第2話 ウマい話には……
「はぁ~。お金がないなぁ……」
ゴールデンウィークの中日。早朝からライブイベントのアルバイトをしていた僕は、13時間にも及ぶ労働を終えて、ようやく帰路についていた。
イベント関係のアルバイトは恒常的にある訳ではないが、その代わりにまとまったお金を一日で稼ごうと思ったときには打ってつけである。
「今日の稼ぎは……一万四千円か。これでスマホ代と水道ガス光熱費くらいは出せるかなぁ」
貰った給料の額を数え、スマホの家計簿アプリに入力する。一見大きな額のように思えて、毎月支払わなければならない額から比べれば微々たるものでしかないことを、一人暮らしを始めて一か月にして僕は学んでいた。再び「はぁ」とため息が漏れ出る。
僕──火野奏真は大学1年生だ。今年の春、日本最難関と名高い東京大学の文科2類に無事現役合格を果たしたばかりである。
中学時代に好きだった女の子に「あいつはバカだから~」と言われていたのを盗み聞きして以来、必死で勉強してきたのだ。高校では友人と呼べるほどの間柄の人も作らず、春夏秋冬朝昼晩、ずっと学校か予備校で勉強に明け暮れていた。
そのおかげで手に入れた「東大生」という肩書ではあるが……今のところこれが役に立ったと思える瞬間はほとんどない。塾講師のアルバイト面接がスムーズに終わったのはそのおかげかもしれないが、それもつい先日クビにされたばかりだ。
「安定したお金が毎月入る、いいバイトだと思ったんだけどなぁ……はぁ」
何度目かもわからぬ溜め息をつきながら、自宅への道を歩き続ける。最寄り駅から20分ほど歩いて、たどり着いたのは築三十年越えのおんぼろアパート、僕が住んでいる「ぼるく荘」だ。
熊本で父親と二人暮らしをしていた僕は、大学進学に合わせてかねてよりの希望だった「一人暮らし」をしたいと父親に切り出したのだが、
『そうか! いやぁ、奏真も独り立ちかぁ。寂しくなるなぁ。でも、大丈夫だ! 父さんも学生の頃は自分で学費も生活費も稼げてたんだ。東大に合格できた奏真なら簡単だよなぁ!』
と言われてしまい、「せめて学費くらい出してくれない?」と言うこともできないままに東京に出て来てしまった。念願の一人暮らしとは、何かが違う。
だって、大学生で一人暮らしだよ!? 彼女を連れ込んで朝までこう、夜のアバンチュールを夢見るのが自然でしょ! いったい、何が悲しくて朝から晩までアルバイトに精を出さなければいけないんだ。精の出しどころが違うと思うんですよ!
……あ、ちなみに東大生になったからといってモテモテなんてことは全くありませんでした。むしろ、高校時代勉強しかしてなかったせいでまともな人間関係すら築けてないわけでして。大学では絶賛ぼっち中です、はい。
改めて自分の現状を考えるとあまりに情けなく、とぼとぼとアパートの敷地内に入った。庭の掃除をしていた大家のおばちゃんと目が合ったので挨拶をし、階段を上がって二階の角部屋に向かう。最近では珍しくなったレバータンブラー式の鍵を開けて屋内に入ると、ドアに付けられた郵便受けにはチラシや市報、それに水道代の請求書が突っ込まれていた。
チラリとそれに目を通してから居間の机の上に置くと、引きっぱなしにしていた布団の上にダイブをかます。何とはなしにスマホの画面を点けると、LINEのメッセージが一件。
メッセージの送り主は、以前の職場で同僚だった小清水さんだ。
『火野くん、こんにちは!』
『お元気ですか? って、まだ最後に会ってから1週間くらいか(笑)』
『実は今日ね、神ゼミって塾でアルバイトの面接を受けてきたの!』
『これまでの経験のおかげで無事合格できたんだけど、面接の最後に「ウチの校舎、講師不足なんですよ~知り合いにやりたいという方いれば紹介してください」って』
『火野くんさえよければ、また一緒に働けないかなって!』
一通り読み終えると、「ふむ」と考え込んだ。悪くない話だ。「神ゼミ」は神奈川県を中心に展開している有名な個別指導塾だ。時給は千円程度だが、そもそもの生徒数が多いためたくさん生徒を担当すればそれだけ給料は高いものになる。
もう少し詳しく話を聞いてから決めようと返信を打ち込もうとしたところ、ピコンという通知音とともに小清水さんからの新着メッセージが飛んできた。
