6 アドルフは猫のように笑う
木漏れ日が差し込む長廊下の先に、海軍本舎とは別に作られた木造平屋の家屋から、鋭い呼気が絶えず聞こえてくる。
「ラッサンブレ、サリューエ」
板張りの訓練場の中、アドルフ・ポンティヨンは主審の声と共に、ザッと右手に木刀を持ち、左手を背中に当て、敬礼をする。見知った相手の整った敬礼を見、主審の声を待つと、すぐに声がかかる。
「アン・ガルド」
声と共に足元にあるマスクを被った。
視界が狭まる。金属の網の目から見る同期の構えに、アドルフはにやりと笑った。
「エト・ヴ・プレ?」
「ウイ」
主審が両者を見て頷く。
「アレ!」
ガキンッ
右からブワッという風と共に入ってきた剣筋に合わせてアドルフは剣を左斜め前にして受ける。
ぐぐぐっと力を入れてくる相手をいなしながら逆に右肩をど突いて距離を取ると、よろめきながら相手も間を取った。
少しだけ腰を落として木刀を中心より右に構えようとしているのが見えた瞬間、シュッという呼気と共に右斜め下から胴に向けて斬撃が来る。
アドルフが剣を縦にして跳ね退けると、それを見越した相手の剣が跳ね上げた軌道を利用して握り返した刀で右首筋を狙って来た。
ガガッ!
相手の癖を読んでいたアドルフは右に振った剣を返して真正面から受け止めると、エックス字のように重なり合った双方の木剣がギシギシと鳴った。
アドルフより少し細身の肩が僅かながら上がっている。網の目越しの眼は爛々と光っているが、その口から吐き出される息は荒い。アドルフの口角が上がっているのが見えたのだろう。
チッという声と共に力が込められて、力押しにダンッと左肩に身体をぶつけて来ようとしたので、僅かに身体をずらして後ろへ飛びずさった。
相手もたたらを踏む身体をすぐさまアドルフの正面に向けて剣を構える。
ズリ、ズリ、とお互いに距離を取り、切っ先を振りながら右回りに動く。やがて相手がぴたりと止まった。少しだけ右足を出し、左手が僅かながらにピクリと動いた。
ブアァァと殺気で気配が揺れる。
それ見て、アドルフは口の中だけで呟く。
「癖というのは」
グワッと相手が低い姿勢で走ってくるのに合わせてアドルフも走る。アドルフの右肩を狙って繰り出された突きを、にやりと笑いながら右に避けた。そしてすぐさま左に床を蹴る。
「直らないものだ、なっ」
突き体勢から戻らない相手の間合いに入り、左下から小手先を狙って一気に剣を跳ね上げた。
カランカランという音と共に体勢を崩して片膝をついたアシル=クロード・デュカスの首筋にビュッと木剣を当てると、主審が、そこまで! と試合の終了を告げた。
「かー、負けたっ! お前、途中で笑ってただろう。胸くそ悪いヤツめっ」
「ははは、最初から笑ってたさ。君の士官学校の時からの癖、変わってなかったからね」
「その嘘笑いやめろっ、かーーーーっ、頭にくるぜー」
悪態をつきながらもアシルは保護マスクを外したアドルフがさし出した手を思いっきり引っ張って起き上がる。
それもまた負けた時のアシルの癖なので、アドルフは力を入れて引き上げた。
「くっそ、前の船の奴らはこれで転がったのによー。久々にポンが転がる姿を晒してやろうと思ったのに」
「そんな事考えてるのは君だけだと知っているから転がらないんだ。お帰り、アシル。変わらないな」
「おう、今回は長かったぜー」
マスク片手に二人で壁に付随している固い板のベンチに座る。
アシル=クロード・デュカスはアドルフの士官学校時の同期だ。身分と身長差が近い事から部屋も同室で、訓練の時もよく二人で組まされて文句を言いつつもどつきあって切磋琢磨した仲である。
卒業後は配属された艦が違うので、それぞれの航海が終わると、示し合わせて訓練場で汗を流し会うのが常であった。
「極東に配属されなかっただけましだろ。アレに配属された奴ら、青ざめてたからな」
「ああ、リリーとアンジェルとそんなに離れるなんて耐えられねーだろ。あっちでの訓練期間を考えると二、三年は帰ってこれねーからな。ただいまって帰ったら、誰このおじちゃん、だろ? 死ぬわ」
「違いない」
くくっと猫の様にくしゃりと笑ったアドルフを見て、普段からその顔で笑えよ、とアシルは苦笑いをする。
「素で笑うと意地くそ悪いのがばれてしまうだろ。それは本意ではないな」
「結婚相手には見せておいた方が楽だぞー。俺んとこみたいに愛のある結婚ならな。婚約したんだって?」
「ああ、いよいよ逃げられなくてね。ここに来る前に顔を見てきたよ」
「へー、独身貴族を謳歌していたポンが足繁く通うとはねー。花街のお嬢さん方が聞いたら一悶着ありそうだー」
「いや、解決済み。張り手の嵐だったよ」
「嘘つけ、一ヶ月前に航海から帰ってきたばっかりのくせに」
「二週間で清算してこいと言われたらね」
「かー、目も当てられねーなー。ま、取っ替え引っ替え摘んでいたお前も悪いがな」
「言うね。結婚前の話を奥方に暴露してみようか、そうしたら私の張り手の痛さを分かってもらえるな。よし、今から話しに行こうか」
「じ、冗談きついぜ、勘弁してくれよっ」
士官学校の時は起床から就寝まで厳しく時間で区切られ、余暇を楽しむ暇など無かったが、一旦卒業し、配属されニ、三年もすると隊にもなれ、同時期にパリに戻ってきた時など、アドルフとアシルは示し合わせて花街を謳歌したものだった。
そんなアシルが今や奥方と娘にメロメロである。家庭を持つと男は少し変わるものだとはいわれてはいたが、変わりすぎだろう、とアドルフは内心思っていた。
手合わせした時のなど眼の鋭さや殺気は変わらないが、奥方や特に娘の話など振ろうものなら、でへへとふぬけた顔をしている。
「アシルのようにはならないようにしよう」
「娘が生まれたら無理だなー。それはそうと、未来の奥方はどうよ? 〝可憐なルリマツリ〟は」
短く刈り上げた黒髪にガシガシとタオルを当てながら、スッとした細目がにやにやと面白そうに笑った。一昨日帰港したアシルの耳に届いているとなると、正式に両家の婚約が受理されて社交界に流れたと見える。
アドルフは片眉を上げて、どうかな、と言った。
「まあ、一言言うならば、可憐、ではないな」
「見るに耐えない?! お気の毒!」
「その口の悪さ、いざという時にボロが出ればいい。見た目の話ではないよ、私が言ったのは」
「いざとなったら声色から何から変えるにきまっているよ、アドルフ殿。なになに、美人? 噂通り?」
アシルはかしこまって胸に手を当て低い声色で言ったかと思うと、すぐにいつもの軽い口調に戻った。
「まあ、美人は美人だな。しかし一筋縄ではいかないね」
「ふぅん、噂とは違うねー、楚々としているって聞いたけれど」
「妹と対比されてそう見えるのだろうね。なかなか強そうな花だよ」
「摘めそうかー?」
「摘むさ」
そう言ってまた猫のようにくしゃりと笑ったアドルフを見て、アシルは笑った。
どうやらアドルフはとても自分好みの女性を見つけたらしい。引く手数多なポンに色目を使う花街の女や貴族の娘達を嘘くさい笑いであしらっていた友の本当の笑いを見て、アシルはそう思った。