ヴィクトリアマイル_合唱!内山田洋子と熱きクインテット(1)
「逃げろ!逃げろ!逃げろーっ!!」
「奈々ジョッキー、持たせろーつ!」
果凛と優はソプラノ・アルトの女声二部合唱を85インチ8K液晶テレビに響かせる。
スタートから3コーナーまで奈々騎手鞍上の10番人気のナルハヤは2番手に1馬身差を開き、逃げまくっていた。
5月16日土曜、新潟競馬第11レースのパールステークス、3勝クラス牝馬限定戦は芝1800mで雨中の激闘だ。
2番手以降はじわりと差を詰め、虎視眈々とナルハヤを躱すタイミングを狙っている。
4コーナーのカーブ、果凛と優の声援を受けナルハヤはインで先頭を進む。
1番人気のアンドラステはまだ中段だ。
後方集団が一団となりペースを上げて、ナルハヤを飲み込もうとする。
横殴りの雨が画面を流れる。
1000m61.3秒、これなら逃げ馬の前残りに期待か。
直線は何時捕まっても不思議ではないが、なかなか差は縮まらないが、開きもしない。
「奈々さん、あと少しだ!」
「頑張れ-、ナナちゃんーっ!」
「ナルハヤっ!頑張れ-!」
冴が立ち上がって漆黒の髪を揺らし、鞍さんが手でメガホンを作り、惠が前に倒れそうになる程に身を乗り出す。
三人の応援を受けて1馬身差を開き、200の標識をクリア。
何とか、逃げ切れるか。
シェアハウスのリビングに広がる、一瞬の安堵。
だが、気休めを打ち破る緑色の帽子、1番人気のアンドラステが猛然と追い込む。
『粘れ!粘れ!粘れ!粘れ!粘れ!』
住民五人の女声三部合唱、ソプラノ・メゾソプラノ・アルトのスタッカートが共鳴する。
アンドラステがナルハヤに並び掛けようとする。
『差すな!差すな!差すな!差すな!差すな!』
虚しいパッセージがゴール寸前まで、響く。
アンドラステが鮮やかに躱すと決勝点、人馬一体の素晴らしい競馬だ。
ナルハヤは2着で、先頭との差は3/4馬身。
「ああ、惜しかった…」
「…悔しいよぅ」
優が高音で口惜しがる。
「優はテノールもアルトもこなせるんだねぇ、不思議と」
「彼にはパッサッジョがないんだろうなぁ、妙だけど」
果凛と冴が、優の男声テノールも女声アルトも出せる声音が奇妙だという。
冴曰く、パッサッジョ、低音から高音に上がっていく時に歌いにくくなる音域がある、それが優にはないらしい。
珍しくもテノールもアルトもこなせるのだ。
「これもヒロコさんの指導のお陰ですかねぇ…」
「…合唱の練習成果ですかねぇ」と惠が『ヒロコさん』と鞍さんの友人の名を挙げる。
「まあ、ヒロちゃんはアンドラステの所属厩舎が好きで、このレースもアンドラステ推奨ですから」
鞍さんの友人、『内山田洋子』はその姓が似ている理由で、その厩舎のファンだという。
『新潟土曜メインのパールステークス、アンドラステは人気でも狙い目よ。5戦3勝、後は2着と3着。その3着は前走で同条件の3勝クラスでのもの。牝馬限定戦のここは勝ち負け』とヒロコは鞍さんにお勧めスマホトークを送っていた。
「でも、お見事は優くんと果凛ちゃんですね、ナルハヤ推奨でしたもの」
14頭立、10番人気が2着の結果に鞍さんは満足げだ。
優がナルハヤの前走、福島でのエールステークスの敗北を『昇級初戦でナルハヤには1F長い芝2000m。この日の福島は差しが決まる中で、荒れ気味の内側を果敢に逃げましたが厳しい競馬でした』と馬場と展開が敗因と分析した。
逃げ馬が好きな果凛が『今回は2走前にいいペースで逃げ切り勝ちした芝1800m、今のナルハヤにはベストの条件。調教は良い意味で平行線。馬場も開幕3日目の良馬場発表で、走り易くも雨で少し渋いのは向いている。ナナちゃんは新潟得意だし、女の子同士なら自分の競馬に持ち込めば、今度は粘りまくる』と推奨した。
馬券は2番ナルハヤと9番アンドラステの馬単のオモテウラを各5,000円だ。
馬単9番2番は4,140円と嬉しい的中だが、ナルハヤ頭の夢を見た。
馬券が的中すれば幸せなシェアハウスの住人たち。
鞍さんは10万馬券に続く中穴的中で、『奈々ジョッキーとは相性良いわね』と喜んでいた。
住民たちナルハヤと奈々ジョッキーへの『合唱』の声援を送った。
その成果かどうかは分からないが高配当的中である。
その『合唱』声援について、鞍さんは『ヒロコ』こと『内山田洋子』、近所に住む競馬ファンである友人との五日前の巡り会いを思い出していた。
****************************************
その五日前、5月11日月曜に話は戻る。
「鞍さーん、日曜のNHKマイル、どうだった?」
内山田洋子はシェアハウスの引き戸を開け放つなり、言い放つ。
黒いショートボブをバンダナで覆い、ジーンズに白いTシャツから出る日焼けした腕は男並みに頼もしい。
5月11日月曜午後、シェアハウスは誰も返事をしない。
「ヒロコだよー。注文のワイン、持ってきたよー」
勝手知ったるキッチンの左側、百本入るワインセラーにシャルドネの白を三本、メルローの赤を三本、隙間に押し込む。
帰りがけ、リビングのソファーが目に入る。