『あ、肝心な校舎の場所について言い忘れてたね!』
『おぉ、もう既読付いてる(笑)』
『校舎はね、横浜市の──』
送られてきた校舎名をマップで調べると、思わず「うへぇ」とうめき声が出た。このアパートの最寄り駅からだと、電車と地下鉄を使っておよそ一時間。ドアツードアで考えると、片道で一時間半は見ておかなければならない。週四か週五で通うことを考えると、移動時間があまりにキツ過ぎる。
小清水さんとまた一緒に働きたいという気持ちに後ろ髪を引かれつつも、仕方なく距離を言い訳に断る旨のメッセージを返す。すると、一分も経たない内に『やっぱりそうだよね……考えてくれてありがとう! 今度ご飯に行こうね! 絶対だよ!』という返事が来た。断ったことで気まずい雰囲気になったらどうしようかと一瞬心配していたのだが、杞憂だったようだ。
やり取りもひと段落したためスマホは充電器につなぎ、自分は布団の上で大の字になる。
「やっぱいいよなぁ、小清水さん」
久々に連絡を取ったことで、あの魅惑的な体が思い出されて変な気分になった。
いや、実はつい先日、小清水さんの体の軟らかさは身をもって体感したばかりのだ。前のバイトの最後の出勤日、塾長の奢りで連れていかれた飲み会の場でべろんべろんになるまで呑んだくれた彼女に背後から抱き着かれ、その豊満な胸を背中一杯に押し付けられたのだから。
その感触を思い出していると、自分の体の一部が実に健康的な反応を見せていることに気づいた。寝ている間に暴れられても困るし、ひとまず発散させておこうかと立ち上がったところ、先ほど机の上に置いたチラシ類が視界に入った。
「ん?」
普段ならそのまま古紙を入れる用の段ボールに突っ込んでおしまいなのだが、今日はそうしなかった。気になるものを見つけたからだ。
「なんだろ、これ。イタズラ?」
言いながら取り出したのは、なんの変哲もないA4サイズの白いコピー用紙。書かれている内容は非常にシンプル。しかも、手書きのようだ。このコンピュータ社会の中でなんとも珍しい。
「えーっと、家庭教師急募。学年は高校一年生で、科目は……地球? って、じ、時給八千円⁉」
内容のあまりの胡散臭かったためさっさと捨ててしまおうかと思ったが、そこに書かれていた給与の項目を読んで思わず目を見張る。
東大生の、特に医学部の連中で時給五千円とか六千円の家庭教師をしている人がいるのは噂レベルでは聞いたことがあった。だが、ここに書かれている額は八千円である。八百円じゃない。しかも、『平日は毎日入れる人希望』と書いてあるので、毎日一時間の勤務だとしても週に四万円の収入が見込めることになる。
「……いやいやいや! 落ちつけよ、僕」
金額に目が眩み、正常な判断が出来なくなっている自分を戒めるため、一度床に置かれていた座布団の上に座り胡坐を組む。ふーぅと一息つき、改めて用紙に書かれている内容に目を通す。落ちついてよく読んだ結果、僕が出した結論は、
「うん。イタズラか詐欺だね、やっぱり」
そもそも時給八千円も出せるような家庭が、なぜ今時コピー用紙に手書きの求人広告を出しているのか。そして、極めつけは「科目:地球」という記述。地学か地理との書き間違えではないかとも考えてみたが、どう考えても間違える字ではないだろう。
期待して損したとばかりに紙を丸めてゴミ箱に投げ込む──前に、もう一度だけ確認しておこうとくしゃくしゃにした紙を再度引き延ばした。
「……ここから十分くらいか」
マンション名と住所が、紙の右下に小さく記されていた。駅とこの「ぼるく荘」のちょうど中間くらいの位置だ。確か三十階建てくらいの、比較的新しめのタワーマンションだった……気がする。
「これは間違いなくイタズラだ。うん。筆跡からしてたぶん子どもだろうな。悪いことをした子どもは、見つけた大人が叱らなくちゃな」
チラシの時給の欄を見ながら自分に言い聞かせるように呟くと、玄関に脱ぎ捨ててあったスニーカーを履くやいなや、目的のマンションに向かって僕は走り出した。一刻も早くいたずらっ子を叱ってあげるために。
別に高時給のバイトを他の人に取られたくなかったからとか、そんな理由じゃないからね!