1 エドマは出会う
「ベルト、まってベルト」
「姉さん、早く早く! いい場所取られちゃう!」
はしゃぐような声を出しながら妹が馬車から飛び出していく。それを見たエドマは従者の手を借りてゆっくりと降りる。
薄い空色のツーピースドレスの裾を気にしながら降りるエドマに、従者は恭しく日傘を渡しながら、画材が入ったカバンを持つ。
二人分のイーゼルは従者とともに来た下男がよれよれと後に続いた。
「カロン、あの子大丈夫かしら」
あきらかに重量オーバーなものを持たせている少年のような下男。その少し後ろを歩く従者・カロンにエドマが聞くと、カロンはすまして問題ありません、と言った。
「カロン、私がカバンを持つからあなたイーゼルを……」
「お嬢さま、彼の仕事を取ってはなりません。お嬢さまにその様にされ、カバン等々持たせたとしたらば、私も彼も叱責され、彼に至っては即クビです」
「……悪かったわ」
自分が言うべき事では無かったと、肩を落とした主人を見て、カロンはにこりと笑う。
「お嬢さまのお心遣いだけで私共は嬉しいものですよ、さ、ベルトお嬢さまを探しに行きましょう」
「そうね、でもたぶん今日もあそこよ」
エドマは日傘を差し、左前方に目を向けた。
「「ピエール・ミニャール『葡萄を持つ聖母』の前」」
ですね、とカロンが続けた。
エドマはくすくすと嬉しそうに薄いベールの手袋で口をおおって笑う。
画材を今か今かと待っているだろうベルトを想像しながら、夏の日差しからだいぶ和らいだ初秋の道を、エドマと従者二人は歩きだした。
パリの中心部に広大な土地を使って建てられたフランスの美と権威の象徴、ルーブル美術館を目指して。
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「遅いわよ! 何やってたのよっ」
「遅くないわよ、普通に歩いてきたらこのぐらいよ」
「日暮れ前には帰らなければならないんだもの、貴重な模写の時間がなくなっちゃうわよ〜〜、はいっ、ちょっとかして、もたもたしない!」
モリゾ家に雇われて日が浅い下男がもたもたとイーゼルを立てようとしているのを見て、とにかく早く描きたいベルトは自分のイーゼルを取り上げテキパキと組み立てて行く。
実際どの様な角度から絵を模写するかは画家本人しか分からないので、イーゼルの組み立てや位置の角度などはもう自分でやりたいものだ。
オロオロしている下男をみて、エドマは先程のカロンの言葉を思い出し、じゃあ、私のを組み立ててくれる? と下男に一声かけた。
下男はほっとした顔をしてぺこりとお辞儀をした後、エドマ用のイーゼルを迷いながらも正しく組み上げた。
ありがとう、と声をかけて彼の名前を知らなかった事に気づき、あとでカロンに尋ねようとエドマは心にとめる。
そしてベルトと少しだけ離れた隣にイーゼルを置いた。ベルトはもうザッザッとクロッキーで大まかな配置をし始めている。
エドマは、ベルトの勢いのある線があっという間に構図を決めていくのを相変わらず早い、と惚れ惚れと見て、よし、私も、と簡易な椅子にすわり、目の前のマリアとキリストの母子像に相対した。
『葡萄をもつ聖女』を模写の画題にしたのはベルトだが、エドマもこの絵が好きだった。
柔らかな微笑みのマリアと共に描かれているキリストの、ちらっとこちらを見ている表情が好きで、このキリストと目が合うといつもくすっと笑ってしまう。
〝この葡萄はぼくの。あげないよ?〟
と言われているようで、
(誰もあなたの葡萄はとらないわよ)
と語りかけるのだが、
〝ほんと? ほんとに?〟
といたずらっ子みたいに語りかけてくる目なのだ。
くすくすと笑っていると、姉さん、何も描いていないわよ、と横からベルトの声。
ああ、そうだったわね、とキリストから目を離すと、エドマは全体のバランスを見る。そして、静かにスケッチブックにクロッキーで線を引き始めた。
しばらくただ黙々と素描をし、大まかな色付けをし始めた時だった。
「こんにちは、マドモワゼル・モリゾ。今日もやっているね」
少し遠慮がちにかけてきた声に、エドマは振り返った。
アーモンド色の長い前髪を耳にかけてにこりと笑っているのは、アンリ・ファンタン=ラトゥール。このルーブル美術館で知り合った模写仲間だ。
僕はあまり社交的ではないのだけど、余りにも一緒になるからつい声をかけてしまったよ、と照れくさそうにはにかんだ笑みに、警戒を解いて談話したのはつい半年前の話。
女性が絵を描いているのは珍しくよくちらちらと鑑賞する人々に見られはするが、自分達を見るのでは無く、純粋に絵画の話をする彼に、エドマもベルトも敬愛の念を持っていた。
「ムッシュー・ラトゥール、こんにちは」
筆を置いて立ち上がり、右手を出すとラトゥールは触れるか触れないかのキスを手の甲にし、そっと微笑んだ。
「マドモワゼル、以前お話した彼を連れて来たので、よかったらご紹介したいのですが」
そう言ってラトゥールが紹介しようとした男性はこちらを見ずにベルトの絵を見ていた。ベルト自身もエドマとラトゥールが挨拶をしているというのに、見向きもせずにスケッチブックに色をのせている。
「ベルト、失礼よ」
妹に非礼を詫びさせようと声をかけると、男性は静かに人差し指を自身の口につけてわずかに首を横に振った。
その独特の雰囲気に押されてラトゥールを見ると、ラトゥールはにこりと笑って頷くと、しばし待ちましょう、小声で応えてくれたのでエドマも頷いて、また再び絵筆を持って模写を再開した。
二人の筆の区切りがついた頃を見計らって、ラトゥールがそろそろお茶でもしませんか? と声をかけてくれた。
「お待たせして申し訳ありません、ムッシュー。エドマ・モリゾと申します」
カロンが差し出してくれたハンカチで手を拭き、改めて先ほどの非礼を詫びたエドマに、赤毛の男は手の甲に接吻をし、エドゥアール・マネと申します。と言った。
「ムッシュー・マネ? もしかして、『オランピア』を描かれた?」
「ええ、酷評されましたが」
「私は良いと思ったわ! ムッシュー・マネ、ベルト・モリゾです。先程は失礼しました」
マネの謙遜に明るく応えて右手を差し出したベルトに、マネは軽く接吻をして、まじまじとベルトの顔を見て、ふっと笑った。
「上手い描写をされる方がこんなに美人だとは思わなかった。女性でここまで描ける方はいない」
「モリゾ姉妹は二年前からサロンに出品されている逸材ですよ、ムッシュー」
横からモリゾ達を紹介してくれたラトゥールにマネはにっと笑うと、マドモワゼル、とベルトのきらびやかなオークブラウンの瞳を見て言った。
「もしよろしければ、私のモデルになって頂けませんか?」
目を見開いて驚くベルトと微笑んでいるマネを見て、エドマは、少しだけ息を呑んだ。
まあ、素敵じゃない、ベルト! と掛けた声の色が、変わらないように気をつけながら。