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16 エドマはキリストに詫びた。

 



 エドマが嫁ぐ、と言った次の日からすぐに、婚姻の準備は進められた。


 アドルフは、あの日以来、すぐには顔を見せなかった。

 軍部の所属先が変わるとの事で引き継ぎに時間を取られているとの事だった。


 エドマとしても、どんな顔をして会えばいいか分からず、少しホッとした気持ちでいた。


 ベルトが、姉さん、と部屋をノックして入ってきた。


「どうしたの? ベルト」

「今日、久しぶりにルーブルに行かない? ずっと行っていないでしょう?」

「ええ、いいわよ。でも、鑑賞にいくだけなら」

「どうして? まだ描きかけの絵、あったでしょ?」

「ああ……ええ、またね」

「まさかっ、アドルフさま、やっぱり絵を描くのに反対なの? 姉さんが言えないんだったら私からっ」

「違う違うわ、もう、ベルトったら」


 ふわりと笑みを浮かべたエドマの顔を見て、ベルトが突然抱きしめてきた。


「なぁに、ベルト、子供みたいに」


 驚きつつも、ぽんぽん、と背中を叩くと、ベルトは姉の肩に頭を寄せたまま、くぐもった声で言った。


「だって……姉さん、やっと笑ったから」

「あら……そうだったかしら?」


 ふふっと笑ったエドマに、ベルトは身体を起こしてその大きな目をこちらに向けてくる。


「姉さんとこうしていられるのも、あと三週間でしょう?」

「そうね」

「……パリを離れるって」

「ええ、アドルフさまがロリアンの軍部に所属先が変わるそうで、そちらに」

「なんだか、姉さん……変わったわ」

「ええ?」

「大人の女性みたい」


 ベルトがなぜだか悔しそうに言っている姿をみて、エドマは思わず吹いた。


「あなたも私も実はもう大人の女性なのよ?」

「そんなの知らないわ」

「もう、ベルトったら」


 腕を組んでぷいっと横を向いたベルトを、エドマはほろ苦くも愛しく思う。


 ベルトがいつか結婚をする時は、

 私のようになるのかしら。

 いや、でも……

 きっと、そうはならないでしょうね。


 エドマはふふっと笑って、ベルトを促して部屋を出る。


「さ、ベルト、行きましょう? 私もベルトと一緒にいる時間を大切にしたいわ」

「そうね、たまには鑑賞もいいわよね」

「ええ、観ることも大事」

「そうそう、感じなきゃね」

「……お外でそういう事あまり言わないでね」

「はーい」


 ふふっ、と笑い合うと二人で階下へ下がって行く。下ではカロンが待っていた。

 既に用意されていた馬車に乗り込み、通い慣れたルーブルへの道を揺られて走った。



 ****




 ルーブル美術館の最寄り馬車置き場に着いて、二人で馬車を降りた時に、エドマはカロンが何も荷物を持っていない事に少しだけ目を細める。ベルトも先に走り出したりしないで、自分の隣を歩いている。


 一ヶ月前まではイーゼルと画材道具を入れた鞄を必ず持って来ていた。自分で持つ訳ではないとはいえ、視界に見えない道具達に一瞬目で探しそうになって、もう、必要ないの、と心の中で呟く。


