2 エドマはアドルフと出会う
「失礼、ムッシュー、口を挟む事をお許しください。私共のお嬢様達は貴殿が描かれる絵画のモデルには向かないと思われますが」
それまで端で控えていた従者のカロンが、さっとベルトとマネの間に割って入って、厳しい顔で告げた。
おそらくカロンの中にはマネが描いた『オランピア』のイメージがあるのだろう。エドゥアール・マネは現実の裸体の女性、しかも娼婦を画題にした先鋭的な画家として良い意味でも悪い意味でも批評されていた。
「ああ、御心配なく。裸婦のモデルになれとはもちろん言いません。そちらのベルト嬢のたたずまいに惹かれましてね。描いてみたくなったのです」
「大変申し訳ありませんが、旦那様にお伺いを立て、また後日改めてお返事をさせて頂きます」
「もちろん、構いません。良いお返事をお待ちしています」
「私は」
「ベルトさま、まず旦那様にお伺いしてからでございます。今は発言をお控えなさいますよう」
カロンがぴしゃんとベルトの言葉をさえぎると、分かったわよ、とベルトはぷっと頬を膨らませて横を向いた。
みんなでお茶を、という雰囲気でも無くなったので、ラトゥールとマネはそれでは、と部屋から退出して行った。
それをエドマとカロンがそれを見送ると、ベルトは横を向いたまま不機嫌そうに呟いた。
「別に、私の意思としてお返事をしてもいいのに」
「ムッシュー・マネのお父上は法務省の官僚です。旦那様の裁量での案件になります。不用意なお言葉はお控え下さい」
「なにそれ、面倒くさい」
「ベルト」
「あー、分かった、分かりました! お父様にお任せします! それでいいでしょ?」
ううーんと伸びをして首をこきこき鳴らしているベルトに、エドマはカロンと目を合わせて安堵のため息をもらす。
貴族の娘としては自由奔放すぎるベルトがゴネると大事になりかねない。
特に女性蔑視の発言には男女問わず食ってかかっていくのでエドマとカロンは常々火消しに手を焼いているのであった。
カロンが懐中時計を手にそろそろ、と一声かけて来たので、少し早いけれど今日の模写はキリがついたここまでにする。
あの人達のおかげで貴重な時間を取られたわ、とぶちぶち言っているベルトに、絵は逃げないわよ、と声をかけて道具を片付けている時だった。
よそ見をして片付けていたので肘がイーゼルに触れ、その拍子に手に持っていた絵筆がころころと転がっていってしまった。
「あ……」
慌てて拾おうと手を伸ばした所で、日に焼けた節くれ立った指がさっと先に絵筆を取った。
「ありがとうございます」
見上げると、濃紺の軍服を着た男性がにこりと笑った。
「素敵な絵を描かれるのですね」
「ええ、妹の絵は勢いがあって私も好きです」
「いえ、私の好みはこちらですが、こちらは貴女が描いたのでは?」
「あ、え?」
エドマはベルトの絵を見ていた目を男性に戻した。
はしばみ色をした目がにこにこと笑っている。
男性はエドマの右手に持っていた絵筆を持たせると、空いた左手をゆっくりと持ち上げて手の甲にキスをした。
知らない男性からのキスは、いつもは嫌な気持ちになるのだが、その不快感が無かった。
さっと触れるだけのキスだったからかもしれない。
ただ、手を放してくれなかった。
「あ、の?」
「ああ、失礼。私はアドルフ・ポンティヨンと申します」
「エドマ・モリゾですわ。こちらはベルト」
少しだけかがんで略式の礼を取ったベルトに対し、アドルフはにこりと会釈して直ぐにエドマに向き合った。
「いつもこちらで絵を描いているのですか?」
「毎日ではないのですが、時間を見つけたら描きに来ています」
「そうですか」
「……あの」
「はい?」
「手を……」
「ああ」
言外に放してほしいと訴えたが、アドルフはにこにことしてこちらの手を握ったままそばを離れない。
困って後ろのカロンを見るが、すまして立っている。
(どういう事? カロンが来てくれないだなんて……何か、この人を知っているの?)
困惑した表情が顔に出たのだろう、アドルフは自身の空いた左手をゆっくりと顎に当てると、ふむ、と眉を片方だけ器用に上げた。
「マドモワゼル・エドマ。私の事はまだ聞いていないようですね」
「え?」
「いずれ、またお会いする場があるかと思います。それまで覚えていてくれると嬉しい。それに」
アドルフは一度言葉を区切って、少しだけ身体を寄せた。
「私は貴女の中に棲む軛を解き放つ者かもしれませんよ」
……くびき?
