表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
32/34

32 エドマはリリー教えられて気づく。

 



 リリーはとても真剣な表情をしてエドマの方に身を乗り出した。


「エドマさま、もしかして、夜の事ご存知なく嫁がれてきたの?」

「夜……旦那さまにお任せするように、と言われてきましたが」

「ごめんなさいね、具体的に聞くわ。一緒の部屋で寝ている?」

「別々ですが、寝る前にアドルフさまが来て下さいます」

「朝まで一緒には寝てる?」

「いいえ。私が寝付くとアドルフさまはお部屋に戻られるようですわ」

「そんな時もあるとは思うけれど……だめだわ、拉致があかない。エドマさま、お耳を貸して頂いてもいい? 本当にごめんなさい」


 リリーのただならぬ様子に、エドマは頷きリリーの方へと耳を傾けると、リリーは可愛らしい声で、夜の営みを具体的に教えてくれた。


「えぇ! そんなこと……し、信じられません、本当に?」

「ええ、恥ずかしいけれど、そういう事を夫婦の皆さましているのよ」

「む……」


 思わず無理と言いそうになって慌てて口をつぐんだ。


「エドマさま、そのような行為になりそうになった事はない?」


 両頬に手をあてて動揺を抑えているエドマは、リリーの問いに懸命に記憶をたぐり寄せる。


「キスされた事はある?」

「そ、それは、あります」

「その後、先に続かなかった?」


 リリーの言葉をたよりにうっすらと思い出されてきたのは、ロリアンに来て最初の晩のことだ。

 その時はソファに押し倒されて、アドルフが肩紐に手をかけたので脱げてしまうとその手を抑えたのだった。

 その後からアドルフは、そっとキスをする事はあっても、あの初夜のように深く口づけてくる事はない。


 アドルフはきっと、気づいていたのだ。

 エドマが何も知らないという事を。


 エドマの唇が小刻みに震え青くなり、また顔を真っ赤にして手で覆ってしまったり大変な事になってきたのを見て、リリーはそっと背中を撫でてくれた。


「リリーさまっ、……っわたし……!」

「大丈夫、大丈夫よ。知らなかったのですもの、えーと……そうね……アドルフさまが戻られたらその夜に、分かりましたって言えば大丈夫よ。きっと大丈夫」

「と、ても、言えないです。私、知らなかっただなんて……」


 涙声になってしまったエドマに、リリーは一度目を瞑ると、しっかりとエドマの目を捉えて、いいえ、言うべきよエドマさま、と低くいった。


「リリーさま……」

「エドマさま、はっきり言うわね。私たちには、猶予がないの」

「ゆう、よ?」


 エドマはリリーが何を言おうとしているのか分からずおうむ返しに呟き、混乱の中でリリーを見つめた。


「エドマさまも伺っているでしょう? いま我が国に危機が迫っている事を」

「は、はい。アドルフさまから聞いております」


 戦時下に置かれるかもしれない、屋敷の者を守ってほしいと言われていた。もちろんエドマもそのつもりでいる。

 別の話を持ち出されて、エドマは少しだけ冷静さを取り戻し、リリーを見つめて頷いた。

 リリーはエドマの目の色を見て同じく頷くと、おもむろに話し出した。


「戦時下に置かれる前から、私たちの夫は軍部に駆り出されるわ。特に海軍は艦で出航したら何ヶ月も帰ってこない。そして戦時中は……おそらく終戦まで帰ってこないわ」

「そんな……」

「だから、戦争が始まる前に、夫が艦で出航する前に、私たちは子種を頂かなければならないの。チャンスは思いの外、少ないのよ」

「…………」


 愛だ、恋だ、という話ではなかった。家を存続させる為に、子孫繁栄という貴族のしがらみの為に。


「それだけじゃない。家だけの話じゃないの。愛する人を失ってしまう可能性も大いにある、という事を心に留めて生きていくとね、私は、あの人の子供が欲しいと心底思ったわ」


 リリーはそういうと、自ら自分の腕を抱きしめた。


「あの人がいなくなってしまったら、私は何を頼りに生きていけばいいの? あんなに私を、家族を愛してくれる人なんていない。あの人のいない世の中を一人で生きていくなんて、そんなのは耐えられないの」

