第3話 魔王の家
「『メゾン・ド・ディアベル』……ここだ」
走ってきた甲斐あって、十分も経たないうちに目的のマンションまでたどり着いた。何やら仰々(ぎょうぎょう)しい名前だが、チラシに書いてあったものと一字一句違わない。
「って、部屋番号書いてないじゃん……」
来るまで気づかなかったが、チラシには依頼人の名前も部屋番号も書かれていなかった。住所の欄にも、部屋番号までは載っていない。
とりあえずマンションのエントランスホールまで進んできてしまったが、なんとこのマンション。自動ドアもインターホンも付いていない。完全な行き止まりだ。
「(ってか、住人はどうやって出入りしてるんだ……?)」
もう諦めて帰ろうかなぁと考え始めたその時。
「あの、家庭教師に応募される方ですか……?」
と、いきなり声をかけられた。声のした後方を振り返ると、スーパーの買い物かごを持った女性が、何故だか怯えたような表情で立っている。
流暢に日本語を話していたが、一目で日本人じゃないことは分かった。腰まで届くほどストレートに伸ばされたサファイアブルーの髪に、透きとおるような琥珀色の瞳とくれば、外国の方であることは間違いないだろう。
「(うわぁ、綺麗な人だなぁ)」
小清水さんと同じくらいの身長なのに、受ける印象は全く違う。一番の違いは胸周りだろうか。豊満な小清水さんに対し、こちらの女性は凸凹はほとんどない。その代り華奢な体格が強調され、どこか儚げな雰囲気を醸し出している。男性の庇護欲を掻き立てるような美しさだった。
というかちょっと待て。
「(なんで買い物かご?)」
彼女の手に握られていたのは、近くにあるスーパーの買い物かごだった。側面に「SEI〇U」のロゴが刻まれているから間違いない。
スーパーで品物を買って、レジを通したら持参のマイバッグかレジ袋に入れるのは世界の──少なくとも日本では常識だ。外国では違うのかしらん、と思いながら一応指摘してみる。
「あのぉ」
「ひっ! ごめんなさいごめんなさい! すぐご案内致しますので、ヒドイことはしないでください!」
「え!? いや、別に君に何かするつもりはないよ!」
「……」
うっ、そんな人見知りの幼女のような目を向けられるとその決意が揺らいでしまう……って、違う違う!
「えっと、手に持ってるのって、西〇の買い物かごだよね?」
「えっ? そ、そうですけど……先ほどお買い物をしてきたところですので」
確かに、かごの中には様々な食材が入っている。
「……かご、持ち出しちゃったの?」
「……持ち出しちゃいました」
話しているうちに察したらしい。「買い物かごはお店から持ち出しちゃいけない」というルールがこの国に存在することに。サーッと彼女の顔が青ざめる。
「ど、どどど、どうしましょうっ! し、死んでお詫びすれば、店のおばさまもきっと魂までは取らないでくださるはずっ……!」
「いやいやいやいや早まらないでよ! 謝れば大丈夫だから! ってか、〇友の店員さんは死神じゃないから魂は食べないって!」
オロオロする彼女をなんとか落ちつかせ、とりあえず一緒にスーパーまで買い物かごを返しに行った。店長らしきおばちゃんにも「あらあら、外国人のお嬢さん! ぜーんぜんいいのよ、おほほほほ」と寛大なお許しをいただけたので、ひとまずこの件は一件落着としよう。
*
買い物かごに入っていた荷物は、二人で手分けして持つことにした。一人暮らしをして一か月ほど経ったが、大根を肩に担いで道路を歩くのは今日が初めてだ。ビニール袋が有料化されていたのが悪いのだ(僕の財布は家に置いてきたし、その女性も食材を買うのに手持ちのお金を全額使ってしまったらしい)。
「すいません、手伝ってもらっちゃって……」
卵や肉、そして缶詰などを抱えるようにして隣を歩いている青い髪の女性──いや、女の子はペコペコと頭を下げる。身長と初対面の雰囲気から勝手に「年上かも?」なんて思ってたけど、これまでの様子を見るにまだ高校生か同い年くらいだろう。彼女が求人広告にあった「高校一年生」の子、つまり生徒になるのだろうか。
「いいよ。あのマンションには予定があったけど、急ぎじゃなかったから」