聞き慣れない言葉に眉をひそめている間に、またお会いしましょう、といってアドルフは身体を離し、ベルトやカロンに会釈をして、カツカツと規則正しい靴音を立てて去っていった。
エドマはアドルフが部屋から出て行ったのをきっちり確認してからカロンに向き直る。
「カロン、どういう事? あの方は誰?」
「私よりも旦那様からお話を聞いた方がよろしいかと思われます」
「お父様が姉さんと話? やーな予感」
「ベルトさま、軽口を言うものではありません」
「わかったわよ! カロンの口うるさいの、どうにかならないかしら」
「ベルト、言い過ぎよ。……とにかく、お父様はご存知なのね」
「はい」
「わかったわ、今夜帰られたらお聞きしてみます」
エドマの言葉に、カロンはお辞儀をし、下男と共に画材の片付けにあたった。
エドマは絵筆を専用のカバンに入れ、カチリと留め金をとめると、側に控えたカロンに渡し、歩きだした。
「一つ、聞いていいかしら」
「なんなりと」
「くびき、って何の事なの?」
「軛、ですか。直接的には乗馬の際、馬の手綱と口に噛ませる口輪を繋いでいる部位を指すのですが……どちらでそんな言葉を?」
「先程の方が私に」
「もしや、くびきを放つ、と言われたのですか?」
「ええ、それに近い言葉でした」
カロンは珍しく綺麗に整えられた眉をひそめた。
「……女性にいう言葉ではないのですが、比喩的には〝束縛、支配からの解放〟という意味です」
「……私、立場よりも自由にさせてもらっていると思っているのだけれど」
「ええ、むしろ……いえ、そうですね。私から見てもお嬢様方は他家のお嬢様方よりも自由にされていると思います」
「ぜんっぜん足らないわ、もっと自由が欲しい」
「ベルト!」
今までじっと黙って隣を歩いていたベルトが飛び込むように会話に入ってきた。
館内を出て馬車が待つ大通りまでの広い道をくるりと後ろ向きで歩きながら目一杯手を広げる。
「こーんなに素敵な庭園があるのに、外で写生もさせてくれないのよ? どこが自由なのよ」
「私達の立場からすると屋敷を出てルーブルで模写が出来るのも破格な事なのよ?」
「そんなので満足していられないわ、室内だけではない、自然光の中で風を、光を感じながら描きたいのよ、自然のあるがまま、そのままをキャンバスに写し取りたいって思わないの? 姉さん」
「もちろん思うわよ、思わない訳ないじゃないっ」
貴族の娘として屋敷外へ出るのを厳しく制限されているエドマ達が書く絵は、肖像画や室内の描写が多かった。戸外の絵を画題に取り上げたとしても、窓から見える風景を描くのがやっとだ。
「私だって巨匠ミレーのように農夫を書いてみたい。先程お会いしたムッシュー・マネのように、草原の中の風景を想像だけでなく描いてみたいに決まってるわよ」
「じゃあ!」
「無理よ……ずっと、ずっとお願いしてもそれだけは頷いてくれないのですもの」
「それなら私が!」
「やめて! あなたとお父様が話すといっつも喧嘩になってお父様の血圧が上がってしまうわ。今晩私が話す時に聞いてみるから」
「私だって冷静に話せるのに」
「話せた試しがないから言ってるの」
「むぅ」
唸ってまた頬をふくらまし横を向いたベルトを、エドマは微笑んでその腕を取る。
「ベルトはそれよりもモデルの事を考えなさいな。お返事しなければならないでしょう?」
「エドマさま、その件はわたくしから」
「わかっています、でも心積もりだけはしてもいいでしょう? お父様から許可が出たらどうするの?」
「んー……実はあまり興味ないのよね。描く方が好きだもの。モデルのついでに絵の手ほどきしてくれたら考えないでもないけれど」
「そうよね、あれほどの絵を描く方だもの、間近で見てみたいわよね」
「モデルになっていたら描く所が見えない。姉さん、モデルになって。それで、私付き添いをして描いている所を見る」
「いやよ、私だって描いている所を見たい」
やって、いやよ、ときゃあきゃあと話しながら馬車に乗り込む。
カロンは二人が乗り込んだのを確認して馬車のドアを閉めると、よろよろとイーゼルを持ってきた下男を手伝いながら御者席に乗せ、自身も御者席に上がる。
そして室内からの合図を待って、馬車を走り出させた。
やれやれひとまず今日の重要な仕事は終わった、と思うと共に、屋敷に帰ってから今日の報告を主人にせねばならぬと思うと、カロンは一瞬緩んだ形の良い眉を、今度は反対にぎゅっと寄せて引き締めた。