11 コルネリー
泣きながら居間を出て行ったベルトを見送り、コルネリーはまた、緩めた背中をソファに深く深く沈ませた。
背もたれに首を預け上を向き、目を瞑る。
ベルトに抉られた古傷は、また開かれ、血を流していた。
何度も何度も開かれた傷。
ピアニストとして生きる夢。
コルネリーは幼少の頃から気がつけばピアノを触っていた。
習いなさいと言われる前から、好きで触れていた。
一度聴いた曲を耳で覚えて弾くと、その才を見出した母が良い先生を探し出して付けてくれた。
何時間も何時間も、ピアノに向かうのは苦ではなかった。
気がつけば神童ともてはやされて、満更でもない自分。
幼くして技巧があり、大人顔負けのピアノが弾ける、という噂を聞きつけた貴族達が、我も我もと演奏の依頼を持ち込んできた。
母と共に有頂天になって依頼を受け、賞賛を浴び、ピアニストとしての地位を築いてきた、つもりだった。
年頃になり、舞踏会や晩餐会でそれとなく誘われる事が多くなっても、コルネリーは相手にしなかった。
ピアニストとして独り立ちするのに、結婚などしている暇は無い。
ピアノが恋人。ピアノに触れていれば何もいらない。そう思っていたのだ。
見兼ねた父が婚約の話を持ってきた。
そう、まるで今のエドマの様に。
もちろん嫌だと言った。
ピアニストになると、父母の前で宣言した。
父は一笑に付した。
『貴族でピアニストなど。しかも女がなるなどと、お前は何も分かってはいない』
何を、と思った。
笑われる事ではない、真剣なのだ。
『私は、この手で、この技術で、この音で、ピアノを通じて人々を魅了させたいのです』
鼻息荒く言い放ったコルネリーに、父は激怒した。
『そんな平民のような事をさせられるかっ。ピアニストとは、職業音楽家とは、お前のように好きな曲だけを弾く趣味に毛が生えた者ではないんだ。金を稼ぐというのが、お前は何もわかってはいない!』
父はぐっとコルネリーの腕を掴んだ。
『演奏だけで食っていく? 馬鹿を言うな。
バッハが、モーツァルトがベートーヴェンがなぜ作曲も兼ねたのか分からないのか。自国だけでなく、他国を行脚したのが分からないのか? 食えないからだよ。演奏だけでは食べていけないからだ。作曲し、演奏をし、演奏譜を売りさばかなければ、生きていけないのだよ!』
そう言って父がバサリと目の前に突きつけた書類を見て愕然とした。
コルネリーの演奏依頼の受注と、それに対しての対価が明記されていた。
微々たるものだった。
それもそうだ、一日中演奏している訳ではなかった。
舞踏会、晩餐会の余興。
毎日ではない。
週に二、三回、あるかないか。
今までコルネリーがやってきた事は、趣味に少しだけ毛が生えた事だったのだ。
コルネリーはただ、演奏を磨く事しか考えていなかった。
良い演奏をすれば、良い対価が貰えると思い込んでいたのだ。
現実はそんな甘いものではなかった。
一ヶ月の演奏の稼ぎをかき集めても、ドレス一枚分の稼ぎにしかならなかった。
演奏家として生きていく為には、パトロンが必要だったのだ。
そしてコルネリーにとってパトロンにあたる両親は、コルネリーに結婚を望んだ。
コルネリーの夢は、絶たれのだ。
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重いため息を吐いてコルネリーは目を開けた。身体を起こすと、黒光りするピアノが視界に入る。
「それでも、私はピアノと共に生きているわ」
モリゾ家に嫁ぎ、子育てに奔走をし、請われれば演奏をし、今に至る。
一番下の息子ティビュルス二世が寄宿舎に入ったのをきっかけに、また、毎日ピアノに触れる時間が出来た。
好きな曲を好きなだけ追求する。
技術を上げて次のレベルの曲に移行する。
世に溢れている音楽の、美しい調べを、自分の手で奏でていく。
コルネリーは満足していた。
心に傷はあれど。
たまに開いて血は流れるけれども。
夢は絶たれても、この生き方に、自分が進んできた道に、後悔は無かった。
エドマもきっと、とコルネリーは思う。
あの、エドマならば。
ベルトとは違う、ベルトには無い、周りを見ることが出来るエドマならば。
コルネリーは、居間に続く食堂の陰にいるであろうアンナを呼んだ。
案の定アンナはすぐに、はい、奥様、と姿を現した。
「熱い紅茶を持ってきてくれるかしら。それから……手紙の用意もお願い」
「かしこまりました、奥様」
コルネリーの張りのある声に、アンナはにこやかに微笑むと、さっと居間から去り、先に手紙の用意をしてローテーブルに置くと、また紅茶の用意をしに下がっていった。
コルネリーは、筆を走らせた。
自分の想いが熱い内に、この想いと共にエドマを幸せにする為に。
書き上げた手紙に丁寧に封蝋をすると、紅茶の給仕と共に下がるアンナに使いを頼んだ。
急いでこれをポンティヨン家に届けてほしい、と。




