5 エドマとアドルフ・ポンティヨン
アドルフ・ポンティヨンとの晩餐まで後一週間となったある日、エドマは一人でルーブル美術館に来ていた。正確には従者のカロンと下男のエディと一緒なのだが、いつもベルトと一緒に模写に来ていたので、感覚として自分だけで来ている気分になってしまう。
前回と同じ『葡萄をもつ聖女』に向かう。
あの時は時間がなくて最後まで色をつける事が出来なかったので、続きから彩色していく。ゆっくりと丁寧に筆を走らせるエドマの側に、静かに近づく人物がいた。
カロンはいち早く気付いて、その人物に声をかけようとしたが、やがて誰だか分かり、すっと引いてまた同じ位置に戻った。
エドマは集中して気付かない。
色を載せ終えた後、何度も実物と自分のスケッチを見比べて、やがて、一つ息をついてイーゼルに戻した。
「ずいぶんと熱心にやられていますね」
「きゃあ!」
突然後ろから話しかけられて、エドマは飛び上がって驚き、慌てて振り向いた。
「ボンジュール、マドモワゼル・エドマ」
「ボ、ボンジュール、ムッシュー・ポンティヨン……びっくり、しましたわ」
胸に手を当てて動悸が収まるのを待つ。
その様子を見てアドルフは、失礼、とにっこり笑った。今日は軍服ではなく、フロックコート姿でのすっきりとした出で立ちだ。
「邪魔をしてはいけないと思いつつも声をかけない訳にもいかず。驚かせてしまって申し訳ない」
「いえ、あの……聞きました。父に」
「そうですか」
そうですか、と言ったアドルフは、はしばみ色の目を緩ませ微笑んだままだ。しばし相手が話し出すのを待っていたエドマはしびれを切らして、失礼します、と言って絵筆を片付け始める。
「油彩を描かれる、と聞いたのですが」
「ええ、家では描きます。こちらでは主にスケッチなので水彩だけに留めています。
これを元に家に帰って油彩で模写する場合もありますし、スケッチだけに留めておく場合もありますし」
「そうですか」
また、そうですか、と言うとにこにこと黙ってしまった。
エドマは、この人は絵には興味ないのだわ、と思い、自分の絵筆を片付けると、では、失礼します。とその場から離れようとした。
すると、
「あ、待って下さい」
「お待ちを」
と前と後ろから声がかかった。
「ポンティヨンさま、ちょっと失礼します。カロン、どう言う事?」
カロンはエドマに問われると、はい、と頷きその整った眉をピクリともせずに応えた。
「旦那様より本日ポンティヨンさまがこちらにおいでになるのでお話するように、と預かっております」
「私は聞いていないわ」
「エドマさまにはお教えしないように、と言われておりましたので」
「カロンっ」
「まー、まー、まー、マドモワゼル・エドマ。少し、歩きませんか? 従者殿、ルーブルの庭園内だけだ、宜しいか」
アドルフがエドマとカロンの間に入って左右に声をかける。承知致しました、とカロンが応じると、エドマはカロンを非難するように見るが、状況が変わる事が無い事を悟ると、ぎゅう、と両手を握って足早にルーブルの絵画の間を出た。
二階部分にある部屋から長い廊下をアドルフを待たずに足早に歩いていると、すぐに後ろからアドルフがついて来た。
そして何も言わずに横を歩いている。
ちらっと後ろを見ると、離れた距離ながらカロンもついて来ていたので、安心して足を早めた。
赤い絨毯が貼られた階段を降りる際にアドルフから手が出されたので、エドマは眉をひそめながら仕方なく左手を預ける。
その様子に気づかない訳はないのに、アドルフはまた微笑みを浮かべたままエドマをエスコートした。
「父に聞きました。ポンティヨンさまは先日お会いした時に婚約者をどちらかお決めになったと。それは、本当の事ですの?」
建物の外側に面した最寄りのドアから外へ出ると、綺麗に刈り取られた芝生が目の前に広がる。まだ緑の色味を保ったままの芝の中を歩きながらエドマは我慢ならなくて切り出すと、アドルフは気軽に頷いた。
「ええ、そうですね」
「何故私なのです? 隣にはベルトもいました」
「おや? 私に選ばれるのはおいやだったかな?」
本来はこれほど失礼な物言いはないはずなのに、アドルフは面白そうに黄金色に色づき始めている落葉樹に目を向けた後、こちらを見た。
「アドルフさまが嫌だ、という訳ではないのです。どなたがお見初めになってもお断りします」
「おやまあ」
アドルフは少しだけ目を丸くしてエドマを見ると、思いの外はっきりとものをいうお嬢さんだ、と呟いた。
「ベルトと比べてお淑やかだと思って私を選んだのだったらお門違いですわ。別の女性を探された方がいいと思います。とにかく私は結婚する意思は無いですわ。お話は以上です」
そう言ってカロンの方にきびすを返そうとした時に、待った、と手首を掴まれた。
「ムッシュー・モリゾにお聞きになっていませんか? 結婚しても絵を描く事をやめなくてもいいと、私は言っておきましたが」
「ええ、うかがっております。それでも、です」
「何故かな? 貴女のやりたい事は出来るはずだ」
貴族に似合わない日焼けをした手は、真綿を掴むようにエドマの手首を包んでいるのに、エドマの意思では引く事も出来ない。
