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10 ベルトは母と対峙し、震えた。

 


 コトリ、という音で隣の部屋のドアが開いた事を知り、ベルトは急いで自分の部屋を出た。


「姉さん、待ってたわっ、ムッシュー・マネの事で思い出したの、ちょっと聞い……どうしたの、ひどい顔……」


 ベルトの声に、なんでもないわ、と憔悴しきった顔で言うエドマを見て、カロンに視線を投げるも、カロンは首を横に少しだけ振り、何も言わない。


「ちょっと横になりたいの。夕飯まで一人にしてくれるかしら」

かしこまりました」


 誰に言うでもなく明後日の方向を向いて言ったエドマにカロンが応じ、目の前でドアは閉められる。


「ねぇ、カロン、どうしたの? あんな姉さん、初めて見たわよ?」

「私からは何も言う事はありません」

「……わかったわ、自分で確かめる」

「ベルトさま、エドマさまに無理は」

「しないわよ。そこまで馬鹿じゃない。あんな憔悴しきった人に、聞くわけないじゃないっ」


 そう言ってカロンの脇をさっと走り抜けた。


「ベルトさま!」

「カロンは、そこに居て! 大きな物音がしたら許可なく入って!」


 走りながら言った言葉にカロンがこちらに来る足を止めた。ベルトは頷くと、もう振り向かずに走って、中央の階段を駆け下りて行った。



 居間からはピアノがずっと鳴っている。

 二時間前に聞いたバラードとは打って変って激しい曲だ。同じショパンだというのに。


 そのあまりにも激しい曲調にベルトは居間の入り口で足を緩めた。

 手元が見えなくても左手が激しく動いているのが分かる、〝革命のエチュード〟だ。

 ピアノペダルを踏む音の激しさに、ベルトは眉をゆがめた。

 最後の和音も激しく叩いた母に、思わず声をかける。


「激しい曲程、冷静に、じゃなかったの? 母さま」


 額に汗をかきながらピアノの前に(たたず)む母は、ピアノの脇に置いたハンカチで汗を拭うと、大きく息を吐いた。


「そうね、今日の演奏は演奏者として失格だわ。でも、まぁ、仕方ないわ」

「……何があったの? 姉さんと何があったの?」


 姉の憔悴しきった顔、母の激しいピアノ。

 常ならぬ二人に、ベルトはコルネリーに詰め寄る。

 コルネリーは黙って綺麗なもう一枚のハンカチを出し、ピアノの鍵盤をなぞるように拭く。その手は柔らかく慈しみに満ちている。あれほど叩きつけるように弾いた鍵盤を労わるように。何度も丁寧に、黒と白に染まった細長いキィを拭いて蓋をした。


「……エドマは今、人生の岐路に立っていて、私は先にエドマと同じ立場を歩んで来た身として、話をしたわ」

「なんて言ったの?」

「結婚を勧めたわ、というか、もう決まったことだから」

「なん、でっ」


 コルネリーの言葉に、ベルトは叫んだ。


「何故お母さまは反対しないの?! 何故お父さまに言ってくれないのよ、あんなに嫌がっているじゃないっ」

「もう決ま」

「決まってたって言えるじゃない! お母さまだって同じ立場だったじゃない! 一番姉さんの気持ちが分かるんじゃないの?!」

「わかるわよ!!」


 コルネリーの鋭い言葉に、ベルトはハッと前のめりになったいた身体を引いた。

 コルネリーがこんな大声を発するは、初めてだった。


 コルネリー自身も言ってしまった言葉に唇を震わせ、ガタッと黒いピアノ椅子から立ち上がると、近くのソファにドサッと身体を投げ出すように座った。右手を額に当て、深く深く呼吸を繰り返している。


 やがて母は、絞り出すように言った。


「……それでも、私は嫁いだ。この家に、モリゾ家に。そして、イヴや、エドマ、あなたやティーを授かった。幸せなの、幸せなのよ? それをエドマにも掴んでほしいと思うのは、母の勝手な思いかしら?」


 低く掠れた声だった。


 幸せと言いながら、毎日ピアノを弾き。

 幸せと言いながら、苦く笑う。


 ベルトは横を向き堪らず吐き出すように言った。


「そんな顔をして、なにが幸せなのよ!! 私は嫌よっ」

「ベルト」

「自分を偽ってまで幸せになんかなりたくない」

「ベルトッ」

「私は結婚はしないっ! 絵と共に生きるのよっ!! 姉さんだってそうよっ! 姉さんだって、私と同じ」

「あの子はあなたとは違う!」


 コルネリーはピシャリと言い放った。

 姿勢を崩していた母はいつのまにか背筋を伸ばしてベルトの方を向いている。

 その目は爛々と光り、ベルトを捕らえていた。


「それだけは間違えないで。双子のように今まで育ってきたけれど、あなたとエドマは違う人間よ。絵の才能も明らかに違う。あなたはあなたの幸せを追求してもいい。でも、エドマにはエドマの幸せがある。それを自分と一緒くたにして語らないで。それは違う」


 一息に言ったコルネリーはベルトの目を捕らえると、一言ずつ、噛み砕く様に言った。


「あの子は、あなたとは、違うの」


 その言葉に、ベルトは身震いした。

 褒め言葉、と捉えてもいい言葉は、ベルトには残酷に聞こえた。


 母は明確に言ったのだ。


 エドマには才能が無いと。


 芸術を(たしな)む者として、ずっと二人の絵画を間近で見てきた者として、はっきりと言った。


 ベルトは言葉を無くした。

 ただぶるぶると手が震えた。

 いつのまにか涙が溢れていた。


 悔しかった。

 まるで自分が言われたみたいに、悔しかった。




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