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20 アドルフとの結婚式は動揺の嵐。

 



 すっきりとした雲一つない快晴の朝、アドルフ・ポンティヨンとエドマ・モリゾはパリ郊外にある、小さな教会で式を挙げた。


 宣誓をし、薄いベールを上げられて見たアドルフは、柔らかく微笑んでいた。


 両肩に手を乗せられた時、これがアドルフとの初めてのキスであり、生涯でも初めてのキスだわ、と、余計な事が頭に浮かんでいたので、掠めるようにさらっと触れて終わったキスに一瞬、呆けてしまった。


 その様子に、アドルフがくしゃりとあの顔で笑ったので面白くなく、ほんの少しだけ、笑わないで、という意味を目に込めると、今度は素早く頬にキスが落とされた。


 神聖な場で、こんな事していいものなの?!


 と内心ハラハラして固まっていると、何事もなかったようにアドルフは離れて、神父の方に向いたので、エドマも慌てて同じように身体の向きを正面に戻した。


 誓いの宣言がとうとうと語られて、賛美歌が歌われる際にも、今の行為が大丈夫だったのかと冷や汗が出て仕方がなかった。


 式の後、本来ではあればパリの屋敷に戻っての晩餐になるのだが、相当に急ぐ旅程のようで、駐屯地での任務が落ち着いてからまた改めて盛大に祝う事になっていた。

 教会の敷地内作られたガーデンパーティ形式での会食に、参列者の中で唯一いつまでもぐちぐちと言う人がいた。義母のアドリエンヌ・ポンティヨン夫人だ。


「本来ならこんな簡易な式、ありえない事ですのに。モリゾ家とポンティヨン家のお式ならばもっと盛大に、もっと華やかであるはずなのに、なんだか世間様に申し訳ないわ」


 無事式を終えた幸せな息子夫婦にかける義理の母の第一声がこれだった。

 男の人に任せるとやっぱりダメね、と盛大なため息をついて言う義母に、アドルフが気にしていない、という笑顔を貼りつけながら、軍部の意向なので申し訳ありませんね、と短く言った。


「お義母さま、申し訳ありません。パリに戻りましたら必ずパーティーを開きますので少しの間お待ち頂けますか?」


 夫のにべもない返事にエドマは慌てて姑を気遣う。アドリエンヌはええ、約束よ、両家の輝ける婚姻なのですもの。きちんとね。と念を押して歓談の場へと戻っていくのを見て、アドルフはぼそりと、こんな二割増しな疲れる行事を二度もやろうとは思わないのだけどね、と呟いた。

 エドマは慌てて右手を引いてアドルフの気をひく。

 なんだい? とアドルフが微笑みながらエドマの方に首を傾けるので、妻はちょっとお話が、と夫に小声で囁いた。


「主役がこの場で本音を言わないで下さい」

「ああ、聞こえたかな? 笑顔が素敵な奥さんでありがたいよ」


 仲睦まじく耳元で話し合っている新郎新婦に温かい目線が飛び交っているが、その実、夫はとんでもない事を言い出して妻を慌ててさせているのである。


「さて、もうそろそろ退出してもいいと思うのだが。どうだろう? 奥さん」

「さきほど歓談が始まったばかりではないですか……私達の退出は全ての方にご挨拶をして送り出してからです」

「うん、持たないね。海軍式に乾杯をしてあとは無礼講にすればよかったな。今からでもそう声をかけようか」

「やめて下さいっ。ここにいらしているのは貴族の方がほとんどです、軍隊式なんて知らない方々ですっ」

「お! ポンが楽しんでいるー、さすがエドマ嬢だねー」


 にこやかに笑いながら恐ろしい提案をする夫に肝を冷やしていると、黒髪を短く刈り上げた軍服の男性が軽く手を上げて、にこやかな笑顔の女性と共にこちらに声をかけて来た。女性の腕には可愛らしいピンクのベビー服を来た赤ちゃんが抱かれている。