「リリーさま……」

「だから、子供が欲しいの。代わりになんてならないわ。でも、あの人の面影は残る。あの人に似たものを見つけて生きていける。何より」


 突然、赤子の泣き声がした。

 エドマはびくっと身体が揺れるほど驚いたが、リリーはゆっくりとソファから立ち上がりゆりかごに向かった。

 優しく、今日はゆっくり寝られたのね、いいこ。オムツが濡れたかしら、と声をかけながらレースのカーテンをくぐると、手早く汚れたおむつを替えた。


 そしてぐずぐす、と甘い泣き声を上げているアンジェルの背中をとんとん、と柔らかく叩きながらエドマの側へと戻ってくる。


「何より、こんな可愛い子が側にいると、私も生きなきゃって思えるの。アンジェルが生きる意味を、教えてくれるのよ」


 リリーはそうアンジェルに語りかけると、そっとちいさなおでこにキスをした。


 エドマはその様子をみて、唐突に理解した。


 自分が結婚した相手は、ただの貴族の方ではなかった。


 自分の夫は、軍人なのだ。

 軍人は、戦いに出てしまうのだ。

 戦いに出て行ってしまったら、帰ってくる保証は、ない。



 何も分かっていなかった。

 アドルフと結婚する、ということが。

 ロリアンの屋敷で、マルシェで、アドルフがこうして欲しいといった数々の言葉の、本当の意味を分かっていなかった。


 エドマが一人でも大丈夫なように、一人になってしまっても大丈夫なように、アドルフは考えていたのだ。


 ふいに、婚約者をエドマに決めたと言った時のアドルフの言葉がよみがえってきた。


 〝私は軍人で、船に乗ると長期に屋敷を空ける事が多い。私の妻となる人には、家人を任せられる人が良いと思っていました〟


 あの時でさえ、伝えてくれていたのに。

 エドマは自分の事しか考えていなくて、アドルフの事情を知ろうともしなくて。


 なのにアドルフは、エドマの心を尊重してくれた。


「リ、リ、さま……アドルフさま、わたしに……ふれないのです……」

「エドマさまを、大切にされているのね」


 溢れ出る涙を止めることができない。


「わたしには、こころ、預けるって……でも、わたしは……」

「アドルフさまの事、お嫌い?」


 リリーの言葉に反射的に首を横にふった。

 そんな自分に、はっとする。


 画家への道を、志を折ったのは間違いなくアドルフで、でもその後をずっと見てくれていたのも、アドルフその人で。


 帰りがいつなのか聞いた時に、こちらが驚くほど目を見開いて、やがて嬉しそうにそのはしばみの瞳がなくなってしまうほど細めて微笑んだアドルフの表情が脳裏に浮かんで離れない。


 いつのまにかエドマの心の中は、アドルフの〝絵〟でいっぱいになっていた。


「わたしの、わたしのこころも……アドルフさまでいっぱいです……」


 エドマの小さな告白に、リリーはアンジェルを抱きながら、もう一方の手でぎゅうっとエドマの肩を抱いた。


「ぜひ、それを、素敵な旦那さまに」

「……はい」


 リリーも涙目で微笑みながら、エドマの頬に流れる雫をそっとぬぐってくれた。

 何度も頷いてくれる。そんなリリーに、エドマも心を寄せた。


「ふえぇん」

「……っごめんなさい、アンジェルさま」


 リリーの肩に寄り添っていたエドマは、慌てて身体を起こす。


「大事なお母さまをお借りてしまったわ、素敵なママンね」


 エドマは自ら涙をぬぐって人差し指をアンジェルの手の側に向かわせようとしたら、アンジェルは指が顔の前にきたとこで腕を上げてエドマの指をつかんだ。


「まぁ……すごい。つかんでくださった」

「前は手の側に寄せないとつかまなかったでしょう? 子供の成長って早いのよ、いつもそんなアンジェルに救われているわ」

「……私も、いつか……」

「ええ、一緒に子供を遊ばせましょうね! 楽しみにまっているわっ」


 リリーの朗らかな笑顔に、エドマは、はい、と頷いた。カタリと音がして後ろを振り向くと、カーラが目頭にハンカチを押さえて泣いていた。


 エドマは立ち上がると、泣いているカーラにかけ寄り抱いた。


「心配させてしまって、ごめんなさい」


 カーラは、いいえ、いいえ、とだけ言って肩を震わせた。アドルフも、カーラも、屋敷の全員が自分の心を守ってくれていたのを、エドマは知った。


 心からの感謝したい。


 エドマはカーラの柔らかな肩を抱いて、そう思った。







評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