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12 エドマは雨音と共に堕ちる

 


 アドルフ・ポンティヨンとの婚約披露を兼ねた晩餐会は、エドマの気持ちとは裏腹に粛々と進められた。

 いつの間に用意されたのか、当日は新しいドレスが用意されていた。袖を通してみると普段とは違う着心地に、モリゾ家お抱えの仕立てでは無い事を知った。

 きっとアドルフからの贈り物なのだろう。それをエドマに声をかけずに黙っている所に、エドマの事をガラス細工のように家の者達が気遣っている事も知るが、エドマ自身も黙っていた。

 有難いとも、申し訳ないとも、思える心境ではなかった。


 このままなし崩しに結婚するの……?

 私の意思など、関係なく?


 鏡の前に立つ女は美しく装われていた。

 オフホワイトシルクの胸元が開いたドレスは所々に光の加減で金属のように輝きを放つドレスで、ボディスと後ろに垂らされたトレーンはベルベットの蒼。

 高く結い上げられた栗色の髪には真珠の髪飾りが散りばめられ、同じく真珠の大玉の耳飾り、ネックレスも見た事の無いものなのでこれもアドルフからの贈呈なのだろう。


 あまり食欲がなく血色の良くない顔は侍女達の化粧でかき消されていた。少しだけ浮き上がった頬骨を誤魔化すようなチークの濃さに、衝動的に顔をぬぐいたくなる。

 しかし、侍女が片時も離れず、エドマが少しでも変な動きをしようとすると、エドマさま、と手を取られた。


 やがてカロンが呼びに来て、侍女に(うやうや)しく手を取られ、自室から階段の下へと降りて行く。すると階下には婚約者であるアドルフが待っていた。


「こんばんは、マドモワゼル・エドマ。お美しいですね」

「こんばんは、ムシュー・ポンティヨン」


 無機質に答えるエドマに、片眉を挙げたアドルフは、少しだけエドマからの二の句を待ったが、それ以上何も言わないエドマに、気にする事は無く、エスコートしても? とだけ聞いた。

 エドマは黙って右手を差し出した。

 アドルフは朗らかに笑って、さっとその手を自分の左腕に当てるようにエスコートした。

 ゆっくりとエドマに気遣うように歩き出す。


 無感動に歩くエドマは大広間に二人で入ると、招待客から口々に祝辞を受けた。

 ごくごく身内で、と言われた晩餐会は両家の近い親族だけの顔合わせのようなものだった。

 大食堂で一堂に会して行われた晩餐は主催者であるティビュルス・モリゾの挨拶で始められ、アドルフの父母との紹介もあり、和やかに進められた。


 アドルフの父ジェルマン・ポンティヨンはアドルフより細身の長身でやや神経質そうな顔立ちで鋭い目をした老軍師だった。聞けば現役の海軍艦長で、自分は机仕事が苦手でね、そういうのはもう長男に家督を譲って任せたと派手に笑っていた。