「それなら良いのですが……。あの、家庭教師の応募に来られた方ですよね?」
「うん。って、あ。まだ自己紹介してなかったね。僕は奏真。火野奏真です。東京大学の1年生」
「奏真さん、ですね。私はサラと申します」
そう言って丁寧にお辞儀してくれる。はずみで卵が落ちそうになって再びあわあわしているが、もしかしてドジっ娘属性をお持ちなのだろうか。
「(それにしても、東大生ってとこには無反応かぁ……)」
ふむ、と心の中で思案を巡らす。決して「きゃー東大生なんですか! 素敵! 抱いて!」と言われることを期待したわけではない。断じて、絶対、万が一にもそんなことはないのだが、
「(家庭教師を頼みたいんだったら、ある程度は学歴を気にするもんだと思ってたけど……)」
やっぱり気になるのは求人広告の「科目:地球」の部分。家庭教師と言えば、普通子どもの成績を上げるために親が付けるものだが、この子の場合は何か特殊な事情があるのかもしれない。
「ねぇ、サラさん」
「はい?」
「サラさんは、どうして家庭教師を雇おうと思ったの?」
尋ねた僕の顔を「???」とはてなマークを浮かべた表情で見つめた後で、彼女は「あぁ!」と納得した様子でこう言った。
「違うんです。家庭教師を募集されているのは、私じゃなくてお嬢様の方ですから」
「……へ?」
……そういえば、サラさんは自分が家庭教師を頼んだなんて言ってなかった。見た目の年齢から、僕が勝手に「彼女が教え子になるのかなぁ」と思い込んでいただけだ。
「あ、着きました」
気づいたら、もう『メゾン・ド・ディアベル』の前まで帰ってきていた。「今開けますね」とサラさんがポケットからカードのようなものを取り出したが、さっき確認した限りではこのマンションのエントランスには自動ドアらしきものは見当たらない。
どうするんだろう、と見守っていると、サラさんは取り出したカードを何の変哲もない壁にあてた。すると、グゴゴゴゴゴッという音と共に壁が地響きを立てながら床に沈んでいく。
「……へ?」
「奏真さん、こちらです」
先を行くサラさんに導かれるままに迷路のように入り組んだマンションの中を進んで行く。ぽかんと口を開けながら大根を担いでいる僕は、端から見ればさぞかし間抜けに見えたことだろう。
幸いと言うべきか、エレベーターに乗り込むまで他の住民に出くわすことは無かった。エレベーターが動き出してようやく思考が現実に追い付いた僕は、溜まりにたまった疑問をサラさんにぶつける。
「え、オジョウサマってお嬢様だよね!? サラさんはメイドさん⁉ というかあの入口の扉は何⁉ ゴゴゴゴって! 最近のマンションはあんな感じなの⁉」
「そ、奏真様! 一度におっしゃられてもサラは答えられません~!」
僕の興奮した様子に怯えたのか、あっぷあっぷになったサラさんの顔がふぇ、とくしゃむ。慌てて「違うんだぁぁぁぁ! ほら、怖くなーい怖くなーい」と笑顔を浮かべて小さい子にするようにあやしてみたところ、サラさんはなんとか涙を堪えることに成功したらしい。
「ぐすん……と、取り乱して申し訳ございませんでした」
「ううん、こっちこそごめんね。びっくりさせちゃって……えっと、質問しても大丈夫?」
「はい……あ、もう着いてしまいました」
エレベーターの表示は最上階──32階に着いたことを表していた。サラさんがボタンを押してくれているので先に出ると、すぐ目の前に扉がある。
「その先でお嬢様がお待ちです」
後からエレベーターを出てきたサラさんが、「失礼しますね」と言って僕の前に立つ。再びポケットからカードを取り出し扉にかざすと、ガチャリという音が聞こえてきた。おそらく、開錠されたのだろう。扉を開けて室内に入る。
「ただいま戻りました」
「お、お邪魔しまーす!」
家庭教師として来たんだから、とはっきりした口調で挨拶をしてみたが、一秒、二秒……。反応はない。
「サラさん、そのお嬢様ってここにいるんだよね?」
「え、ええ。普段であればリビングでおくつろぎになっている時間なのですが……」
サラさんも「おや?」という表情を浮かべているが、とりあえず上がらせていただく。ドアを開けてリビングに入ると、
──セーラー服を着た女の子が、すやすやと寝息を立てていた。