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23 エドマは笑い、戸惑った。

 



 ランプの灯りを頼りにモリゾ家から持参した本を読んでいると、コンコン、と部屋の奥のドアからノックの音がした。

 エドマは一瞬息を呑んでから、はい、と緊張した面持ちで、と応じた。


 この家の主人の寝室とドアをまたいで繋がっているドアをノックする人は一人しかいない。しばらくそのままじっと待っているともう一度ノック音がする。


(もしかして……鍵がかかっているの?)


 エドマは慌ててドアの近くに行き、ノブを回すのだかやはり開かない。焦ってガチャガチャと回していると、ドア向こうから笑いぶくみの声が聞こえてきた。


「確か文机の引き出しに鍵があると思うけれども、こちらの部屋と一緒であれば」

「は、はい、すぐにっ」


 エドマは慌てて身を翻して窓際の文机の引き出しを開けると、くすんだ金色の鍵が出てきた。戻り、ドアノブの鍵穴に入れるとすんなりと鍵は回り、ドアを開けるとまだシャツにベスト姿のアドルフが居た。襟元がくつろいだように開かれているのが艶めかしくて、エドマは視線をアドルフの腕の方に下げる。


 頭上でアドルフがふっと笑う気配がして、顔を見せてくれないか、と視界の中に太く角ばった指が入ってくると、エドマの頬を柔らかくつついた。


「……恥ずかしいので」

「それ、無意識なのか?」

「え?」

「いや、何でもない。ちょっとソファで座らないか? 酒を持ってきたんだ」


 そう言うと、アドルフはワインボトルを持ち上げてにこりと笑った。



 ベッドから離れた窓際のソファにエドマが案内すると、ボトルを置いてアドルフはどさりと座った。


「……お疲れですね」

「ああ、こちらに着いたばかりだってのに待ちかまえて仕事を投げてくる奴がいてね」

「ロベール・ノアイユさまですか?」


 エドマは婚礼の時のロベールの挨拶を思い出していた。副官と言っていたので、アドルフと軍部とのつなぎ役なのだろう。


「ご明察。すごいね、もう覚えたのか」

「お見知り置きを、と言われましたので」

「覚えなくてもいいよ、奴は仕事しか持ってこないからね」

「そうはいきません。あなたがいらっしゃらない時は私が対応しなければならないので」


 ポンティヨン家の女主人となった以上、旦那様の部下はもちろんのこと、知人に至るまで頭の中に入れて置かなくてならない。

 ポンティヨン家に関わる貴族は嫁入り前になんとか頭に叩き込んできたが、ロリアンに来てからの交友関係は分からないので昼間にカーラに願ってひとまず屋敷にいらした方の名前と特徴を教えてもらっていた。


「真面目だね」

「普通です」

「とりあえず飲もうか」

「私はお酒は……」

「ああ、分かっているよ、少しだけね」


 アドルフはそう言うと、自分のワイングラスにはなみなみと、エドマのグラスには三分の一ぐらいの高さに入れた。

 お酌をしなければならないのか迷っているうちにアドルフに注いでもらってしまい、申し訳ありません、と小さく言った。


 エドマの側にはいつも誰かしらがいて、飲み物や食べ物など給仕をしてくれていた。こんな二人だけで飲み物を飲み交わす事などいまだかつてなく、一々迷ってしまう自分に苛立ちが抑えられずに唇を噛む。


「酒は飲みたい奴が注げばいいんだよ。まぁ、貴女が男と二人で飲むなんて事は私しかいないのだから気にしなくていいのだけどね」

「作法を知らず、申し訳ありません」

「固いな、緊張をしているのか」

「……」


 そもそも誰かと部屋に二人で居ることなんて家族以外経験した事がないのだ。そして今の家族はアドルフなのだからこの状況は当たり前なのだが、アドルフの事を知っている訳ではない。

 緊張するなというのが無理な話だ、とむっとしてアドルフを見ると、はしばみ色の瞳を面白そうに細めながらグラスを傾けていた。


「笑わないでください。慣れていないのです」

「作法を笑っているのではないよ。怒った顔が可愛らしくてね」


 怒った顔が可愛らしいなんて聞いたことがない。エドマは片手を頬に当たるが、心が穏やかでないのに表情を変える事はできないし、無理に笑うのも変な事だし、ますます眉がくっと真ん中に寄ってしまう。


「そうそう、そうやって君は心のままにしていればいい。私にとってはそれが好ましいし嬉しいんだ」

「どういう事です?」

「私に本心を見せてくれているという事だからね」

「それはあなたに……」

「何だい?」

「なんでもありません」


 あなたに偽りを言っても意味がないから、と言うのは躊躇(ためら)われた。アドルフはエドマの心を暴いた男、そんな人の前で表情を作っても意味がない。でもそれは、寛ぐべきこの場で云う事ではない。それぐらいはエドマでも分かっていた。