 アドルフの母、アドリエンヌ・ポンティヨンはアドルフに似て柔和な表情の少しふくよかだが美しい女性だった。あまり喋らずにこにこと笑っている。

 アドルフの兄、フランツ・ポンティヨンは急務があり欠席との事だった。現在は軍部の重要なポストにいてほとんど家にも帰って来ないらしい。

 家族が揃うことが奇跡のような家でしてね。とアドルフの父は派手に笑った。


 コルネリーの柔らかなピアノの披露も終わり、宴もたけなわになった所で、アドルフが少しだけ二人で話してもいいか、とティビュルスに聞いた。

 もちろん、久しぶりにゆっくりと話したらいい、とティビュルスは頷いたので、アドルフはマドモワゼル、とエスコートをした。


 エドマは、ただ、手を預けた。


 大広間から庭園を抜け、中央にある四阿(あずまや)に着いた時には、ガーデンテーブルにキャンドルの明かりがついていた。

 人の気配は無いのに既に火が灯されている事にエドマは眉をひそめた。

 アドルフとエドマが二人でこの四阿に来るのはもう屋敷の者の中で予定調和だったのだ。

 その事に気づききゅっと唇を噛むエドマに、アドルフはベンチに座らせてゆっくりと微笑みながら言った。


「ご機嫌が斜めですね、マドモワゼル」

「……良い訳が無いのは、とうにご存知でしょ?」

「お、流石にお話し下さいますか。有難い」


 少しだけ面白そうに言うアドルフをエドマは(にら)む。


「私は結婚に承知していないと言ったのに」

「お父様が進められた?」

「私の意思など関係なく」

「もう社交界に()れを出されましたからね」


 エドマはぎゅっと扇子を握った。

 アドルフは父が出した体で言っているが、本当はポンティヨン家も承知の事だ。父だけが急いだ訳ではないのはエドマから見ても明らかだった。だが、急いだ理由が分からない。


「何故そんなに急ぐの? もっと意思を確認してからでもよかった」

「あなたの意思が固そうだと思ったからです」

「私の?!」

「あと、苦しそうだったから、かな」


 何を、とエドマがアドルフを見ると、アドルフのはしばみの目がキャンドルの灯りでゆらりと揺れた。


「私は貴女と初めて会った時、貴女はベルト嬢と共に二人の画家とお話していた。その時に、苦しそうだな、と思ったのです」

「苦しそう?」

「二人の画家は、特に少し偉そうな髭面の男はベルト嬢しか見て居なかった。貴女はその場にいたが疎外されている様に見えた」

「そんな事……ないわ。お二人とも私ともお話なさいました」

「ま、それならばそういう事にしましょう。肝心な所はその次だ。私は初めまして、と貴女に言った、その後の言葉を覚えていますか?」

「……いいえ」

「私は素敵な絵を描かれるのですね、と言ったのです。貴女の絵を見て」

「……?」


 いぶかしげに若干の首を傾けたエドマに、アドルフは厳かに言った。貴女はその言葉にすぐに返答したのですよ、私に、と。


「〝ええ、妹の絵は勢いがあって私も好きです〟と」


 エドマはひくりと喉を鳴らした。

 何かが、剥がれる音がする。

 アドルフの言葉が、エドマから何か大事なものを引き剥がそうとしていた。


「私は貴女の絵を褒めた。本心で、ベルト嬢の絵よりも好みだったからです。でも貴女は私の褒め言葉を自分の絵ではなく妹の絵の事だと思って応えた。その時に私は思ったのですよ、貴女はもうずっと、ずっと前からベルト嬢の絵に屈服しているのだと」


 ドクッと冷えた心音が身体を震わした。

 喉がカラカラに乾いていた。

 否定する言葉を出そうと、口を開けるのだが、どんどんと激しくなる呼吸音しか出ない。


 自由奔放なベルトの筆は、いつのまにかしっかりとした芯のある筆になっていった。

 構図の取り方、何を魅せるか、何を魅せたら画面が映えるか、という基本的な技術に、ベルト自身の意思が入ってきた。


 白を基調とした絵を描きたい。

 女性の煌びやかさではなく、普段の女性のふとした仕草を表現したい。

 室内だけでなく外の、風や日光の当たる風景を描きたい。


 ただ好きで描いていたエドマと違って、自分の意思を絵に込める様になったベルトの筆は、より人を魅了する線となり構図となり、エドマとの差を広げて行った。


 そう、誰よりも自分が知っていた。

 誰よりも身近に居て、誰よりもベルトの絵をずっと見てきて、誰よりも、この世の誰よりもベルトの絵の価値を分かっているのは、誰であろうずっと側で一緒に居た自分だ。


 本当は知っていたのを、気づかない振りをしていたのだ。


 私だって、すぐに追いつく。

 私だって、やれば出来る。

 私だって。

 私こそ。


 描けば描くほど、差は広がるように感じた。


 絵画に向かう姿勢も、

 筆の勢いも、

 何もかも。



 エドゥワール・マネが声をかける、という事がどういう事かも、知っていた。


 ベルトだけに声をかけたのが、どういう事かも。



 いつのまにか流れ出した涙を、アドルフが拭おうと頬を手を伸ばして来たのをエドマは反射的にはねのけて、立ち上がり走り出す。


「エドマ嬢!」


 アドルフはすぐに後を追ってエドマの腕を捕まえると、エドマはまた手を払おうした。

 アドルフは今度は離さなかった。


 エドマはバシンとアドルフの頬を張った。

 アドルフは黙ってその手を受けた。

 いつの間にかぽつぽつと雨が降り出し、二人の衣装に水滴を垂らしていく。

 エドマは泣きながらまたアドルフの頬を叩いた。最初の時のように力強くもないその手は、震えていた。


 何故、私にきづかせたの!

 何故、蓋をしていた想いをあなたは!

 何故、あなたがえぐりだすの!


 言葉にならない想いが張り手となってアドルフに向かう。

 やがてアドルフが、もう、これ以上は、貴女の手を痛める、と低い声でエドマの手を掴んで止めると、エドマは叫んだ。


「ああぁぁぁぁっ!!」


 その慟哭を受け止めるようにアドルフがエドマを抱きしめた。

 エドマは叫びながらアドルフの胸を叩いた。何度も何度も。


 やがてだんだんと掠れていった声が途切れると、ガクッと全身の力が抜けた。


 アドルフが何か叫んだ気がしたが、エドマはもう意識を手放した後だった。









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