7 エドマとベルト、そしてカロン
エドマがルーブル美術館から屋敷へ戻り、クレマンの出迎えもそこそこに自室にこもると、カロンが奥様がお茶にされるとの事です、とすぐに呼びに来た。
クレマンかカロンが今日の事をお母様に言ったんだわ、とため息を吐く。
しかしここに居てもどうしようも無い気持ちになるばかりだったので、エドマは頬づえをついていたソファから身体を起こした。
廊下にでると、隣の部屋をカロンがまだノックしている。ベルトの部屋だ。
「ベルトは帰っていたの?」
「はい、エドマ様より少し前にお帰りになっていたようです。ですがお返事がなく」
「カロン、たぶん、アレよ」
「……またでしょうか」
「ムッシュー・マネの所から戻って来たばかりでしょう? 間違いないわ。私が入るわね」
「お手数をおかけ致します」
律儀に礼を言うカロンに苦笑して、頷く。
カロンとは主従関係とは言え、小さい頃からずっと側にいて暮らして来た少し年上の幼馴染みのようなもの。
小さい頃、大人が居ない所では屈託無く笑い合って遊んでいた仲だ。誰も見ていない時ぐらい、砕けた言葉で話してもいいのに、とエドマは内心思っているし、いつぞやそのようにエドマとベルトと三人の時に言った事もある。
その時ばかりは普段は何事にも冷静であるカロンが、整えた眉を器用に片方だけ動かし苦笑して、そのお気持ちだけありがたく頂戴致します。と言葉を崩さずに言ったのだった。
今も、廊下には誰も居ない。
(少しぐらい昔みたいに話してもいいのに……いつか言ってみようかしら)
最近はベルトがマネに呼ばれて行ってしまうので、カロンと一緒にいる時間が多くなった。あまりにも固すぎるカロンとの会話に、少し疲れてもいた。
また次回、ルーブルに行った時に言おう、そう心に決めて、エドマは気持ちを切り替えてベルトの部屋のドアをノックした。
もちろん返事は無い。
「ベルト、入るわよ?」
返事を待たずして開けると、ふわっとキャンバスと油絵の具独特の匂いがした。ベルトが無心にひし形のペインティングナイフでキャンバスに青の色を塗っている。
「ベルト、お茶の時間よ、お母様が呼んでいるわ」
「……」
ベルトは返事をせずに塗りたくっている。エドマは一つ息をついて、カロンの方へ振り向く。
「カロン、あと十五分後に行くわ、そのように伝えてもらえるかしら。キャンバスの四分の三は塗り終えているから、それぐらいの時間で居間に向かえると思うわ」
「かしこまりました」
「悪いわね」
「いつもの事ですから」
悪いわね、とベルトの方を見ながら言った言葉への返しが普段とは違って親しみが込められていて、エドマはふと顔を上げる。
いつものような感情を抑えた表情ではなく、少しおかしそうに苦笑していた。
あ、今かもしれない。
エドマはふとそう思って、ルーブルの時に言おうとしていた言葉をすっとカロンに告げた。
「カロン、いつもそのようしてくれればいいのに」
「はい?」
「前にも言ったけれど、あなた、少し固すぎるわ。私達、幼なじみみたいなものでしょう? 人前では難しいけれど、ベルトと私の三人の時ぐらいは昔みたいに話してくれていいのよ?」
「ご容赦を」
「なぜ?」
不思議そうに聞くエドマを見て、カロンは普段の微苦笑ではなく、苦く笑った。
「身分が違いますので」
「だから、人前じゃなくて……」
「一度」
エドマの言葉にカロンはかぶせて強く言葉を発した。
「一度癖をつけると、たがが外れた様になし崩しになってしまいます。私は終生モリゾ家に仕える身。そこは譲れません」
久しぶりに、カロンの本気の言葉を聞いた気がした。今まで会話をしていても、のらりくらりと当たり障りのない言葉を聞かされていて、エドマはとてもつまらなく思っていたのだ。
エドマはにっこりと笑ってカロンに頷いた。
「それ、それでいいわ。言葉は固くてもいいから、カロンの言葉で話して。じゃないと息が詰まってしまうもの」
「エドマさま……」
その言葉にカロンは整った眉を片方だけ器用に上げてため息をついた。
「本来の私は辛辣ですが、よろしいのです?」
「知ってるわ。小さい頃いじめられていたもの」
「言葉が過ぎます。ぼんやりとしている貴女をけしかけていただけです。いじめたなどと、人前でその様に申されない事をお願いしたいですね」
「あら、もしかして弱みを握れたかしら?」
くすくすと笑っていると、ベルトがいつの間にか背後から来て、楽しそうね、混ぜて! と声をかけてきた。
「ベルト、終わったの? 相変わらず早いわね」
「姉さん、聞いて! ムッシュー・マネは地塗りに青を使っていたのよ! 上に乗せる色は黒なのに! でも重なり合うと不思議な色の黒になるの。凄いわよ、黒の魔術師だわ、色んな黒を表現できるの……」
そう言いながらベルトはマネの絵を眼裏に思い描いたのか、そのはっきりとした二重まぶたを薄く閉じ、天井と壁の境目を見るともなしに見ている。
エドマが、よくモデルをしながらそんな所まで見れたわ、と呟くとベルトはパチパチッと大きな目をすぐに見開き、あっけらかんと言った。
「やだ、姉さん。モデルをしている時は無理よ。休憩している時とか、行き帰りのちょっとした間に盗み見るに決まってるじゃない」
「ベルト、盗み見るだなんて……」
「姉さん、私は何でも吸収したいの。モデルの時は話してはいけないし、モデルが終われば用済みのようにすぐ帰りなさいとも言われるし、なかなかキャンバスを見るチャンスが無いのよ?」
ベルトは両腕をぐーんと伸ばして肩のコリを伸ばすと、その手を前にもってきて、はー、とため息をついた。
「本当にただのモデルなんだもの。絵にちょっと興味がある令嬢という扱いで嫌んなる。本気の議論したいのに、その時間もないのだもの」
「だって、あなた、絵のモデルとして頼まれたのですもの、それ以上でもそれ以下でも無いはずよ?」
「私はモデルもするけれど、画家なのよ? その意識が彼にないのがイライラするの!」
エドマはそうね、と相づちを打ちながら部屋を出て廊下を歩く。カロンが時計を見て、エドマさま、ベルトさま、そろそろ、と言ったからだ。
「まだ私達はサロンに入選して二年ぐらいだから、ご存知ないのかもしれないわよ?」
エドマはベルトと並んで歩きながらそう言うと、妹は違うわよ、と肩をいからせながら腕を組んだ。
「私が女だから画家として見ていないのよ」
ベルトは強い口調でそう言い放つと、右手の親指の爪をカシッと噛んだ。