4 ベルトは父に言質を取る
ベルトが居間で母と共に姉を待っていると、エドマは戻らずにクレマンだけが自分を呼びに来た。
姉が戻らない事をいぶかしんだベルトだったが、ひとまず自分の番だ、と背筋を伸ばしてクレマンについていく。
エドマと話していた時はモデルをやるより描くほうがいいとは言ったが、新進気鋭の作家の描き方を間近で見れる滅多にないチャンス。逃すわけにはいかない。
「姉さんは?」
「もうおやすみになりました。お疲れのようでしたので」
「そう。……クレマンは、お昼の件、知ってる? 私がモデルにって話」
「ええ、耳には入れていますが」
「お父様、それ聞いて怒ってた?」
「それは、ご自分でお確かめ下さい」
「いじわるね、クレマン」
「怒らせるような事をされていないのでしたら、大丈夫ですよ」
困った顔をして扉をノックするクレマンに、ベルトは首を傾げる。
「私はいつも怒らせるような事をしていないのに、お父様が勝手に怒るのよ」
入りなさい、と言う声と共に扉に手をかけたクレマンは、では、どうぞご自分でご確認を、と微苦笑し扉を開いた。
****
「ベルト、エドゥアール・マネにモデルを頼まれたそうだね?」
書斎の机に座っている父の前にベルトは立つと、父は両手を机の上に組んで聞いた。
いつもだいたいにこやかに笑っている顔が、厳しい顔をしている。でもベルトにとってはいつもの事だ。お互いいつでも喧嘩が出来るように準備している。
「ええ。受けてもいいでしょ? お父様」
どうせダメだと言われるだろう。その場合は、と頭の中をフル回転させながら外面だけは当然いいというでしょう? という顔をして言うと、案の定、父の第一声はこれだった。
「だめだ」
はい来た! と口を割ろうと息を吸い込だら、
「と言いたいところだが……仕方ない」
と続けられたので、ベルトは思わずふぐっと息を飲み込んで、父をまじまじと見た。
明るいブラウンの髪は、少しだけ抑えたランプの灯りで鈍く光っている。
組んだ両手の後ろの顔は苦虫を潰したようなら表情で、ベルトは本当に許可が出た事を知り、驚きと共に先ほど飲み込んだ息の反動で、ぶわぁと言葉が流れ出す。
「ええ?! いいの、お父様⁈ 気は確か?? それとも何か悪い食べ物でも食べたのかしら。クレマン、大変だわ、お医者様をお呼びして!」
「ベルト、そんなに私を怒らせたいのかね……」
「だってお父様っ、いつものお父様ならこう言うわ!
『未婚の貴族令嬢が、成人男性のしかも絵画のモデルだと? 言語道断だっ! そもそも絵を描きに行っているのに声をかけられるとは何事だ、カロンは何をやっていたんだ! これだから模写など許可するのでは無かった。ルーブルはいつから場末のカフェと化したのだ! けしからん!』
なんて、これでもかってほど許可しない理由を並べ立てるじゃないっ」
器用に父の口調を真似て言うベルトに、ティビュルスは白髪が少し混じり始めたこめかみをぴくぴくとさせながら、ああ、そうだっ、と声を荒げた。
「反対だ。今でも本当は反対だっ! まったくお前ときたら! 私達の大事な娘だという事を分かっているのか? 私やコルネリーがどれほどやきもきとしているか、今日という今日はっ」
「でも許可して下さいました。ね?」
いつものお説教が始まる気配を感じたベルトは、さっと言葉をかぶせた。
言質を取らねばならない。取らずに思い込みで行動をして、後から叱責された事が数知れずあるのだ。そして父がタヌキである事は重々承知であるので、とにかくはっきりさせておかねばならなかった。これを忘れた事で何度足元をすくわれたことか。
それを見てティビュルスは、ぐっと、あごを引いて頷く。
「ああ、許す。だがな」
ベルトは許す、という言葉が出た瞬間、飛び上がって喜んだ。ティビュルスの、だがな、という言葉など耳には入っていない。
「やったわ! マネの絵が間近で見れる!」
「決して二人きりにならない事、夜はだめだ、昼間だぞ? 聞いているのか?」
「どんな下地なのかしら。どこから描いていくのか知りたいわ。使っている顔料が見れる。私と一緒かしら……」
「ベルト!」
「お父様、大好き!! 早速連絡を取るわっ クレマン、カロンを借りれる?」
「ベールト! 話を聞きなさい!!」
ちぐはぐな会話など物ともせずベルトは父の元へ駆けよると、ぎゅっと抱きしめて、後の話は聞かずに嵐のように部屋を去っていく。
後に残されたティビュルスは、ぐぅ、とうなった。
「頭が痛いっ! あんな跳ねっ返りでは誰も嫁に貰ってくれまい」
「ベルトお嬢様のご気性は天性のものでありますれば」
ティビュルスの苦悩した姿に、クレマンが慇懃に言葉を紡ぐと、娘の父親は両手を握りしめて額にゴツゴツと当てる。
「ベルトに、エドゥワールに必要以上に接するなと念を押しておいてくれ。確か結婚していたはずだ。マネ家が法務省の官僚でなければ蹴っていた話を……あの男……あなどれん。すぐに依頼書を家に届けおって」
「承知致しました」
「ベルトがマネ家に行くときは誰か従者を付けてくれ、エドマが一緒に行きたいと言っても止めてくれよ? ポンティヨンに目を向けてもらわなければ」
「かしこまりました」
「ポンティヨンとの出会いは承知していたが、まさかベルトにこのような出会いがあるとはな」
「マネ家との繋がりが何かを生むのでしょうか?」