 その事になにも心が動かないかと言えば、嘘になる。でも今は考える事ではない。


 あと、何度ルーブルにこられるかしらね……


 アドルフから連絡があったロリアンはパリから北へ二日ほどかけて行く小さな軍港だ。

 嫁げばなかなかにパリへ帰ってくる事が出来ないという事は、容易に想像できた。


 ベルトも今日は同じ気持ちでいるのだろう。いつもはエドマが少し黙って、というぐらい絵に対しての自分の考察を喋るベルトがゆっくりと黙って鑑賞している。



『葡萄をもつ聖女』の前に立つと、以前模写したキリストに、見られてしまった。


 〝僕のこと、ちゃんと描かないで、去るの?〟


 と言われているようだった。


 あの魅惑的な瞳が、エドマを責める。


 〝ごめんなさいね〟


 エドマは、ただ、詫びた。


 すっと出てきた言葉を噛みしめる。


 心が離れている。

 もう私の心はこの絵を見ても絵筆を取ろうという意識がなくなってしまった。そして、キリストに責められても、謝る事が出来てしまう自分の心を噛みしめた。


 私の心は、もう。


「こんにちは、マドモアゼル・エドマ・モリゾ、マドモワゼル・ベルト・モリゾ」


 柔らかな声に現実に引き戻され、振り向くと、アンリ・ファンタン=ラトゥールと、エドゥワール・マネが揃っていた。

 マネも同様に挨拶をすると、少し顔の表情を緩めてエドマを見た。


「ご結婚が決まったとか。お喜び申しあげる」

「ありがとうございます。ムシュー・マネ」

「アドルフ・ポンティヨンに嫁ぐと聞いたよ」

「ええ、そうですが……」


 仮にも夫になる人の名前をマネに呼び捨てにされて、エドマは少しだけ眉をひそめた。

 まだ、夫婦でもない。父に言われて嫁ぐ、決められた結婚であるのに、マネに軽んじた様に言われて、良い気分にはならなかった。


 そんなエドマに気づいたのか、マネはこほん、と空咳を一つ付くと、すまない、と一言詫びを入れた。


「寄宿舎が一緒でね。まぁ、なんだ。あー、ポンティヨンくんによろしく伝えてくれ。名前を出せば分かる。おめでとうと言っていたと」

「はい、承りましたわ。ご学友ですの?」

「腐れ……いや、まあ、少しね。彼は学生の時から優秀だったよ。首席で卒業していったからね。私はちなみに落第生さ」


 マネが片眉を上げて笑うと、ラトゥールが珍しく横槍を入れた。


「また、変な事を。エドゥワールはわざ落第したんだよ」

「落第って?」

「ベルト!」

「だって知りたいわよ、ムシュー・マネは優秀な方よ? 絵の構図、絵の具の配合、どれも緻密に計算されているわ。とても他の教科で遅れを取る方には見えない」


 ベルトの物言いに、こんどはマネが目を開いた。


「モデルだけをしているのに、分かるのか?」

「馬鹿にしないでほしいわ、行き帰りのキャンバスを見ていれば分かるに決まっているじゃない」

「驚いたな……」


 マネは自分の赤毛色のあご髭を触りながら、ベルトを初めて見たような目で眺めた。

 その心底驚愕している様子を見て、エドマは静かにマネの前に立った。


「お願いがあります、ムシュー・マネ」

「何か?」

「妹の、ベルトの事を、モデル兼画家として見てやって頂けないでしょうか。モデルだけではなく」

「絵を見ろという事か?」


 少し鼻白んだように言うマネに、エドマはいいえ、と首を振った。


「画家として接してほしい、というだけです。教えてほしいと請うているわけではありません。ベルト・モリゾはこれからの画家です。男とか女とか関係なく、一画家として見て頂きたいのです」


 本当はフランスの画壇を背負って立つ女流画家になりうる、と言いたかったが、マネ自身の矜持を悪い方向でくすぐる可能性があったのでやめた。

 身内自慢とも思われてもいけない。


「ベルト嬢は素敵な画家だよ。僕は模写の絵も沢山見させてもらって、またサロンで出会った絵を見てもそう思う。出すたびに新たな線を描いていて、とても将来有望な画家だと思うな」

「ムシュー・ラトゥール……」


 エドマがマネの隣を見ると、緩いウエーブした髪の下から柔らかく温かな眼差しが優しく瞬き、頷いていた。

 マネといるとほとんどにこにこと笑って話す事のないラトゥールの言葉に、感謝の眼差しを向けると、マネはまた、ふむ、とあご髭を撫でる。


「君がそんな風に言うのは珍しいから、これは本物かもしれないね。何かあればモデルの時に持って来なさい。アドバイスぐらいなら出来るかもしれない」

「ちょ、私は別に」

「ありがとうござます! ムシュー・マネ! 」

「姉さんっ」

「ベルト、こんな機会無いわ。指摘を受けてどうするかは貴女が考えればいい。素晴らしい画家は素晴らしい審美眼を持っていらっしゃる。その目で絵を見て頂くのも勉強よ」

「……分かったわよ」


 ベルトはぶすっとしながらも頷いた。


「すみません、いろいろと、足りない妹ですが、これからもよろしくお願い致します」

「彼女が一風変わっているのは、モデルをやってもらっているから分かっているよ。心配なさらぬよう。画家はえてしてそんなものだ」

「ありがとうございます。ムシュー・マネ」


 これで少しだけベルトの画壇への道が広がった。そう思ってホッとした所に、何も分かっていないであろうベルトはそれよりも、と目を輝かせてラトゥールに迫っている。


「ムシュー・ラトゥール! ムシュー・マネの落第の話を聞きたいわ! 教えて下さらない?」

「ベルト! 失礼よ!」

「いいじゃない、姉さん、絶対なにかあったのよ。そうでしょ? お二方!」


 無邪気に笑ってせがむベルトを好ましく思っているのか、紳士二人はにっこりと笑って頷いた。


「構いませんよ、別に自分では恥とは思っていないしね」

「ははっ、確かに。マドモワゼル・ベルト。ムシュー・マネはわざと落第したのですよ」

「わざと? なぜ?」


 エドマもなぜわざとなのか不思議に思い、マネを見ると、マネは紳士にあるまじき顔でくくっと笑った。


「私が入っていたのは海軍の寄宿舎でね。良い成績を収めたら自動的に仕官だ。仕官したくなかったから落第したのだよ」

「それも二度もね」

「おかげで家の者も呆れ果てて放置してくれたのでね。助かったよ」

「まあ!」


 と絶句したエドマの横で、ベルトが、わかったわ! と嬉しそうに声を上げた。


「絵を描きたかったから仕官出来ないようにわざと落第したのねっ! すごいわっ! それをやってのけるのが凄い!!」


 ベルトの手放しの賞賛にマネはニヤッと笑って黙って頷いた。ラトゥールは、本当に凄い男だよ、この人は、と柔らかく笑っている。エドマはその光景に胸に手を当てて微笑んだ。


 ベルトはきっと、この方達と一緒に画壇に上がっていくことが出来る。三人の笑い合う姿を見て、本当に、心の底からよかった、とエドマは思った。






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