「結婚、おめでとう! 公の場でこんなに楽しそうなポンを見るのは初めてだー、よっぽど嬉しいとみた」

「こちらまで来てくれてありがとう、リリー、アンジェル。嬉しいのは当たり前だろ、アシル、自分達の結婚式だ。エドマ、紹介するよ、私の友人でアシル=クロード・デュカス。奥方のリリー殿に娘のアンジェルだ」

「は、初めまして。エドマと申します」


 取り繕うように笑顔を貼り付けるエドマに、アシルはカラカラと楽しそうに笑った。


「遠慮しなくていいぜー、エドマ嬢。ポンがどういう奴か昔から知ってっから。俺たちといる時は肩の力を抜いていいぜ。疲れるだろー」

「そうですわ、ただでさえ花嫁さんは大変なのですから。アドルフさまのいたずら事は耳から耳へ、ですわよ」

「おや、アシルならまだしもリリー殿にそんな風に言われるのは心外だね」


 アシル夫妻の遠慮のない言いっぷりに、アドルフは面白そうにあの猫のような顔で笑っている。

 エドマは夫のその様子に少しだけ表情をゆるめた。

 その様子を見たリリーが、夫婦共々口が悪くてごめんなさいね、と柔らかな笑みでこちらに話しかけてくれる。


「いえ、堅苦しくなくて……正直を申しますとほっとします」


 先程までの義母と夫の雰囲気に気を使って、正直笑顔もなくなってしまいそうだった。労わるような目線に、エドマは改めて感謝の目礼をする。

 気を取り直してエドマはリリーに話しかけた。


「リリーさま達もロリアンに行かれるとの事を伺っております。私はパリからも出たことがない若輩者です。どうぞあちらでもよろしくお願いいたします」

「こちらこそ。海軍の夫を持つと次から次へとお引越しですのよ。あちらに行っても時々お茶会しましょうね」

「はい、よろこんで。可愛らしいお嬢さまとも一緒に遊びたいです」


 エドマがリリーの腕の中に抱かれている、目元がぱっちりとしたアンジェルによろしくね、と人差し指を差し出して、ピンクの袖から出ている小さな手のひらに近づけると、アンジェルはその指先を目で追って、むぎゅ、とエドマの指を握った。


「……可愛い」


 ふわりと笑ったエドマの顔を見て、でしょう? とリリーも微笑む。親ばかかもしれないけれど、私もそう思うの、と優しくアンジェルの頬にふれるリリーが誰かと似ていた。


 慈愛に満ちた目を向ける母親。

 その母の顔を探し見つめる子供。


(聖母マリア……)


 ラファエロ、ダビンチ、そしてあのピエール・ミニャールが書く『葡萄を持つ聖母』の姿や構図が頭を巡った。


 エドマは一瞬目を瞑り、誰にも気付かれぬよう脳裏に浮かぶ線を消去する。


(これからの私には必要のないもの)


 そう自分に納得させていると、むぎゅむぎゅと人差し指を握られる感触に目を開いた。

 アンジェルがエドマの指をにぎにぎと触りながらこちらを見ている。


 エドマはまた笑顔になり、人差し指をちょいちょいと右左にふるとアンジェルは楽しかったのか、声を上げて笑った。


「可愛いね」

「だろー、もう仕事行きたくなくなる」

「そういうものなのか」


 アドルフがいつのまにか側にきて抱かれているアンジェルを覗き込んでいる。

 アンジェルはアドルフを気にすらこともなく、エドマに向けて笑顔を向けているので、リリーはにっこりと笑って、エドマさまとお友達になれて嬉しいのね、とアンジェルの気持ちを代弁した。


