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第1話 東大生、無職になる。

「あー、火野ひのくん。ちょっと終業後に時間を貰えるかね?」

「え? いいですけど」



 大学に入学して早くも一か月弱。


 僕は自宅の最寄り駅の側にある進学塾で、塾講師としてアルバイトをしていた。男子にしては小柄な体格で、しかも童顔であるためか、生徒に「先生、本当に大学生なの?」とからかわれもするけど、そこそこ楽しく働いている。


 教師用のスペースでその日の授業準備をしていた僕に、普段は不愛想な校舎長の先生が声をかけてきたんだけど……何やら様子がおかしい。落ちつき無さそうに額の汗をぬぐっている。



「ちなみに塾長。それって、イイ話ですか? それとも……」

「……んんっ、私は今から保護者の方と面談をしなければならんのでね。悪いけど、電話とか来客があったら対応しておいてくれ」

「……うぅむ」



 そそくさと逃げるように去っていく塾長の、もはや肌色以外の部分を探す方が難しくなった後頭部を見送りながら、僕は心の中でため息をついた。


 すなわち、「ああ、これ絶対悪い話だ」と。


「なんか僕やらかしたかなー。もしかして早くもクビかなー?」などと頭の中で考えをめぐらせていると、ちょうど授業を終えてきたところらしい女の先生がやってきて、僕の隣の席に腰を下ろした。



火野ひのくん、お疲れ様」

「お疲れ様です、小清水こしみずさん」

「今日はこれから中学二年生の授業だったっけ? 頑張ってね」 


 挨拶を返すと、ニコっと笑顔を見せてくれた。持ち帰ってきた授業道具を机の上に置くと、「んぅー!」という声とともに上半身を後ろに反らし、り固まった体をほぐそうとしている。


 彼女は同僚の小清水春奈こしみずはるなさん。都内の大学の三年生で、この塾では一番古株のアルバイトだ。はきはきとした説明と、分からない生徒には付きっきりで指導してあげる優しさもあって、生徒たちの間での人気も半端なく高い。

 

 もっとも、



「(人気の理由はそれだけじゃないと思うけどなぁ)」



 じーっと見つめる僕の視線に気づかないまま体を伸ばし続ける小清水こしみずさんを見て、思わずゴクリと生唾なまつばを飲み込んだ。


 男女共に人気のある小清水こしみず先生だが、特に男子連中の本気度は凄まじいものがある。噂によると、この二年間で生徒から告白された数は、あわせて2ケタに昇るらしい。同僚からのも含めたら、両手両足の数ではとても足りないだろう。


 それも無理はない。小清水こしみずさんの──その、豊満な胸とほっそりとした腰、そしてスーツの上から見ても分かる柔らかさを持ったお尻のラインは、思春期の男子にとっては脅威きょういですらある。日本人らしくつやのある黒髪も、まるでうなじを強調するかのように後ろで一つにまとめられていて、男子ならばそのふさが揺れ動く度に視線が釘付けになってしまう。「歩くエロス」などと他の日にシフトに入っている男子の先輩が言っていたが、激しく同意だ。


 そしてただエロいだけではない。ぱっちりとした二重ふたえまぶたで、身長だって170センチ弱もある(悲しいことに僕とほとんど変わらない)美人さんなのだ。これで人気が出ない方がおかしい。


 僕がそんな不埒ふらちなことを考えているとは知るよしもない小清水こしみずさんが、ストレッチを続けながら話しかけてきた。



「さっき塾長先生とすれ違ったけど、火野ひのくんも聞いた? 今日の終業後に臨時ミーティングするって話」

「……あ、はい! なんかあまり良い感じの話っぽくはなかったですけど。小清水こしみずさんも呼ばれてるんですか?」



 上半身がらされたことで強調された彼女の胸に意識が集中してしまい、一拍いっぱく遅れて反応する。……視線、バレてないよね?


 それにしても、「ひょっとすると自分のクビ話かしらん?」と疑っていただけに、彼女まで呼ばれていることは意外だった。小清水こしみずさんは、「そうかあ。やっぱそうなのかぁ……」と難しそうな顔で考え込んでいる。



「何か思い当たることがあるんですか?」

「……火野ひのくんだからいいかな。でも、まだ他のアルバイトの先生たちには言わないでね」



 不安にさせちゃうから、と前置きした上で、彼女は声のボリュームを抑えて言葉を続けた。



「ここの教室ね、今年度いっぱいで閉室になるかもしれないんだって」

「閉室⁉」

「うん。うちの校舎、もうほとんど生徒がいないでしょ?」

「……そう、ですねぇ」



 確かに、と僕は最近の教室の様子を思い描いた。生徒の相次ぐ退塾。その一方で、体験に来る生徒や入塾した生徒にはほとんど心あたりがない。僕が今持っている中学2年生のクラスも、男子2名と女子1名の計3人。これではもう集団授業とは呼べない。


