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8 母のピアノを聴いて

 


 エドマ達が階段を降りていくと、もうピアノの調べが聴こえてきた。

 穏やかな、しかし抑揚よくようのある旋律にエドマは一瞬にして囚われて、歩みを早める。

 すると隣で同じようにベルトが小走りになった。


 二人で顔を見合わせると、競争するように食堂を抜けて居間の方へ駆けて行く。


 エドマとベルトは、黙って自分の定位置のソファに座った。エドマはピアノに近いソファに。ベルトはピアノから遠いソファに。


 母であるコルネリー・モリゾは二人の姿を認めると、弾きながら口元だけにこりと笑ってすぐに音楽の世界に入っていった。


 右手が柔らかく弧を描くように左右に動き、左手が温かい和音を添えていく。


 エドマは母の指の動きを見るのが好きだ。

 複雑な音を奏でているのに、それを感じさせない流れるようなタッチ。何度見ても飽きない。


 対してベルトは比較的ピアノから離れて聴きながら目を瞑っている。

 寝ている訳ではないのは、音楽にのって少しだけ動く身体が物語っている。


 コルネリーはそんな二人の様子を肌で感じながら、音の流れに身を任せる。

 自分は陶酔しないように抑え、二人をショパンの世界に導くように。



 最後の力強い和音からふわりと手を離すと、二人は嬉しそうに拍手をしてコルネリーの側へ飛んで来た。


「素敵ね、お母様! この曲初めて聴いたわ。ショパンよね?」

「そうよエドマ。やっぱり分かる? 彼らしい旋律が散りばめられているわよね」

「凄いわね、荘厳そうげんな雰囲気と柔らかな雰囲気と、合わさっているのに違和感が無い」

「ベルトは相変わらず評論家みたいねぇ。バラードの一番よ。やっと挑戦ができたわ」


 コルネリーはそう言うと、愛おしそうに柔らかな旋律を奏でた。


「こんな素敵な曲、今まで内緒にしていたなんて。もっと早く聴きたかったわ」


 エドマが少し興奮したように言うと、コルネリーはあら? とゆっくり笑って言った。


「ピアノはテクニックが伴わないと次のレベルの曲にはいけないのよ? あなた達もやっているのだから知っているでしょうに」

「あ……そう、でしたね」

「あああっと、私、まだ地塗りの途中だった! 母さま、姉さん、お茶はお部屋に持ってきてって言っておいてね、じゃね!」

「あ、あ、ベルト、ず、ずるいわ」


 ベルトはさっと身をひるがえしてあっという間に食堂の方へと消えていった。

 その横でコルネリーはいそいそとエドマ用のピアノ椅子を自分の椅子の隣に置いた。


「さー、エドマはいまどの辺り? ベートーヴェン? シューマン? それともリストまでいったかしら??」

「お母さま知っているくせに……バッハです……」

「聴かせてちょうだい? どれだけ弾けるようになったのか見たいわ」

「いえ、あの」

「いいから、はい、弾く。 お客さまがいるつもりで一回演奏するのは、百回練習をする事よりも意味があるのよ? さあ、座って」


 これだったかしらね〜、とコルネリーが嬉しそうにバッハの楽譜をピアノの譜面台に立てるのを見て、エドマは逃げるのを諦めた。


 週に一回はピアノのレッスンをしているが、気の無いエドマは練習もレッスンがある前日にちらっとやるぐらい。ベルトに至っては当日気が向いたら触る程度なので、先生も母もさじを投げている。


 ひどい演奏になるのは目に見えていたけれど、こうなった母は娘がピアノを弾くまでテコでも動かない。


 お茶の用意をして居間に足を踏み入れたメイドも、その様子に気づいてさっとまた下がってしまった。


 母は先程ベルトが座っていたソファに座って、どうぞ、と言った後、目を瞑った。

 エドマはため息をついて、楽譜のページをめくり、いま習っている譜面を出して、深呼吸をしてから弾き始めた。


 バッハは二声(にせい)といって右手と左手で絡むように弾くものから、三声(さんせい)、両手を駆使して三つの音の流れをつくるものまで様々な曲がある。


 エドマは三声の曲をやっと挑戦したばかりだった。

 楽譜の前半はなんとか弾けても、後半になると曲自体がまだ頭にも身体にも入っておらず、右手は弾けても左手がおろそかになり、三つの音が二つになったり、ひどいと数小節左手がおぼつかなくて音が無くなってしまったり。

 右手だけがかろうじて最後まで弾けたので音楽の流れが止まる事は無かったが、最後の一音を弾いたあとは冷や汗が止まらなかった。


 パンパンパンパン、という軽快な拍手と共に、コルネリーがにっこり笑った。


「止まらないでいけたじゃない? 上出来だわ」

「お母さま……」


 おべっかを言われても嬉しくないわ、と口をへの字にして涙目で言う娘に、コルネリーは嬉しそうに頷いた。


「それだけ分かっていればこの練習の意味があったと言うものよ。自分の出来なかった事、あったでしょ? 言ってみて?」

「後半の左手がまったくついて来なかったわ。まだ左手が覚えていないと思う」

「そうね、それもあるけれど……響きを意識出来ていないから曲自体がまだ飲み込めていない、と思うわ。右手、左手と練習した後に両手の響きの変化をゆっくりと弾いて追っていくといいんじゃないかしら」

