15 エドマ
はっと気がつくと、エドマはベッドに横たわっていた。見知った侍女の顔が見え、エドマさまっ、と声を上げて、奥様を呼んで参ります! とすぐに視界から消えた。
ぼんやりと見るともなしに天井に目を向ければ、見慣れたアイボリーの天蓋の布地。
ここが自分の部屋の中だと認識する。
コルネリーがすぐに部屋へ入ってきて、何も言わずにエドマの額にキスをした。
こつん、とエドマと額を合わせ、小さく神に祈りを捧げた母はもう一度キスをすると、雨にあたって身体が冷えてるの、風邪を引くといけないから、お湯につかりなさい。と柔らかな声音で言った。
そして侍女が二人掛かりで湿った青色のドレスを脱がすと、既に温められていた浴室にエドマを入れる。バッスル、コルセットを緩めて脱がせてくれた辺りで、あとは、じぶんで、とぽつりと言った。
「分かりました、エドマさま。側に控えております。何か……何か足りないものがおありでしたらお声かけくださいまし」
この浴室に足りなかったものなど今までで一度も無いが、そう言わせてしまう顔なのだろう。エドマはただ、わかったわ、と返事をし、一人になった。
全ての着衣を脱ぎ捨て、バスタブに浸かると、足先が痺れるような感覚になる。湯が熱く、自分の身体が冷え切っている事に気がつく。
折り曲げた膝小僧の上に乗せた右手が赤く血が巡るにつれ、ジンジンと痛み出した。
見れば、人差し指の爪が割れて少しだけ血が滲んでいる。
エドマは、震える左手で右手を抱えた。
人を、叩いてしまった。
初めて人を。
アドルフは黙って受けていた。
ただ黙って。
手を握って止めさせたのは、多分、爪が割れたのに気がついたからだ。
柔らかく止めた感触に、エドマは崩壊したのだ。
パタタ
音と共に、浴槽の水面に小さな波紋が広がる。
「酷い人……」
エドマをえぐりながら、エドマの激情を受け止め、エドマの手を気遣う。
本当に酷い人間ならば、捨て置く。
優しい人間ならば、慰める。
アドルフはどちらでもなかった。
全てを受け止め、エドマを掻き抱き、全てを吐き出せた。
アドルフは厳しくて、でも、温かい人で。
パタタ パタタ
水紋が二重、三重と広がって消える。
でも、私は失ってしまった。
私は、私の拠り所を。
私の一番の友達を。
私の絵。
膝小僧に額をつけてエドマは泣いた。
声を殺して泣いた。
酷い人、酷い人と心の中で叫び、
いつまでも、いつまでも、
泣き続けた。
****
長く時間がかかっているのを心配して、侍女がエドマさま、大丈夫ですか? と声をかけてきた。
エドマはパシャンと顔を一度だけ洗うと、もう、出るわ、と応えて浴槽から身体を上げた。
身体を拭いて寝間着を着させて貰い、部屋に戻ると母が居た。
「今日は一緒に寝させてもらうわ」
にっこり笑って言う母に、子供じゃないんだから、いいわよ、と言うと、私の子供なんだからいいじゃない。と母は微笑んでもうベッドの中に入って行った。
エドマはそれ以上は何も言わずに一緒にベッドに入った。
母と隣同士で寝るなんて、幼少の時以来だ。
エドマが隣に入ると、母は片肘をついて、エドマの髪を梳いた。
何度も、優しく。
何も、言わずに。
もしかしたら、母の母もこうしたのかもしれない。
特別な、時に。
「お母さま……」
「なぁに?」
エドマはそっと目を瞑った。
「アドルフさまに、嫁ぐ……わ」
「……そう」
母は髪を梳く手を緩めず、しばらくそのまま梳いた後、エドマの額にキスをした。
そのままこつん、と額を合わせると、頬にキスをして、身体を離し、隣に横になった。
エドマは目瞑ったまま、そのままでいた。コルネリーがやがて深い息を吐いて、眠っていったのを肌で感じながら、くるりと母に背を向けて枕に頬を埋める。
つらつらと流れてくる涙は仕方がない。
泣くのは今だけ。
今だけよ。
エドマは自分の夢との別れをそう言い聞かせて目を閉じ、滲み出る筋を片手で隠した。