『今週はヴィクトリアマイルか、たまには週末の予想大会に参加してみるか』
そう思う洋子は長いソファーに身を投げ、『二十二歳はまだ若いけど、最近配達が多くて疲れるな』を吐くと、瞼を重くすると天井が消えた。
「ほら優、先に行く」
惠は両手で掴んだ両肩を後ろから押した。
足元がおぼつかない彼女から『リビングから女性の囁く歌声、素敵だけど哀しそうな恋の唄が聞こえる』と言われ、部屋から引っ張り出されていた。
「行くよ。先に行くから、押さないで」
背中の圧力に根負けした優がリビングに宣言した。
三人掛けのL字ソファー長辺に若い女性が寝ながら、綺麗な声で歌っていた。
優と惠は顔を見合わせ『知っている?』と首を横に振り、『知らない人?』と縦に首を振る。
若い女が素早く起き上がると、しなやかに両手を優の背中に回す。
ネコがネズミを狩るが如く、獲物を放さないぞと、腕が締め上げられる。
『ギャーっ』と優の驚きの叫び。
『嫌―っ』と惠の恐れの大声。
リビング一杯に二人の美爆音が響き渡る。
「二人ともいい声、してるねぇー」
優と惠の肺活量を確認した彼女は音質も嬉しそうに絶賛した。
「あら、ヒロちゃん」
外出からの帰りでマスクを取りながら『いらっしゃい』という鞍さん。
嫌そうに驚く果凛が買い物袋をぶら下げながら、それぞれに洋子を認めた。
「この子たち、新人さん?」
洋子は優に抱き付き、両手で背中を叩きながら、あごをしゃくる先の惠が無言で首肯する。
「そうなんだ。ねぇ、君。どうだった?NHKマイルカップ。鞍さん、負けたんでしょ?」
見知らぬ女性に競馬の話を振られた優が『えっ?』と戸惑いをみせる。
『ディリーワインだったんだから。勝ってたらシャブリとかサンテミリオン、フランス銘醸地の注文だったはず』と洋子は額を着けて『白状しろ』と念を押す。
驚きで口を広げた惠は洋子と優を震えながら指さしていた。
「ヒロちゃんの言う通りよ。外れちゃった」
鞍さんが『レシステンシアは買っていたけどね』と、女神の息吹を吐く。
「じゃあ、冴に騙されて差し馬を買ったんでしょ?」
『冴さんは差し馬好きだからね』という洋子は『君も後からの馬を買ったの?』と優を見透かす。
「まあ、サトノインプレッサかな」
鞍さんは苦笑交じりで白状する。
『先行馬には目を付けていたけど』と果凛が残念がる。
「果凛ちゃん、いたぁ」
お久しぶりと言いながら、今度はネコ科の俊敏さで洋子は果凛に背後から抱き付く。
とっさの行動で運動神経がいい果凛の防御が間に合わない。
華奢な果凛を後から抱き締めて、前に回した手で脇から胸の大きさを推し量る。
『相変わらず可愛い胸だねぇ』と満足する洋子に果凛は金髪ツインテールを『ヤメロ、ヒロコ』と左右に振る。
顔を赤らめた果凛の態度に『お構いなし』の洋子は頬ずりを始める。
「先行馬有利の状況で、前行く馬のチェックを怠ったのが鞍さんの敗因だよね?」
ニヤリと笑って問うと『果凛ちゃんは先行馬好きだよね』と同意を向ける洋子。
「そうだよ。だけど、先週は鞍さんも冴姉もオレの言うこと聞きゃしねぇ」
少し残念そうな果凛が吐き捨てるように言う。
「可愛そうに、慰めてあげるね」
果凛の顎を右手で軽く浮かす洋子。
果凛の目が見開かれる。
目を捉え切り、果凛を動けなくすると顔の影を落とす。
瞳を潤ませる洋子と果凛。
「痛って」
洋子が振り返ると、丸めた新聞紙を軽く掌で叩き、振り下ろす準備万端な鞍さんがいた。
「ウチの新人さんにちゃんと挨拶しませんか」
「う、ウチヤマダヒロコです。鞍さんとは幼馴染で。豊洲でワインと輸入食材がメインの店やっています。それで…」
ヒロコは美声を響かせ、優と惠に挨拶して、提案を述べる。
「…合唱しませんか」
「いいわねぇ」
手を叩きながら二つ返事の鞍さん。
「合唱って何ですか?」
「俺たちも合唱するんですか?」
驚き目を見開く惠と優。
「新人さん、何ごともチャレンジだよ」
右手を突き出して親指を二人に立てるヒロコに意を同じくするスマイルをみせる鞍さん。
出たよ、このシェアハウスの悪乗り大会が。
呆れ顔の惠と優はお互いを無言で慰め合うと、『仕方ないじゃん』と果凛は肩を落としながら呟いた。
「なんだ、二人、ヒロコに会ったんだ…」
ダイニングに優と惠を揶揄した冴の大笑いが響く。
ウチヤマダヒロコの突風が残っている数時間後、ダイニングで住人五人は夕食だ。
「私とはヒロちゃんが物心ついた時からのお付き合いでね」
鞍さん曰く、ヒロコの家族が一時期不和で、彼女と母親は親戚を頼って高校生活3年間を京都で過ごし、後に和解して東京・深川に戻ったという。
京都がどうこういう訳ではないが、思うところはあっただろうと、冴が想像する。
その頃、ヒロちゃんは淀、京都競馬場で関東馬を応援して無聊を癒やしていた、とは鞍さんだ。
冴が思い出していう。
「彼女、高校は合唱部でコーラスが好き。好きが高じてシェアハウスの住人に合唱を教えたがるんだよ」
この小説はフィクションであり、過去および現在の実在する人物・組織・馬などにはいっさい関係ありません。




