9 エドマ
エドマは屋敷を飛び出して裏庭にある木枠のアーチを走ってくぐった。左右に綺麗に刈り取られた緑の腰ほどの高さの木々に混じって咲く秋咲きのバラが、少しずつ落ちて庭にまた別な彩りを与えている。
でも今のエドマは、そのような風景に心踊らされる心境ではなかった。スミレ色のドレスが汚れるのも気付かず、ただひたすらに庭園の中央に位置する四阿に駆け込んだ。
細い四本の円柱に支えられてドームになっている四阿に付属している長椅子に突っぷすと、いつの間にか霧のような雨が降って来た。
遠くで母が弾くショパンが聴こえる。
その柔らかな慈しむような音色に、エドマは耳を塞いだ。
なぜお母さまは反対してくれないの?!
お母さまだって、お母さまだって、
将来を期待されたピアニストだったのに!!
コルネリー・モリゾはかつて、フランスの音楽界で名を知らぬ者は居ないピアニストだった。幼い頃からその才を発揮し、一時期は神童とまで言われたほどだ。
しかしながら当時の貴族達の間からは女性の職業ピアニストは一人も出しては居なかった。
貴族たるもの、音楽は嗜み程度。それを職としてもつのは平民の仕事。という風潮だったのだ。
音楽界の中では女性初の職業ピアニストが誕生するかもしれない、という気運が高まっていた中、コルネリーはあっさりとモリゾ家へ嫁いでいった。
それからぱったりとピアニストとして表舞台には出なくなったのだ。
様々な憶測が流れたが、ティビュルス・モリゾの隣で穏やかに笑うコルネリーの姿を見るにつれ、やはりコルネリーにとっても嗜みであった、という噂が流れ、終着となったのである。
だが、エドマは知っていた。
コルネリーが今もほぼ毎日ピアノに触っている事を。嗜み程度ではとても弾けない情熱をもって相対している事を。
あの年になっても。
その母からの言葉は痛かった。
母ならば、反対してくれるのではと思っていた。かつて、自分と同じように夢を追っていた母ならば。
一番自分の気持ちを分かっていてくれる、母ならば。
しかしエドマの希望は絶たれた。
小刻みに震えるエドマの背後に、コト、という音と共に人が入ってきた。
目をやると、カロンがコウモリ傘を畳み、ポットカバーが掛けられた紅茶を持ってきてくれていた。
ガーデンテーブルにトレイを乗せると、カロンはエドマの側にかがんだ。
「……泣きますか? ご要望とあらば胸を貸しますが」
エドマはカロンを見た。
その整った眉の下の目は、いつもと同じ、静かな黒とも焦茶とも言える瞳。
エドマは伏した身体をのろのろと起き上がらせる。
「……泣けないわ」
円形の壁にそって綺麗に加工されたベンチの背もたれにぐったりと身体を預けて、ぼそりと言う。
「……不思議なほど、泣けないわ。こんなに、胸は苦しいのに……」
ぐしゃりと、胸元が潰れるぐらいドレスを掴む右手が、怒りと悲しみを訴えるのにも関わらず、涙は一滴も流れなかった。
心が、無いのかもしれない。
私の、絵への執着は、こんなものなの?
足掻いても逃れられないから?
苦しげに顔をそらすエドマに、カロンは静かに言う。
「心が苦しい時ほど、泣けぬ時もあります。泣けぬ、という事でご自分を責めるのは、お門違いですよ」
その物言いに、エドマはふっと笑った。
「カロンは……相変わらずね。普通は慰める所なのに」
「その役割は私ではありません」
「ふ、ふふっ……ではどなたなのかしらね……」
それにはカロンは答えずに、かがんでいた身体を起こしてティーポットから湯気の立つ紅茶をカップに注いで手に持たせてくれた。
その暖かな湯気が、エドマを慰めた。
こくり、と一口飲むと、芳醇な紅茶の香りの中に少しだけオレンジの香りがする。
「……オレンジピール」
エドマが呟くと、カロンは頷いて鎮静効果があります。覚えておいて下さい。と言った。
エドマがその物言いにふと顔を上げると、思いの外真剣な瞳があり、戸惑う。
「あちらではエドマ様の趣味嗜好を知る者はおりません。ご自分でご提示なされますよう」
嫁ぎ先での振る舞いを言われているのだ知り、またぐしゃりと顔を歪ませるエドマに、カロンは少しだけ掠れた声で言った。
「……あちらには、私は行けませんので」
「まだ嫁ぐと決めてもいないのに……」
「……決まりましたので」
心が張り裂けそうだった。
大好きな人達と別れて嫁ぐ、という現実を突きつけられたようだった。
今までただ、絵が描きたいから嫌だと言ってきた。子供のように、今まで許して貰えていた我儘を言うように。
言えば通ってきた。甘やかな我儘。
現実は違うのだ。
子供の我儘が通る世界ではないのだ。
エドマが、嫁ぐ先は。
ひくっと喉がなった。
呆然となった主人を前に、侍従はただ離れずに側に居た。冷え切った紅茶をテーブルに戻し、戻るわ、と呟いたエドマに、かしこまりました、とエスコートするカロンは大振りのコウモリ傘を広げた。
一つの傘の中に入る二人に言葉はなく、ただ静かに屋敷へと戻る足音と、少しだけ本降りとなってきた雨音だけが響くばかりだった。