み、嘔吐や腹痛のみで済むが、多量だと死に至る。稀に羚馬などがこの毒にやられて死に、肥料として栄耀となる。
北羅帝……クガハラ民族の神話に登場する、天北を統べる阿修羅。傲岸不遜にして万夫不当の荒神であり、かつて地上で暴威を振るい、それに怒った極星と戦いになるも永劫の間戦い続けて猶決着が付かず、しばしの間天北を統べながら傷を癒やしていると伝わる。