「そんなお母さまみたいに耳がよくないもの、わかるかどうか……」

「ゆーっくりでいいのよ、和音の響きを感じるだけでいいの。バッハを好きになる第一歩」

「……わかったわ」


 しゅん、となったエドマに、やだわ落ち込まないの、とコルネリーは肩を抱く。


「見込みがあるから言ってるの、ピアノはあなたが有望株なんだから、頑張ってほしいわ」

「ベルトは私よりも練習しないから」

「そうそう、あの子の場合はピアノの席に座るだけでも上出来と言わなければならないでしょうね」


 呆れたように言うコルネリーと顔を見合わせて笑うと、タイミングよくメイドがお茶の用意をして居間に入ってきた。


「ごめんなさい、アンネ、二度手間にしてしまったわね」

「いいえ、奥様、とんでもごさいません」


 お茶を二度いれさせてしまった、と気遣う言葉に、アンネは嬉しそうに言葉少なに答えた。

 ピアノの側からソファに移ったコルネリーの後にエドマにも給仕をしてくれて、エドマもありがとう、と声をかける。

 アンネはまた嬉しそうにいいえ、と微笑んでローテーブルに数種類のクッキーを置いて側に控える。


 緊張で喉がからからになったエドマは、程よい熱さで入れられた紅茶を一気に飲むと、肩で息をついた。アンネがお替わりをどうぞ、と声をかけてくれるので、お願い、と頼んだ。


 人心地ついた所で、コルネリーがねえ、エドマと声をかけた。


「なあに? お母さま」

「ピアノのレッスンを週二回しようと思うのだけれど、どうかしら」

「ええ?! いくらなんでもそれは、ベルト、持たないわよ? 週一回でもなんとか我慢しているのに」

「ベルトはいいの。あなただけ」

「私だけ?」

「嫁ぐまでにはやはり三声は仕上げておいた方がいいわ。何か弾いてと振られた時に、バッハがきちんと弾けていれば、まずまずね、とお客様からも思われるから」

「お母さまっ」


 エドマは思わず口につけていたカップをカシャンとソーサーに戻した。


「私、まだ結婚すると決まったわけでは……」

「決まったわ、お父様がもう()れを出されたの。ポンティヨンさまとも略式とはいえお顔もお互い見合わせたという事で」

「私はお返事をしていませんっ」


 思わず立ち上がったエドマに、コルネリーは座りなさい、と諭した。アンネが慌ててエドマの持っていたカップをそっと預かる。


 ぶるぶると拳を握りしめて立っているエドマを見て、コルネリーはローテーブルに飲み終わった紅茶を置き、居住まいを正した。


「エドマ、今までなるべくあなたが自由に健やかに過ごせられるように努めてきたわ。あなたの意見も尊重してきた。でも今回はそれが通らない。結婚は違うの、本人の意思はまかり通らないのよ。私も、イヴもそのように嫁いで行ったわ」

「姉さんは元々結婚願望があったからっ。私には無いわ、絵を描きたいのっ」

「お父様もエドマの事を思って、絵に理解がある人を見つけて下さったわ」

「理解など!」


 エドマは今日のポンティヨンを思い出して首を横に振る。絵をどうやって描くのかも知らない。スケッチから油彩の流れもピンと来ていない。とても理解があるとは思えない。

 エドマは手を前に出し、身を乗り出して母に訴えた。


「やっとサロンに入選し出した所なの、毎年出さないと忘れられてしまう。私の絵が認められつつある時期に結婚だなんて、画家としての将来を棒に振るものだわっ」


 ぶんっと拳を振り下ろして自分の腿を叩く娘に、コルネリーはしっかりと目を見据えて言った。


「結婚しても画家として生きていけるかはあなた次第。熱い想いがあれば、と言いたい所だけど、正直言って蓋を開けてみないと分からないわね」


 母はそう言うと、苦く笑った。そして少しだけピアノに目をやる。


「私もピアニストを続けるつもりで息巻いてこの家に嫁いできたけれど、なかなか、ね」


 そしてコルネリーは、とても愛おしそうにエドマを見た。


「まあ、子供達が可愛すぎるっていうのが最大のネックだったわね」

「お母さま……」

「まあまあ、私の事はどうでもいいわ。とにかく決まりは決まりなのよ。あなたがどうこう言っても変わらない。そうなったならもうその様に切り換えて行きましょう?」


 コルネリーは軽く肩を上げて仕方ないでしょう? と穏やかに笑った。

 エドマは、ただ黙って首を振る。

 エドマ、とコルネリーが宥めようと立ち上がって手を伸ばしたのを避けるように、横にずれると、お嬢様っと声をかけるアンネの手も振り切って食堂を抜けて玄関を出て行った。


 慌てて追おうとするアンネに、いいのよ、大丈夫、とコルネリーは止めた。


「ですが、奥様」

「廊下に控えてたカロンが追ってくれているわ。それに……一人で考える時間が、今は必要なのよ」


 そういって娘が駆け抜けていったドアを目で追いながら母は伸ばしかけていた腕を戻す。

 交差するように絡めて組んだ手が思いの外きつく結ばれていた。

 その事に気付いたコルネリーは少しだけ困ったように苦笑する。


「一人で向き合う時、なのよね」


 白く筋が浮き出てしまった指をさすりながら誰にも気づかれぬよう、深くて重い、溜め息をはいた。






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