 前に小清水こしみずさんや他の社員さんが話していたのを聞いた感じだと、一年前くらいには集団授業であれば1クラスに10人くらいは最低でもいたとのことだから、この一年間でかなりの数の生徒が退塾したのだろう。



「最近、近くに映像授業専門の学習塾が出来たでしょ? 授業料が安いからって、向こうにお客さんがたくさん流れちゃってるみたいなの」

「……まぁ、分かりますけどね。最近の流行りですし」

「安い値段でプロの先生の授業を受けられるからね。仕方ないんだけど」

「……」


 自分も映像授業の予備校に通っていただけに、そこへ通う生徒を批判することはできないが、寂しさに似た何かを感じた。うまく言葉にできず、代わりに出たのは小さな溜め息だけだった。


 そんな僕を見て、小清水こしみずさんはあわててこう言った。


「だ、大丈夫よ! まだそうと決まったわけじゃないからね! もしかしたら、お客さんを呼ぶための作戦を皆で考えるための会議かもしれないし」

「……そうですね。実はサプライズで、僕の歓迎パーティーを用意してくれてるだけかもしれないですし!」

「それはこの前やったでしょ! もうっ。次は火野ひのくんからもお金取るからね!」



 顔を見合わせて、二人してぷっと吹き出す。沈みかけた雰囲気も変わったところで、小清水こしみずさんは「あ、私そろそろ次の授業に行かなくちゃ」と席を立った。


「行ってきまーす!」と教室に向かう彼女を手を振って見送ると、僕も自分の授業で使う教材の準備に取り掛かる。テキスト、プリント、ホワイトボードマーカー、出席簿──必要なものは全部持った。



「……とりあえず、やるか」



 小さくつぶやくと、ひとまずは目前もくぜんせまった授業を完遂かんすいするために、僕は生徒たちが待つ教室へと向かった。



 二十二時過ぎ。今日の授業がすべて終了し、生徒たちはみな帰宅した。


 残っていた教師達は教師用の部屋に集合させられていた。といっても、今日出勤していたのは僕と小清水こしみずさんの他に二人しかいなかったようだ。なんとなく雑談をするような雰囲気でもなかったので、気まずい沈黙が続く。


 その沈黙を破ったのは、ドアを開けて入ってきた塾長だった。



「すまんすまん、ちょいと用事が長引いてね」



 額に汗を(……もしかして反射した蛍光灯?)きらめかせながらきながら入ってきた塾長は、アルバイトの人たちが揃っているのを確認すると、咳払いを一つしてから今日の集まりの本題・・をいきなり口にした。



「さて、本校は今月末をもって閉校となる」



 再び、沈黙が場を支配する。その場にいるアルバイト全員がぽかんとした表情を浮かべていた。



「ちょ、ちょっと待ってください!」



 いち早く反応したのは、小清水こしみずさんだった。



「今月末って……もうあと一週間もないじゃないですか!」

「……正確にはゴールデンウィーク明けだがね。四月の最終週で授業自体は終了の予定だ」

「なっ……! どっ、どうして⁉ あまりにも急すぎます!」

「本当に申し訳ない。私も、本部から聞かされたのはつい数日前なんだ。テナントの契約期日とか、色々な要因があっての決定だそうだ」

「そんな…………」



 愕然がくぜんとして、小清水こしみずさんは二の句をげなくなる。いくつかの情報が出てきたおかげで、多少動揺が収まった僕が代わりに質問した。



「塾長。今うちの校舎にいる生徒たちは、どうなるんですか?」

「彼らは、隣の駅の系列校に移籍してもらいたいと思ってる」

「……塾長は?」

「私も生徒たちと一緒に移動だ。心配しなくても、子どもたちの面倒には私が責任を持つ」

「そうですか」



 淡々(たんたん)としたやり取りではあったが、塾長の言葉で僕は少し安心していた。経営上の理由はあるのだろうが、また一から塾を探さなければならないとあれば生徒たちやその保護者の負担も少なくない。それに、せっかく塾で出来た友達と引き離されてしまうのもかわいそうだ。



「他に質問はあるか」と聞いた塾長の視線を受けて、今まで沈黙を保っていた先輩の一人がこう尋ねた。



「我々アルバイトはどうなるんですか? そちらの校舎でまたやとっていただけるんでしょうか?」

「……そうだ、それを始めに言わなければいけなかったな」



 そう言うと、塾長はしきりに汗をぬぐっていたタオルをズボンのポケットにねじ込むと、教師らしいはっきりとした発声でこう告げた。



「本校のアルバイトの学生たちは、本校の閉室を持って契約解除とする」


 今まで本当にありがとう、と塾長は深々と頭を下げた。


 大学に入って一か月弱。こうして僕は、最初のアルバイトをクビになったのだった。


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