 それに、言葉にすればまたあの忘れようもない感情を思い起こしてしまう。


「夫婦に秘密は無い方が私は好きだけれど、今の追求はやめておくよ。でも眉間のシワは取っておいた方が将来のためにいいかな」

「この顔にさせているのはあなたです」

「どうやらそのようだね。では責任をもって別の顔を見せてもらおう」


 アドルフはにこやかにそう言ってグラスを開けローテーブルに置くと、二、三口しか飲んでいないエドマのグラスもさりげなく取って置いた。

 エドマは並んだグラスをみるともなしに見ていると、柔らかく頬を包まれて見上げた先には微笑んだアドルフが居た。


 彫りの深い瞳が近づいて来るのに気がついて、慌てて目を閉じる。触れた唇からふわりと芳醇な香りが移り、教会でした初めての口づけとは違って、何度もついばまれる感覚にだんだんと息苦しくなっていく。


「アドルフさま……」

「何?」

「苦しいです……どこで、息をしたら?」


 アドルフはエドマの声に一旦顔を離してまじまじと妻の顔を見た。


「いや、諸々初めてだとは思っていたけれど……キスも?」

「キスは結婚式ですませました」

「すましたって……いや、それどころじゃないな。ええと、なんて言ったらいいか……参ったな」


 ランプの明かりで昼間よりも赤みを帯びて見える髪をかき上げたアドルフの表情は心底困っていた。その珍しくハの字になった眉を見て、エドマはふいに笑いがこみ上げてきた。

 あのアドルフが困っている。何事も余裕があり、飄々と渡り歩いているアドルフが。

 そう思うとくふふっと笑ってしまった。

 そんなエドマをアドルフは驚いたように見ると、今度は意地悪そうに片眉を上げた。


「笑ったね?」

「ごめんなさい……っく……あなたのそんな顔……初めて見たから……くふふ」

「私も君の笑った顔は初めて見た」

「ええ? そんなこと」


 エドマはにじみ出た涙を人差し指で拭い、笑いながら言うと、私には初めてだよ、とアドルフの顔も嬉しそうにほころんだ。その穏やかな笑みに、とくん、と胸の内で音が鳴った。


「仕切り直しだね。キスするときは鼻で息をするんだ」


 そう言いながらアドルフはエドマの顎を人差し指で上がると素早くキスをした。


「あの……やっぱり、私……わからな、い」

「じゃあ、そのままで」


 そのままでいいって言ったって、と思いながらも繰り返される口付けを受け止めていく。初夜の心得は母、コルトニーとこちらでカーラにも聞いた。でも結局エドマの母もカーラもアドルフさまにお任せするように、という事以外、詳しいことは教えてはくれなかった。


 不思議と上がっていく体温に戸惑っていると、アドルフの手が肩紐にかかって外されそうになり、思わずその手を抑えた。


「え?」

「………………」


 エドマが思わず戸惑う声を上げると、首筋に顔を埋めていたアドルフははっと顔を上げてエドマを真正面から見た。

 エドマも何度か目を瞬かせてアドルフを見上げている。


 しん、とした長い沈黙の後、アドルフは音を立ててエドマの額に唇を落とすと、いつの間にかソファの背もたれに埋もれていた身体を起こしてくれた。


「あの、アドルフさま……な、なに?」


 アドルフはむくりと起き上がると、エドマの身体を横抱きに抱え、ベッドに横たえさせてばさりとふわふわのリネンで包んだ。


「あの、アドルフ、さま?」

「今日はここまで。長旅で疲れただろう? ゆっくり休んで」

「アドルフさまは?」

「私は……仕事が残っているから部屋に戻るよ。もう少ししたら」


 突然の展開に不安になってアドルフに顔を向けると、アドルフは乱れたエドマの前髪を整えてくれた。その手があまりにも優しく触れるので、エドマはくすぐったく肩をすくめる。


「眠れそう?」

「たぶん」

「眠れなかったらドアをノックしていいよ」

「大丈夫です」

「わかった。おやすみ、奥さん。いい夢を」

「おやすみなさい」


 夜の挨拶をしたのに、アドルフはそのままベッドサイドに止まっていた。何も言わずエドマの髪を何度も幼子にするように撫でる。エドマは部屋へ戻らないのかしら、と不思議そうにその様子を見ていたが、やがてその手に導かれるように瞼が閉じていく。

 うつらうつらと意識が揺らいで、すぅっと落ちていく感覚になったぐらいに、パタンとドアが閉まる音がした。


 エドマの初夜は、微笑みと共に暮れていった。





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