「さー、そろそろ壁の方へ移動しよう。主役をいつまでも引き止めてちゃいけないぜー」

「そうですわね、後ろでうずうずされている方々がいらっしゃるので」


 そう言ってアシル夫妻が場所を開けると、海軍の礼服を着た背の高い男たちに取り囲まれた。


「おめでとうございます! ポンティヨン大尉!」

「ひゃー、噂どおりの〝可憐なルリマツリ〟ですねー美人!」

「こりゃ、仕事どころじゃないですね」

「大尉、さすがです」


 口々に右から左から話しかけられて面食らっているエドマの腰をぐっと引き寄せ、アドルフはすまして祝福を受けた。


「こちらまでご苦労だったな、食って帰っていいぞ」

「了解であります! しこたま食って帰ります!」

「ひでぇや、もうちょっと労ってくださいよー」

「ですね、速攻で大尉のお仕事をぶっこみますよ」

「大尉、牽制具合もさすがです。しかし心配ご無用、大尉の大事なルリマツリを摘むような輩は私たちが先にのしますよ」


 大きな声で第一声を発したのはエドマの正面にいた男で、色黒で赤毛の横も縦も幅のある見事な体躯の男だ。ブノワと名乗った。


 ひでぇやと投げやりに言った灰色の髪の細身の男はエドモン、アドルフに仕事を回すと冷静に言ったのが眼鏡の少年兵かと思われる男でジョルジュと名乗り、最後に髪の色は白金髪だが、アドルフと同じぐらいの体躯で少しここに集った中で年上の風格を持った人が名乗った。


「ロベール・ノアイユです。大尉の副官になります。以後お見知り置きを、マダム・ポンティヨン」


 マダム、と言われてエドマは一瞬動揺したが、直ぐに笑顔に隠して右手を差し出した。


「エドマです。よろしくお願いいたします」


 ロベールがさっと手の甲にキスをして戻したのをみて、後ろの男どもが俺も俺もと騒ぎ出した。


「うるさい、お前たちにキスさせる手はもう無いよ」


 アドルフが珍しく苛立ってエドマを背に隠す。


「あれ! めっずらしい、大尉も人並みにやきもちやくんですねぇ!」


 ブノワが大仰に驚くと、わっと男どもが笑った。


「行こう、エドマ。あいつらの相手は向こうに行ってから、いつでも出来る」

「で、でも」

「冷やかされるだけだ。とりあえず飲み物を飲もう。私たちはさっきから何も飲んでいないよ」


 主役なのだから仕方なしとエドマは思っていたが、アドルフは給仕に炭酸水を頼むとさっさと空いた席にエドマを座らせ、自身も座った。


 すぐに持ってきてくれた給仕に礼をいい、エドマに一つ渡してくれる。

 細身のグラスにレモンがカットして添えてあり、一口飲むと甘めのレモネードだった。


「美味しい」

「熱気にやられそうだからな」


 いろいろな場所で活発に歓談の輪がもたれている。紹介され、挨拶をすると見知った者達ばかりだからか、熱心に軍部の意向を聞き出そうとする貴族がいたり、また今後の国の方針など、熱い議論の場にもなっていた。


「いつも……あのようなお話を?」


 戦争に絡む話もかなり出ていた。それに受け答えるアドルフの言葉が滑らかだった。エドマは聞いた事の無い話ばかりで、ただただその場にいただけだ。


「軍部にいるからね」

「屋敷にも、あのような方々が来られます?」

「ん?」


 知識も何もないエドマはどうやってもてなしたらいいのか見当もつかない。もし、アドルフが居ない時に来訪があったら、と思うと、さぁと顔が青くなっていく。


「ああ、君は……真面目だなぁ」

「え?」

「もし私が居ない時に来たら、お茶の一杯でも出して待たしておくか、要件だけ聞いて追い返せばいいんだよ」

「そんな事……大切なお客様です」

「まぁそれなら、貴女の気のすむようにすればいいけれど」


 エドマが反論をすると、アドルフはさらりと流した。その言い方にむっとして、では好きにさせて頂きます、とぐびぐびとレモネードを飲み干すと、アドルフはくしゃりとあの猫の笑いをして呟いた。


「意外に短気」

「……失礼、花摘みに行って参りますわ」


 エドマは我慢ならなくなって立ち上がり、言外にアドルフの側を離れたくてお手洗いに行く旨を伝えると、さっと手を取られた。


「怒った顔も綺麗なのは罪だな。早く戻ってきて下さいね、奥さん」


 エドマの指先へ優雅にキスをする夫とそれを見守る生暖かい目線に耐えられず、すぐに戻りますからっと告げて初心な新妻は耳を真っ赤に染めて足早に会場を抜けた。






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