そちらの言い分も許容している、と見せながら有無を言わさない雰囲気にエドマの眉が上がった。
「ムッシュー・ポンティヨン。貴方から見て私はとても幼く見えるようですね。結婚しても絵をやめなくてもよい。そうですね、そんな事を言って下さる方と出会えるのは、まさに沢山のクローバーの中から四つ葉を発見するようなもの。でも……そう言えばこちらが満足すると思っているだなんて、侮辱だわ」
手をお離しになって、とアドルフを睨むと、彫りの深いはしばみの目が面白そうに笑っていた。
私の事なんて小娘としか思っていない。
エドマはアドルフのひるまない様子を見てますます眉をひそめた。
付き合いというよりかは家の事情で舞踏会に出る事はあった。ベルトはあの調子でバッサバッサと言い寄る貴族達を砕けた口調でなぎ倒していたが、たまにエドマの方にも声がかかる事があった。
ベルトがその独特の価値観と天真爛漫さ、人々を魅了してやまない振る舞いを新種のバラにたとえて「ラ・フランスの貴婦人」と称されるならば、エドマはベルトと比べて楚々とした印象にみられ「可憐なルリマツリ」と貴族の中ではまことしやかに言われていた。
しかし実際の自分はばっさりと思った事を言う可愛げのない女性だとエドマは自負していた。
大体の男性がベルトにアプローチをし軽くあしらわれ、ふとした拍子にエドマの顔を見て、まぁ、こちらでもいいか、と声をかけて来る。
しかし話しかけられても合わせる事は無くその都度自分の思った事を冷静に言うエドマを見て、鼻白んで去っていく男達に何度も遭遇し、エドマは自分で自分をこう位置付けた。
私は面白くも可愛くもない女
幼い頃から年子だった事もあり双子のように育てられて、どこに行くにもベルトと一緒だった。
大人も子供もまず先に話しかけるのはベルト。
一通りベルトと話してから次はエドマ。
幼い頃はそういう順番だと思っていた。
でも年頃になり舞踏会デビューを果たしてから知った。
それは順番ではなかった。
ベルトは人としても女性としても魅力的で、私はつまらないからベルトが先。
必然だったのだ。
それに気づいて以来、エドマはますますかたくなに近寄ってくる男達をばっさりと切り捨てた。
私の事なんか、体のいいお人形としか見ていない男ばかり。
貴族の自尊心ばかり高い男なんて、そんなもの。
幸いにも絵を描く事に夢中なエドマとベルトはあまり積極的に社交の場に出たがらなかったので、エドマの本来の姿が社交界に噂される事は無かった。そのかわりベルトの側でひっそりと咲く小花を気にかける男性もいなかったのだ。
だから、今回もこう言えば去るだろうと思っていた。アドルフはにこにこしていかにも自分の事を軽んじて見ているように思えたし、きっと何も考えずに右か左かと選んだにちがいない。それがたまたまエドマだったのだと。
エドマの言に辟易し、そうですか、ではベルト嬢にしましょうかと鞍替えするような輩であれば、父に進言してベルトにも自分にも会えないようにするつもりだった。
しかしアドルフはそうですか、とゆっくりと頷いたまま、手は離さずにこちらを見ていた。
黄色にも緑にも見える瞳が少しだけ細まり、より色濃くなって眼の中までも笑みを浮かべているようだった。
その眼差しに、エドマは怯んだ。
こんなに否定する言葉を言っているのに、アドルフには何も響いていない。
そして、アドルフも何も言わない。
エドマはその沈黙に耐えられなくなって叫んだ。
「……お離しになって! もう話す事はありません!」
その声に離れていたカロンがこちらに走り寄ってくる。それを見たアドルフは少しだけ苦笑すると、掴んでいた左手の甲にそっと唇を寄せた。
「怖がらせてしまったか。無粋な軍人で申し訳ない。ただ、私は貴女を選んだ。それはまぎれもない事実だと、心に留めておいて頂けませんか?」
早口にしかし真剣な面持ちで言ったアドルフに、エドマは首を振った。幼い子供の様に、ふるふると。
その様子をまた軽く微笑んで見たアドルフは、カロンが到着する前に手を離してくれた。
「いかがなされました」
カロンの短くも鋭い言葉に、アドルフは両手を軽く上げて、嫌われてしまったようなので今日はこれで帰ります。と笑って言った。
エドマはカロンの背後に隠れてアドルフを見ようとはしなかった。
「ポンティヨンさま、いくら婚約者とはいえ無体な事は」
「何もされてないわ。……帰ります。馬車の準備をして、カロン」
カロンの不穏な気配にエドマは慌てて言った。手を掴まれただけで本当に何もされてはいない。自分のせいでトラブルになるのは本意では無かった。
「ではまた晩餐会の時に」
先程の眼差しは出さず、いつものにこにことした顔で言われて、エドマは返事はせずに会釈だけをして庭園を出た。
少し気遣うようなカロンの気配に、大丈夫よ、とだけ答えて馬車に乗り込むと、動き出した馬車の中にあるクッションを抱え込んで顔を突っぷす。
薄暗い闇の中でアドルフの顔が目に浮かんだ。笑いながらこちらを射抜くような真剣な目を、初めて見た。
……怖かった。