「いや、分からん。分からんが……絵の差は、出るだろう。エドマは苦しむかも知れん。その前に結婚させてやりたい」
「私には分かりかねますが……それほどまでに絵画の良し悪しがありましょうか?」
クレマンの問いに、ティビュルスは椅子の背もたれに身体を預けて目を閉じた。
ティビュルス自身も若い頃は絵画や彫刻をかじった事はあるが、エドマやベルトのようなサロン出展までの才能はなかった。
「正直、私も確たるものがある訳ではない。芸術は正解がない。感覚がものを言う世界だと、理解している」
ティビュルスの脳裏に昨年、サロンで入選した二人の娘の絵が映った。
二人とも画題として母、コルネリーを描き、エドマは肖像画を、ベルトはピアノを弾いている場面を描いていた。
何の差があるのかも分からない。
良いのか悪いのかも分からない。
絵は、ただの絵だ。
しかし。
「今は微々たるものかもしれないが……マネが声をかけたのはベルトだけなのだろう?」
「はい」
「では、それが答えだ」
眉間に手を当ててため息をついたティビュルスに、執事は黙って首を垂れた。
****
「姉さん! 入るわよー!」
ノックをしたかしてないかぐらいの勢いで姉の部屋に入ったベルトは、ソファにかけている姉を探すが居ない。
部屋の奥のベッドを見ると普段からは想像も出来ない格好で姉が寝ていたので、思わず駆け寄る。
「ね、姉さん? どうしたの?」
枕の下から頭を出したエドマは、もぞもぞと身体を起こした。
「ベルト、モデルの許可が出たみたいね。よかったわ」
「え? ええ……お父様から聞いたの?」
「いいえ、あなたのはしゃぎっぷりからの想像」
「……姉さん、本当にどうしたの? お父様に何を言われたの? いつもの姉さんじゃないみたい」
いつもならベルトにとって良い知らせは一緒になって喜んでくれる姉が若干いやみっぽくしゃべっている。非常に珍しい事だった。
ベルトは自分の事は置いて、ベッドと端に座ったエドマの隣に座り、心配そうに顔を覗き込む。
エドマは乱れた髪整えると、そうね、ごめんなさい、と言ってベルト見て力なく笑った。
「今日お会いした人、私の婚約者だったみたい」
「ええ?! あの軍人が⁈ 聞いてないわよっ」
「私もよ、いやだって言ったのだけど、とにかく会ってみなさいって。お父様、聞いてくれなくて。……近々晩餐に呼ぶそうよ」
「絵は? 結婚してからも絵を描けるの?」
「ええ、それは好きにしていいみたい」
それを聞いたベルトは拍子抜けして、覗き込んでいた身体を引いた。
「なんだ、絵が描けなくなるのかと思った。じゃあ良い話なんじゃないの?」
「嫌よっ」
「そんなにいやな感じな人じゃなかったじゃない」
「そういう事じゃなくて。絵が描けるとしても今までのようには描けないと思うのよ。夏の間、イヴ姉さまの所に遊びに行った時、大変そうだったじゃない」
この夏は数年前にお嫁に行った長姉のイヴの所へ遊びにいったのだ。
赤ちゃんが生まれて半年後にやっと見に行くことが出来た。
姉は休む間も無く赤児と共にいて、座る間がないほど部屋の中を行ったり来たりしていた。
「まあ、赤ちゃんがいればね」
「結婚すれば赤ちゃん、産まなきゃいけないでしょう?」
「まぁねぇ」
「まぁねぇ、じゃないのよ? ベルトだったかもしれないんだから」
「何それ、どういう事?」
思いもかけない言葉にベルトは目をむいた。それを見た姉は、しまった、という顔をして、いや、ね、その……とお茶を濁し始めた。
「私だったかもしれないって、直前まで決まっていなかったって事? 意味が分からないわ。ちゃんと話して、姉さん」
「ああ、うーん……」
「姉・さ・ん」
言い逃れは許さない。と両肩に手を当てて、大きな瞳をらんらんと光らせてくるベルトに根負けしたのか、エドマは渋々、父が自分かベルトかどちらか好きな方と婚約するようにアドルフ・ポンティヨンに言った、という事を話した。
「なにっそれ!! 侮辱してるわ、私達をなんだと思っているのよ!!」
「あああ、お父様は何かお考えがあったかもしれないし」
「そんなのある訳ないわよ! ゆるっせない!! 文句言ってやる!!」
ばっと立ち上がるや否やドレスの端を持って走り出そうとしたベルトの腕を、待って待ってと姉が掴んで引き止めた。
「ベルト! 待ってっ、喧嘩になるわっ」
「望む所よ!」
「私は望まないわ!」
ぎゅっと腕を掴まれてベルトは姉を見る。
「じゃあ、お父様の望むように結婚するの?」
「しないわ、したくないわ。でもこれは、私と先様とお父様のお話よ。私が解決しなければならない事柄なの」
今までに見た事のないエドマの真剣な表情に、いきり立ったベルトの腕がゆるむ。
「わかったわ、姉さんに任せる」
ほっとしたように笑顔を見せたエドマは、ベルトはマネのモデルに集中するのよ、と微笑んで、さあ、もう戻って、と言った。
笑っているけれど、疲労の色が濃い。
ベルトは黙って頷いて、何かあったら絶対教えて、一人で溜め込まないでよ? と念を押して部屋を辞した。
わかった、大丈夫。と言った姉が、いつも何かしら我慢する役まわりを担っている事は、ベルトは幼少期から気付いていた。
「お父様、またエドマ姉さんを丸め込んで……絶対許さないんだからっ! いざとなったらお母様に言ってもらわなくちゃっ」
ベルトはぎゅっと手を握ると、身をひるがえした。